坂本龍馬は明智光秀の子孫だった?夜明けを運んだ男の真実!

歴史上最も人気のある偉人といえば、真っ先に名前の挙がる人物。坂本龍馬。色々な小説やマンガに出ていることからも人気の高さがうかがえます。その生涯には謎も多く「誰が殺したのか?」を最大の謎として解明されていません。今回は明智光秀との関連を探りながら、龍馬の素顔を探ってみましょう。

坂本龍馬の活躍をおさらい:少年時代

高知県高知市で生まれ、いじめられていた甘えん坊。

父:坂本八平、母:幸の間に5人兄弟の末っ子として誕生した龍馬。小さい頃は、直柔(なおなり)と呼ばれていました。この時代は、年齢を重ねると改名していく人が多かったようですね。龍馬が生まれる前の晩に母:幸が「龍が天を飛ぶ夢」を見たので、改名時に龍の字を入れたともいわれています。

坂本家の本家は才谷屋(さいだにや)という商いを営む家で、父:八平はそこから分家して郷士の株を取得した下級武士でした。いつも「下級武士の子」というレッテルをはられ、周りの子供たちからはいじめられていたそうです。家に帰ると、末っ子だった龍馬は家族や使用人から甘やかされていました。身の回りのことも自分では何もやらない甘えん坊だったようです。

12歳になった龍馬は、楠山塾へ通い始めたがすぐやめてしまいました。「落ちこぼれで、勉強についていけなかった。」「上級武士の子とケンカになり、父に辞めさせられた。」等の説があります。その後、剣術道場・日根野道場へ通い始めると、ここでは朝から晩まで熱心に稽古に励んでいたといいます。

坂本龍馬の活躍をおさらい:青年時代

人生を変えた黒船来航

#浦賀市マンホール #黒船ペリー

Yasuyo Suzukiさん(@yasuyo.suzuki)が投稿した写真 –

剣術に打ち込んでいた龍馬は、剣術修行の為、江戸三大道場の一つである北辰(ほくしん)一刀流の道場へ入門しました。この玄武館は北辰一刀流開祖である千葉周作の道場で、その弟・千葉定吉のもとへ入門したと言われています。

龍馬が江戸で修行に励み始めてから2ケ月後、浦賀沖に黒船がペリーを乗せて来航。土佐藩からの命令で、龍馬は品川に出て沿岸警備に付いていました。その頃、家族に宛てた手紙に「もし戦争になれば異国の首を討ち取って土佐へ帰ります。」と書いています。その半年後、龍馬は佐久間象山の元に入門し大砲の技術を教わるようになるが、象山が投獄されてしまい土佐へ帰る事となってしまいました。

土佐へ帰ると、河田小龍という人物と出会います。儒学や蘭学を学んだという土佐を代表する知識人です。小龍は蘭学を通して海外事情通だったため、帰郷していた龍馬から「今の時勢で、安穏と書画に耽っている場合ではない。我々のような若者が悶々と日々を送る中、今後どうするべきかどうか教えて欲しい」と教えを請われるようになります。その会話の中、龍馬は今後の自らの道をはっきり見出しました。

坂本龍馬の活躍をおさらい:動き出した人生

脱藩からキーパーソンとの出会い

自分の目指す道は見えているが、そこにたどり着くには土佐でくすぶっているわけにはいかない。そう考えた龍馬は、脱藩という手段にでます。脱藩とは国を捨て、家族を捨てること。故郷を裏切り逃げ出すのですから、捕まれば殺されるかもしれない。そこまでしてでも、龍馬にはやらなくてはいけない使命のようなものがあったのです。

1862年に脱藩した龍馬は、江戸に到着してから、かつて稽古をしていた小千葉道場にお世話になっていました。その時期に勝海舟という人物と出会います。龍馬にとってキーパーソンになる人物です。当時、姉・乙女に宛てた手紙の中でも「勝海舟は日本第一の人物」として紹介しています。この頃から龍馬は海舟と師弟関係にありました。

その後、志を同じくした仲間と亀山社中という名前で貿易会社を立ち上げます。海運業で才能発揮した裏には、本家:才谷屋の血や、海舟の元で学んだ航海術が役立ったようです。

