田中角栄の名言20選!成功と転落が産んだ格言に震える!

「すべての責任はこのワシが負う !」かつてこんなにも部下の背中を押す言葉があっただろうか?男の弱い部分を一瞬にして消し去る一言だろう。部下に勇気と成功のキザシを与える人たらし田中角栄の名言を勇気を見失った人に見て欲しい20選!

田中角栄の名言20選!成功と転落が産んだ格言に震える!

これが人の上に立つ人間の生き方だ!

どうもヤミうつ子です。病んでるけどネガティブを人に押し付けないというポリシーの中で生きてます。興味の持った事しか書かない私ですが今回はか(これが初めてナンですが(汗))成功と転落を経験し今も尚語り継がれている伝説の政治家田中角栄の震えるほど心に響く格言を紹介していきます 。少しでも勇気が湧いてきたらそれは成功のキザシ。よろしくどーぞ。


そもそも田中角栄とは、、、?

政界に進出するまで↓↓↓

新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。ただし、長兄は夭逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった[2]。田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・田中捨吉田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという[3]。幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ吃音があり[注釈 1]浪花節を練習して矯正した。

1933年昭和8年)、二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)卒業。なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒と公称することが多かったが、彼が学んだ当時の中央工学校は、学制上の学校ではなかった。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学にすぐれ、ずっと級長をしていたという[4]。高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ[5]

卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、その後柏崎の県土木派遣所に勤めた[6]旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という[7]

1934年(昭和9年)3月、「理化学研究所大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する[8][注釈 2]。だが、東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う[9]。その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた[10]。一時は、海軍兵学校入学を目指して研数学館正則英語学校などにも通ったが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えた[11]

1936年(昭和11年)3月、中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する[11]。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた[11]。この頃、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校(1936年商業4年修了)[12]にも籍を置き、商事実務を学ぶ。

1938年(昭和13年)、徴兵検査で甲種合格となり、陸軍騎兵第3旅団第24連隊への入隊が通知される[13]1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く[14]。軍隊入隊時早稲田大学の通信科で校外生として建築学を隠れて学んでいたというエピソードが、石原慎太郎の著書『天才』(2016年)にある[要ページ番号]内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった[15]1940年(昭和15年)3月、入営から1年で騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、除隊翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した[16]。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。

1943年(昭和18年)12月に、事務所を改組して田中土建工業を設立した。理研コンツェルンとの関係も復活し[17]、理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった[17]

1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る[18]。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した[18]。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた[19][20]。田中土建工業は戦災を免れる。(ウィキペディア引用)

苦労のある半生ですね(-_-;)

その1

できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこのワシが負う。以上!

1962年蔵相(大蔵大臣)に就任した時の伝説のスピーチ。ここまで強烈な発言は政治家から聞いたことない。これが最も有名な格言ではないだろうか?リーダーとしての責任が見える。責任転嫁のドッチボールな世の中で言えるのがすごい。

その2

用件は便箋1枚に大きな字で書け。初めに結論を言え。理由は3つまでだ。この世に3つでまとめきれない大事はない。

合理性を何より重んじた角栄。物事の本質はいつも平易で短く表現できるという考え方である。ダラダラと話されて何が言いたいのか分からないんじゃ国政はつとまらない。

その3

手柄はすべて連中に与えてやればいい。ドロは当方がかぶる。名指しで批判はするな。叱るときはサシのときにしろ。褒めるときは大勢の前でやれ。

角栄が官僚との接し方について残した言葉だ。ときには若手官僚に偉ぶることなくと教えを乞うた。それが自然体でできるのが角栄の凄さ。「ドロをかぶる」という表現が見返りを求めず責任を負う覚悟を示している。今流行りの褒め達の先駆けだ。リーダーとして重要な考えだと思う。嗚呼、肩書きに甘えて役職に寄りかかる名ばかりの上司達に言ってやりたい!!

その4

ウソをつくな。すぐばれる。気の利いたことを言おうとするな。あとが続かない。お百姓をあなどって小馬鹿にするな。シッペ返しされる。

小手先のテクニックで自分を大きく見せることはできない。仕事を進める上で必要なことは背伸びをせず相手を見下さず誠実に向き合うこときちんと噛み砕いて身体に染み込ませた「仕事」でないとバレる人にはバレる。やっつけ仕事は時には必要だが真っ当に仕事をしたほうがシワ寄せは来ないことを角栄は知っていた。恐らく土方の経験がそうさせたのだろう。

その5

ゴルフは道楽じゃなく、真剣勝負なんだ。ひたすら歩いて体を責める。汗を流す。昨日よりスコアを良くする。ミスは繰り返さない。

角栄がゴルフを始めたのは自民党幹事長時代。角栄とゴルフをともにした政治家や関係者は総理大臣がゴルフに対しここまで無心に、無邪気に一生懸命になれるのも角栄の人柄。遊びを真剣にすると仕事になると聞くがまさにこの格言がそう物語っている。身体を動かし頭も使う。「えらいおじさん」がゴルフする理由がなんとなく分かる。

