真田丸で大注目!毛利勝永は真田幸村を超える天才だった⁉︎

みなさんは大人気放送中の大河ドラマ『真田丸』ご覧になっていますか? 真田家という小さな家がどのようにして戦国の世を生き抜いたのか、そして主人公・真田幸村がいかにして「日本一の兵」と呼ばれるまでになったのかをこの作品では非常に素晴らしく、かつ美しく表現してくれています。私も最終回までしっかりと楽しませてもらいました! でも、実は『真田丸』が今大きく話題になっているのには真田家以外にもたくさんの素晴らしい人が描かれてるからでもあります。しかしその中には明らかにその功績と知名度が釣り合っていないとても不幸な武将がいました。今回、その人こそ、私がぜひ皆さんに知ってもらいたい人物。名前は「毛利勝永」と言います。

毛利勝永って?

あまりに知らない人が多い毛利勝永。少しずつその厚いベールを剥がしていきましょう。

そもそも、この人は一体どういう人なのでしょう。
彼の生まれは尾張(今の愛知県)とも近江(今の滋賀県)とも言われており、定まったことはわかっていません。しかし、生まれた時からあの天下人豊臣秀吉の家臣だったことはどうやら間違いはないようです。その後、朝鮮出兵、関ヶ原、そして大坂の陣へと戦国時代最後の黄金期を駆け抜け、1615年、豊臣方の敗北とともに自害し亡くなっています。1578年生まれなのでちょうど長篠の戦いが終わって三年後ぐらいですね。(全然ちょうどではない)

毛利勝永はマイナー武将?

戦国ゲームでも能力値は低めの設定

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彼はとても忠義深いことで評判が高く、後世にも深く知れ渡っていた勇将らしいのですが、どうやら江戸時代ごろにその評判が幸村というあまりに大きな名声に潰されてしまったようです。

実力の申し分のない芸人が同期に未来のビッグスターがいたためたいして売れずに引退してしまうみたいな、現代風に例えるとこんな感じのある意味非常に不運な武将であるといえます。もったいない感じです。

最近では能力の再評価が行われ、正当に評価された能力値となっていますが、昔は結構ひどいものでした。でもまあ、私たち毛利勝永ファンから見てみると彼は隠れた名将って感じでしたのでそこまで怒ったりとかはしなかったんですけですけどね(笑)

毛利勝永は真田幸村に並ぶ戦国時代の名将だった‼︎

それではさっそく、実際に彼がどれほどにすごい人物であったのか。見ていきましょう!

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慶長2年(1597年)、朝鮮出兵に従軍。慶長の役では、蔚山倭城を救援して、明・朝鮮連合軍を撃退した際に戦功を立てた。戦地では朝鮮で入手した犬を豊臣秀次に贈って、秀次から礼状をもらっている[13]。

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死去で形見分けがなされ、遺物さださねの刀を受領[8][注釈 2]。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と共に西軍に参戦した。領国のある九州に下向していた父に代わり中央で軍勢を指揮した勝永は伏見城の戦いで格別な戦功をあげ、毛利輝元・宇喜多秀家より感状と3,000石の加増を受ける。

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彼が頭角を現してきたのは朝鮮出兵の時です。慶長二年の頃、加藤清正率いる隊が兵糧の準備がまだ完全ではない状態で籠城戦を明国に仕掛けられ大苦戦を強いられていました。

そんな絶体絶命のピンチの状況、それを打破したのは勝永でした。

彼を筆頭とした軍1000救出隊の筆頭に陣取り、先陣として五万の包囲兵を蹴散らし、彼と多くの兵を救い出しました。(勝永の兵は一兵につき30人は倒していったと言われており、おそらくこのとき勝永が預けられていた兵の数が1000近くであったことを考えると一兵団だけで三万人を倒したことになる、やべえ)