会社経営をしながら奔走していたのは、仲の悪かった長州藩と薩摩藩の仲立ち。両藩もプライドが先立ち、意地の張り合いが続いていました。そんな両藩を倒幕という目的でまとめ、両藩の顔を立てながら薩長同盟を成立させました。

坂本龍馬の活躍をおさらい:偉業

濃密な人生

薩長同盟を成立させた同時期に、伏見奉行所の役人に襲撃された寺田屋事件が起こっています。 この襲撃で手を負傷してしまった龍馬は、妻:おりょうの働きによって薩摩藩士に救出されました。その時のケガが原因で、写真撮影では左手を隠していることが多いのではといわれています。

西郷隆盛の勧めにより刀傷の治療のため、おりょうと一緒に薩摩の霧島温泉へ向かった療養の旅が「日本最初の新婚旅行」といわれています。 その旅は83日間という長旅でした。

その頃の亀山社中は、土佐藩の組織となることが決まり、海援隊と名前を変え私設海軍・貿易会社として活躍しました。仕事を通して見えてきたのは、江戸幕府の弱さです。外国からの要求を拒絶する力を失い、国民の信頼も失われてきていました。

ここで龍馬は「江戸幕府を倒して、新しい国を作り直すことが必要。」と考え始めました。そして、同じ考えの有志達が集まり大政奉還(政権を幕府から返上し朝廷に移す)を成功に導きます。その時に船の中で練った新国家体制の基本方針が、船中八策だといわれています。

何もかもが最新!坂本龍馬の有名エピソード

龍馬を支えた女たち

龍馬が愛した女~お龍 写真が本当かわかりませんが、かなりの美人だったようです。

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幼馴染の平井加尾。和歌をたしなむ才色兼備、坂本乙女と一絃琴を習う稽古友達でした。龍馬の初恋の人だともいわれています。後の話では、加尾は龍馬と結婚するつもりだったという話もあります。

千葉道場にいた頃出会った千葉佐那子。龍馬と婚約していたといわれています。千葉定吉の次女。馬術と剣術に優れた、北辰一刀流小太刀免許皆伝の女性剣士。龍馬の死後一生独身で過ごしました。墓石には「龍馬室」と彫られています。

妻になったおりょう。京の勤王医師楢崎将作の長女。西郷吉之助を仲人として結婚。龍馬の死後は、土佐の坂本家へ預けられていましたが、家族との不和が原因で妹の嫁ぎ先へ。その後は寺田屋を頼りに京へ行き墓守をし、東京で暮らした後再婚。墓には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれています。

長崎の芸子お元。長崎滞在中には色々な所へ連れまわしていたそうですが、詳細は分かっていません。現地妻や愛人といわれています。その他にも長崎では芸子に手を出していたようだが、名前すら残っていません。そうとうモテていたようですね。

何もかもが最新!坂本龍馬の有名エピソード

龍馬の家族

父・八平(隠居前の名は直足)坂本家へは婿養子として入りました。弓術・槍術に秀で、免許皆伝の腕前を持つ。和歌や書といった文にも優れていた文武両道の人物だったようです。母・は38歳の時に龍馬を出産。当時としてはかなりの高齢出産でした。

坂本家の第1子・長男:権平。龍馬とは21歳も離れており、早くに両親を亡くした龍馬の親代わりのような存在でした。第2子・長女:千鶴、第3子・次女:、そして有名な第4子・3女:乙女

一番年の近かった乙女が、龍馬退塾後から武芸や学問を教えていました。女性の平均身長が145㎝だったこの時代に、乙女は175㎝を超える大柄な女性だったといわれています。甘えん坊の龍馬は、乙女姉さんのいうことを大人しく聞くしかなかったんですね。

妻のおりょうも、乙女姉さんに負けない度胸を持った人物です。寺田屋事件の際、おりょうは仕事終わりで入浴の最中でした。外の物音に気付いたおりょうは浴室の窓から外を覗くと、数人の役人が寺田屋をかこっている。龍馬に危険を知らせるため、裸のまま2階への階段を駆け上ったといわれています。なりふり構わないという言葉がぴったりの行動です。

坂本龍馬は明智光秀の子孫だった?

