沖田総司の写真に衝撃!美形というのはウソだった?

新選組1番隊組長、イケメンで剣の腕も誉れ高く、戦乱の幕末を華麗に駆け抜けた沖田総司。美少年の代表格といっても過言ではないでしょう。その写真を見てみると…あれ?

沖田総司といえば美形!

みんなに可愛がられていた弟キャラ

. 池田屋~♡ #薄桜鬼 #オフ会 #沖田総司

@sachihime725が投稿した写真 –

時代劇モチーフのゲームやマンガでは、主人公をしのぐ程の美形に描かれている沖田総司。愛想が良く、良く笑っていたなどの人当たりの良さをよく評され、若き天才剣士が結核で早世してしまうというドラマ性が「薄幸の美青年説」へと繋がったとされています。

東京都港区で白河藩士・沖田勝次郎の子として誕生しました。2人の姉を持つ末っ子で、惣次郎と呼ばれていました。9歳になると試衛館に内弟子として預けられ、10代で免許皆伝を取得。20歳頃には試衛館の塾頭を務めるまでになりました。この頃から名前を惣次郎から総司と改めたようです。

その後、近藤勇ら試衛館の仲間たちと共に浪士組に参加するため京都へ向かい、京都では新選組として数々の活躍をしています。その新選組での中でも、筆頭に名があげられる程の腕の持ち主でした。

有名な池田屋事件では、勇らと共に4人で切り込みその戦闘中に吐血しました。池田屋から運び出され、療養のため大阪へ下ります。

驚愕!沖田総司は美形じゃない!?

本人じゃない肖像画

新選組に関わった人たちの証言では「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」「肩の張り上がった」「猫背」「長身」とその容姿を語っています。その当時の美の基準は分かりませんが、ヒラメにたとえられている所から、おうとつが無く平べったい顔。今でいう薄い醤油顔のような印象でしょうか?

ただし「総司=ヒラメ顔」説は、佐藤彦五郎の曾孫がテレビで谷春雄の話にのってつい口走ってしまったのが始まりとされ、谷は「総司がヒラメ顔」というのは「のっぺらぼうという意味ではなくて、一族や兄弟の写真がみな目の間隔が寄っているから」と話している。

出典:https://ja.wikipedia.org

上の肖像画では頬に肉が付いた下ぶくれのように書かれていますが、沖田総司のお姉さんが、孫の要(かなめ)を「どことなく総司に似ている」と言ったことから、要をモデルにして書かれたものです。

写真や容姿をネタにされることが嫌いだったようなので、コンプレックスを持っていたのでは?と勘ぐってしまいますよね。

沖田総司が美形と言われるようになった理由

新選組時代の生活

. #新選組 #壬生塚 #壬生寺 . #京都 . 新選組隊士慰霊塔。 ここから連投お墓ポスト‥

旅記さん(@youxi9519)が投稿した写真 –

新選組隊員・山南敬助脱走事件では、山南を連れ戻し介錯を務めました。総司は、山南の事を兄のように慕ってしたそうなので、脱走したこと自体がショックだったことでしょう。

普段は隊員の剣術指導を行っていましたが、「この人は自分の出来る割に教え方が乱暴で、おまけになかなか短気であったから、門弟たちは勇よりはずっと恐ろしがっていた。」といわれています。永倉新八にいたっては「竹刀を持っては、みんな子ども扱いされた。本気で立ち合ったら勇もやられるだろう」と語っています。

非番のときには壬生寺の境内で近所の子供たちや子守を相手に、よく鬼ごっこなどして遊び、冗談ばかり言って笑っている陽気な性格の人だったといわれています。

この2面性が女心をくすぐるギャップとなって、モテキャライメージが付いていったのではないでしょうか?そして結核に倒れる=病弱という母性本能を刺激し、モテキャラ→美少年へと進化していったのでしょう。

素顔は不明!でも剣技はピカイチ!

天然理心流免許皆伝

その頃江戸には3大道場といわれる有名な剣術道場があり、1つは千葉周作の北辰一刀流(坂本龍馬が免許皆伝)・桃井春蔵の鏡新明智流・斎藤弥九郎の神道無念流の3つです。

江戸時代後期に近藤内蔵之助という剣術家によって創始された「天然理心流」は、無名で農民たちが門下生に多いため「芋道場」と呼ばれていました。

そんな「天然理心流」が一躍歴史の大舞台に出てきたのは、幕末に維新志士を震撼させた新撰組の登場でした。新選組には北辰一刀流の使い手や新道無念流の使い手たちもいましたが、近藤勇や土方歳三、沖田総司など新選組の核となる人物が支持していたのが天然理心流であったことから世に広まっていきます。

総司は免許皆伝を得ており、道場に入れば人が変わったようになる。と言われていたほど剣術に土込んでいました。ただ、竹刀を使った練習はスポーツであり実戦とは違います。総司は町中での見回り中に実戦を積み、経験を重ね実力を付けていったのでしょうね。

愛刀は「菊一文字則正」?