その6

男は飲ませて握らせればすぐ転ぶ。女は一度これと決めれば動かない。候補者の周りに女が群がれば間違いなく勝つ。

うつ子もビジネスは女を味方にしろと良く言われたものだ。角栄は東大卒も田舎の婆さんも同じ1票と選挙の本質を語っていた。角栄ほど「女の忠誠心」に囲まれた政治家はいない。女性層のからの高い人気は生涯衰えることはなかった。子供を産んで親になれば「これ」が母性になるのだろう。

その7

田中角栄は話を聞かないと若い連中は言う。賢者は聞き愚者は語る。もっと若い連中の話を聞こう。

自尊心の高さが見え隠れする格言だ。1985年の田中派議員の会合での一言。ウィスキーの入ったグラスを手にそう語った。翌日角栄は倒れた。その後公式の場での発言はなくこれが政治家・田中角栄の実質的に最後の言葉だ。つまり田中角栄は話を聞かないと言っている連中が愚者でそんな愚者の意見も聞こうじゃないかと器の広い晩年の角栄が見える。

その8

学生運動を繰り広げる若者たちがいる。経験が浅くて視野が狭いがまじめに祖国の先行きを考え心配している。若者はあれでいい。

1960年代から70年代にかけて日本は学生運動の嵐が吹き荒れていた。角栄は自民党の要職にあったが一定の理解を示していた。「女の尻を追いかけ回す連中より信頼できる」と人間の本質を見抜く角栄の慧目である。あの時代を思い返してではなく「その時代」で言えるのはやっぱり角栄だ。

その9

どんなところに嫁に行っても苦労はするものだ。大きい家では大きいように。小さい家では小さいように。どうせ苦労をするのであれば、やりがいのある苦労をしなさい。

小沢一郎の妻となる和子は政治家の妻になる事を躊躇していたが角栄のこの言葉で結婚を決めたと言われている。田中角栄ほど多くの人間の「道筋をつける」仕事をした政治家はいない。これは婚活中の女性や彼氏との結婚に踏みとどまる女性に言いたい。うつ子も結婚を視野に入れた男性と同棲してたが結婚の難しさに耐えかねて夜逃げ同然で家を出たことがある。男と女が一緒に暮らすってそう簡単なことではないけど男性である角栄がそう言うんだから女性の支持率が高いのも角栄の人柄だ。

その10

世の中は白と黒ではない。敵と味方ばかりでもない。その間にある中間地帯、グレーゾーンが一番広い。真理は常に「中間」にある。

角栄は自分と対立する人間の考えをよく聞きときにはそうした人間に理解と協力を求めることがあった。物事は単純な二元論では片付けられない。ひいては人の心も相反する2つの気持ちが混在している。そのことを忘れてはならない。と説いた。うつ子も天邪鬼な性格なのでこれは大いに同感だ。人の心ってタウカンのあの翡翠みたいなロゴみたいに白と黒、陰と陽みたいに入り混じるものかもしれない。白黒はっきりさせるのが正義とは限らない。ゼブラーマンに言ったら怒らるに違いない、、、。

その11

ロッキードで多くの人間が去って行った。世の中そんなもんだ。でも残ってくれた人たちもいた。地元の無名の支援者だ。日頃、何も言わない人たちが残ってくれた。私の宝だ。

ロッキード事件の説明は割愛します。田中角栄の人間性についてがメインなのでね。ロッキード事件でほぼ全てのメディアは角栄を非難した。選挙に落選することを恐れた多くの議員たちが「オヤジ」から離れた。しかしながらも、新潟の名もなき農家の人々は「お身体に気をつけて」と一言残し選挙で「角栄」と書いた。1993年田中眞紀子出馬のため地元入りした角栄は見覚えのある支援者たちの出迎えに顔をゆがめ嗚咽した。このエピソードが一番人間らしい。

その12

失敗はイヤというほどした方がいい。そうするとバカでないかぎり、骨身に沁みる。判断力、分別ができてくる。これが成長の正体だ。

寒村での生活、吃音、落選、逮捕、長男の死、、、、、。人生の修羅場を経験し社会に揉まれて政界ヘ進出した。説得力の強さはここからきているのだろう。角栄は他人の失敗に本質的に寛容でありまたそれを克服しようとする姿を好んだ。うつ子には弟がいるのだが、叔母から「男の子は失敗しないと覚えないから失敗させなさい」と言われていたのでハサミで遊ぼうがお母さんに怒られるようなヨコシマなことをしようがケガするまでほっといた。

その13

あなたには学歴もあるし高級官僚だった時代の人脈もある。しかしオレには何もない。この道しかなかったんだ。

ロッキード事件で逮捕、起訴される前の田中角栄に田中派長老の西村英一は「カネの問題には注意した方がいい。派手にやると目をつけられられる。」と忠告したそうだ。元高級官僚の西村のこの言葉は土建屋から総理大臣に成り上がった角栄に虚無感を蘇らせた。成り上がりにしか言えない格言だ。