こんなにある共通点

#京都 #天得院 #桔梗紋 #寺 #京都カメラ部

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坂本龍馬の生家には「坂本城を守っていた明智左馬助の末裔(土佐まで落ち延びた)が坂本家」との伝承が伝わるという。坂本家の家紋は明智と同じ桔梗紋。

出典:http://kajipon.sakura.ne.jp

明智光秀は、戦国時代に織田信長を討ったとして有名な武将。坂本龍馬はその子孫だという噂があります。まずその伝承の1つが両家が使用する「桔梗紋」。家紋が同じということは、何か関係があるのでは?と考えてしますよね。

次に、龍馬の苗字「坂本」。光秀は近江の坂本城で暮らしていました。そこから落ち延びた明智左馬助が、明智姓を使わず城があった坂本姓を使い始めたのでは?と考えると、辻褄が合うような気がしてきます。

そして、光秀が丹波攻略の拠点として築城した「亀山城」。亀山の文字どこかで見たような気がしませんか?そうです龍馬が最初に作った貿易会社「亀山社中」です。ただこの説に関しては、こじつけの感が否めません。亀山社中を結成した場所が亀山と呼ばれていたことに由来する。と考えた方が自然ですね。

坂本家には、明智光秀の女婿・明智秀満(左馬之助)の子・太郎五郎が坂本城落城の後に、土佐で暮らした。と伝わっている事実があります。今では真相は闇の中にありますが、とても興味深い噂ですね。

坂本家の資料の中には、明智家との血縁関係を示す資料が残されていないため、坂本家と明智家との関係は分りません。

出典:http://www.ryoma-kinenkan.jp

高知県立坂本龍馬記念館では、資料が無いから分からない。と否定はしていません。信じるか信じないかはあなた次第です。といったところでしょう。

夜明けを運んだ男の悲しき最期…

犯人は闇の中

#坂本龍馬#中岡慎太郎 #京都

🐰さん(@rie718oo)が投稿した写真 –

慶応3年11月15日、京都にある由緒ある醬油屋「近江屋」。風邪気味の龍馬は、火鉢にあたりながら中岡慎太郎と話をしていました。夜になり近江屋に客が訪れます。「拙者は十津川の者だが、坂本先生御在宿ならば御意を得たい」と龍馬のいる2階へ上がって来きました。

客(刺客)はふすまを開け、その場にいた慎太郎と龍馬に切りかかります。龍馬は右肩から左下に向け背中を切られ、刺客に向き合ったとたんおでこを深く切られました。意識がもうろうとする中、慎太郎のことを呼んでいたといわれています。

刺客が逃げた後も2人は生きていました。昏倒していた慎太郎は意識を取り戻し、龍馬と共に下へ降りようとしましたが「もう、いかん」と言い残し最後を迎えました。慎太郎はこの事件から2日後に龍馬の後を追います。

刺客については、新選組説・薩摩藩陰謀説・京都見回組説などさまざまな説がありますが、真相は分かっていません。いつの日か真相が解明される日がやってくることでしょう。

まとめ

明智光秀が本能寺の変を起こした理由の一つに信長からのいじめが原因ではないか?という説があります。謀反が失敗すれば一族滅亡は分かっていながら、暴挙にでた光秀。一説には信長の暴挙を止めるために、自ら犠牲になったともいわれています。

龍馬も小さいころいじめられていましたが、家族に迷惑が掛かるのを承知で脱藩しました。その大きな理由は「」の為です。目指す道が見えたとたん猪突猛進で、道を走り始めます。そして、2人とも目標としていた最初のステップをクリアしたところで、無念の死を遂げてしまいました。オカルト的な観点から言っても、大まかな人生は似ています。

龍馬が光秀の子孫だったとしたら、先祖から「私がやらなければ」という思考も受け継がれたかもしれません。その思考が無ければ、今の平和な生活が無かったかも。と考えると素直に「ありがとう」と言えるでしょう。

今、本気で2人の関係を調べようとすれば分かってくることもあるとは思いますが、都市伝説としてそっと秘密にしておくことがロマンではないでしょうか?