総司の愛刀として名前が挙がる「菊一文字則正刀工・則宗が製作した刀です。則宗の本物で現在も残っているものは大変少なく、そのほとんどが御物、国宝、重要文化財に指定されています。

そのような名刀を実戦で使うでしょうか?しかも当時の新選組、沖田総司といえば人を斬った人数は相当な数になりますし、実際に総司は池田屋事件で刀の先の部分を折っています。価値を考えると、実用的な刀では無いようですよね。

では、実際の愛刀はなんだったのでしょうか?現在確認されているのは「加州清光」「大和守安定」です。刀工・清光の作加州清光。総司以外に愛用していた人物は東条英機が有名ですね。大和守安定の方も幕末の実力者に愛され、同じ新撰組の「人斬り鍬次郎」と恐れられた大石鍬次郎も使用していました。

残念ながら「加州清光」「大和守安定」も現存はしていませんが、今も残っていたらすごい数の怨念が宿っていそうで恐ろしいですね。

沖田総司の魅力って?

周りにいた人たち

新選組・近藤勇:総司が9歳の頃天然理心流三代目近藤周助に内弟子として預けられます。この頃には、勇は周助の養子になっていました。小さいころから雑用で走り回っていた総司の事を、養父母に内緒で握り飯などを食べさせ身の回りの面倒を見ていたようですね。弟のような感情を持っていたのではないでしょうか?総司は勇を先生と呼び、新選組の中でもその関係は別格だったようです。

土方歳三:総司の方が先に天然理心流へ入門をしていますが、歳三の方が10歳年上だったため兄貴分のような存在でした。無口で頑固な所がある歳三は、総司との会話ではいつもやり込められていたようですね。鬼の副長もかわいい弟分にはかなわなかったようです。

永倉新八斎藤一:両者とも、総司と同じ組長です。新選組の中では、剣術の腕が際立っていたベスト3になります。3者とも組長という立場の中、認め合っていたようですね。

気になる女性関係

沖田総司は生涯独身でした。女性関係の記録は総司側からは見つかっていませんが、周りの人や女性側からの証言が残っています。どんな恋をしていたのでしょうか?

身分違いの恋。総司は医者の娘に恋をしていました。「普段は無駄口ばかり利いてる男ですが、この娘のこととなると、涙を落として語ったものです」と勇の甥・近藤勇五郎が語っています。叶わなかった大きな理由が、身分の違いであったといわれていますね。勇に諭されきっぱりとあきらめています。

叶わなかった初恋。旅籠の娘キン。一説ではキンは人妻だったともいわれていますが、離縁して独り者になっていたともいわれています。不倫は江戸時代中期までは死罪に値する罪だったので、剣術を志しているような「漢」達からみれば大事です。離縁後の恋だったか、ただの女友達だったのか?真相は不明です。

自殺未遂までした女性。江戸の試衛館で修行をしていた頃、1人の女性から求婚されています。総司は「修行中の身なので」と断りを入れました。すると彼女は懐剣で喉を突き自殺未遂を図ります。一命をとりとめ勇の口利きで他家へと嫁いでいきましたが、女性への恐怖が残ってしまう出来事ですよね。

まとめ

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愛星@写真垢さん(@alice8pooh)が投稿した写真 –

沖田総司は池田屋で倒幕派の1人の志士を斬った後、吐血して倒れています。その後新選組と親交があった松本良順により、千駄ヶ谷の植木屋に匿われ療養生活に入りました。その頃新選組では勇が捕らえられ、闘病中の総司は死ぬ間際まで師の勇の安否を気遣っていたと伝えられています。

重くなった結核の症状は、相当辛いそうです。今の医学なら治る病気も、当時は不治の病とされていたので総司本人も死期は悟っていたことでしょう。

総司は勇の処刑を知らぬまま1人で最期を迎えました。周囲の者は勇の死に関して固く口止めされていたからです。この事柄だけでも、総司は仲間から愛されていたことがうかがえますね。

勇の死後1か月という時期に逝ったのも、勇が「お疲れさま」といいながら迎えに来たのではないでしょうか?大好きな兄貴分が迎えに来れば、喜んで走り出すと思います。

沖田総司が美形だったかは分かりませんが、明るく子供好きな性格美人だったということは言えるでしょう。