その14

オレには学歴も人脈もない。カネだけが武器なんだ。

その14の中で角栄が嘆きを返した。うつ子も幼少期貧乏を経験し子供ながらカネに対して悔しさや憎しみを抱いていた。心の深いところにある打ち消しがたいコンプレックスを感じさせるネガティブな向上心(負けん気というのだろうが、、、)を総理大臣が持っているのと聞いただけで親近感が湧く。カネに汚いもきれいもないが人の為に使うカネは何も悪くないと思う。この時代はこういうコンプレックスを抱いてる人多かったのだろう。

その15

4人の女を相手にするときは、1人にカネをやり、1人にハンドバッグをやり、1人に着物を買って、残りの1人をぶん殴れば済んだが、、、、、、。

ゴルフ場のある軽井沢でのオフレコ放言。「4人の女」は野党を女性になぞらえた軽口だ。以前は報道されなかった発言も総理大臣になってからはしばしば報道され国会で大きな問題に発展した。あくまでうつ子の見解として金、ハンドバッグ、着物は野党の議員それぞれに与えたら味方についてくれる「モノ」を与えたんだろうと解釈する。さすが人たらし。

その16

イヤな客に言い寄られたら、田中角栄に口説かれていると言うといい。皆、ビビって逃げ出すぞ。

赤坂のお座敷で同席した経済人の証言。※金権と騒がれていたとき、ある芸者に向かって角栄が言った。ユーモラスに、しかも、もてなす側の芸者を楽しませ、「イヤな客」からの処世術まで教えた。うつ子も元キャバ嬢で「イヤな客」にこのような処世術を発揮したものだ。例えば、「イヤな客」の上司、社長、取引先も常連だとお互い知ったとき、それらの名前を出して「◯◯さん(上司等)に良くして頂いてます」と水戸黄門の印籠のように会話を切って処世したものだ。※金権・・・金銭を持っていることによって発揮される権力

その17

人間は誰しもできそこないだ。しかしそのできそこないを愛せなければ政治家はつとまらない。そこに政治の原点があるんだ。

金権政治と批判された田中角栄だが「オヤジ(角栄)の場合はカネで手に入れた権力じゃない。心で手に入れたものだ」と田中派議員だった渡部恒三は語る。角栄は確かにカネを配ったが返済や見返りを求めて渡したカネではない。むき出しの愛情表現と語る関係者は多い。角栄も田舎の尋常小学校上がりで弱い立場にいる人間ヘの眼差しが通底している。部下をただ、ただ怒鳴り散らすだけの上司がク◯に見える。

その18

何、花束だと。小菅のことはオレが一番よく知っている。花などあそこでは役に立たない。これから食い物を送ります。

ここで言う小菅は東京拘置所。逮捕、起訴され東京の葛飾区にある小菅の東京拘置所に入った角栄。実は1948年に炭鉱国管事件なるもので逮捕されており(結果無罪になった)「拘置所」のことを知っている。角栄は2億円の保釈金を払いすぐ保釈されたがその後逮捕された橋本登美三郎の夫人から電話を受け妻はなが夫人に生花を送ったが「留置場は花より食い物」と角栄らしい言葉。余談だがこの格言を知るまでうつ子は小菅は足立区だと思っていた(汗)

その19

政治とはつまり、事を為すということだよ。

元秘書朝賀昭氏がある時、「オヤジさん、政治とはつまり何なのでしょうか」と聞き、角栄は上を向いて答えた。「実践」と即答。強烈な答えだ。物事を具体的に動かし変えていく。これが「職業としての政治家」だ。この役割を意識したからこそ政界の中心に立ち続けた。今の政治家達に言ってやりたい!と思うが今の政治や世界情勢は複雑になってるから何とも言えない。うむ。

いかがだろうか?田中角栄、勇気リンリン?

後半はダーティーな感じになってしまったが(汗)叩き上げの身一つで登りつめたこのサクセスストーリーは今後も受け継がれて欲しい。

出典:https://pbs.twimg.com

ハングリー精神や反骨精神を持っていながら国民に愛され「術」や「攻略」ではなく自然体で人々に接し、あのエリザベス女王とも競馬の話で盛り上がらせたまさに人たらし。良い意味で。
とにかく人を大事にした人間だと思う。だからこそ金に好かれた。

出版業界は「角栄ブーム」らしい。田中角栄を再評価してるそうだ。嫌われることのほうが多い角栄だが時代が変わって何かが一回りも二周りもして受け入れられてきている。まるで出川哲朗の再ブームのようだ。あんなに嫌われ者だった出川哲朗のことを今の中高生達は「おもしろい」と評価し黄色い声援が聞こえる。この現象に似ている。絵に書いたような「叩き上げ」の人生。中には時代が異なってこれは今言えることではないと思う格言もあったがほとんどが今の時代の今の人達の価値観にフィットする言葉ばかりだ。
勇気が持ちづらい世の中で「男」を伸ばす男も女もいなくなって、情報にがんじがらめになって生気がなくなるのも当然だ。角栄の言葉は勇気をくれる。いや、人間誰しも身体の中にしまってある勇気を引き出してくれる。自分本位で上に立つ人間の本質を知らないリーダー達に見て欲しいとうつ子は嘆く。最後まで見てくれてたらありがとう。く・れ・て・た・ら