また関ヶ原の戦いの前哨戦であった伏見城の戦いでも相手方徳川陣営に大打撃を与えるという格別の功をあげ、毛利勝永は名実ともに名将と呼ばれる存在になっていました。

 大阪の陣の前から彼の名前は知れ渡っていたんですね。しかし、ここでいうほど本当に幸村に並ぶほどの武将であるか、と聞かれると、確かにインパクトにはかける気がします。

まあ、負けてますしね、朝鮮出兵。なんなら関ヶ原も結果的に負けてますし。

でも安心してください。ここからが彼の本領発揮です。

その舞台は、ズバリ、『大坂夏の陣

大阪の陣、開戦

勝永、最後にして最大の戦いの始まり

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冬の陣では真田幸村によって作られた真田丸を用いた戦が展開され、豊臣方の勝利に終わりました。その結果、いいところを全部幸村に持っていかれる形となってしまった毛利勝永でしたが、外交上手な(ずるがしこいともいう)家康に騙され、堀を埋められた大阪城になってしまい、野戦で戦うしかなくなってしまった夏の陣における作戦ではその勇将っぷりをいかんなく発揮しました。
その作戦の内容はこうです。
まず、毛利勝永隊と真田幸村隊で天王寺まで敵をおびき寄せます。そして、豊臣秀頼自ら出兵することを回線の合図とすることで背後からの明石全登隊が挟撃し家康本陣を打ち砕く。
もともとの絶対数が少ない豊臣方が取れる最善手とも取れる手段で、立案者は真田幸村であったといわれています。
そして、開戦。
しかし、いきなり戦は予想外に動き出します。なんと天王寺までおびき寄せた徳川軍の一つ松平忠直隊が秀頼の出陣前、つまり、開戦予定の時刻の前に仕掛けてきてしまったのです。
これに対し、あくまでも作戦の展開にこだわる幸村は勝永隊に対し、応戦しないように伝達。そうするように勝永自身も務めたものの、戦いが激化するにつれてそれを断念せざるを得なくなってしまい、応戦状態になってしまいました。

絶体絶命のピンチ!! それを救ったのはやはりあの男だった!

毛利勝永ここにあり!

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この時、真田幸村は焦っていたはずです。別に何かの文献があるとかではなく、これはあくまで私の予想にすぎませんが、私はそう確信しています。
ただでさえ、兵数も士気も練度も相手方のほうが高いのです。そんな相手に対して挟撃すらできず、一対一で戦うなんて時間の問題なのは自明の理であります。
負けた。
そう幸村や豊臣方全員が絶望に涙した時です。

奇跡が、起きました。

なんと血気盛んにも突撃をしてきた松平忠直隊を兵数、練度で劣る勝永隊が圧倒的強さで蹴散らしてしまったのです。そしてそのまま、勝永は小笠原秀政、浅野長重、秋田実季、榊原康勝、安藤直次、六郷政乗、仙石忠政、酒井家次など徳川の精鋭を次々と倒す活躍鵜を見せたのです。相手の総勢は実に4万ともいわれており、それを一人の隊で処理するなどいつの時代の観点から見てもあり得ないものでありました。まあ、ありていに言ってしまえば戦国時代において桶狭間などで起こってきた寡兵による劇的な野戦での勝利を、最後に勝永が起こしまくったということです。ふざけてますね(笑)

でも、そのように真田幸村や豊臣方が絶望に暮れている空気を、いい意味で勝手に全く読まなかった勝永でしたが、その勢いはとどまることを知らず、彼は返し刀そのままに家康本陣へと突撃を敢行したのです! そして幸村も遅れずに追撃をかけました。
ついに前に立ちはだかるのは徳川家康、ただ一人。とはいえ、彼は今まで対戦してきた猛者のようなレベルの人ではありません。あの戦国時代黄金期と言われた時代を生きぬき、織田信長、武田信玄、今川義元といった英傑としのぎを削り、そして生き残った天下人。本物の化け物です。そして兵の質、量、士気共に相手が上。普通は逆立ちしても勝てない相手でした。

しかしながら、勝永。それをものともせずに突撃します。そしてやはりそれは無謀のものでした。兵はじりじりと削られ、追い詰められていきます。しかしそれでも勝永は足を止めず進軍を続けました。

この圧倒的不利な状況でそれを行うその目的、意味。それは幸村のためでした
彼は突撃し、すぐに自分の力だけで彼の首をとることはかなわないことを知りました。そして、彼はあくまでも最後まで彼らしく戦略上の上で理性的に、しかしながら実力を認め合った生涯の友への信頼という感情的な意思も込めて、その道を幸村に託すこと指針を変更したのです。幸村の兵が一兵でも多く、一歩でも前に進める道を作るためだけに自らを駆り立たせ、刀を振るったのです。その精神たるやもう言葉に表して表現するのもおこがましいほどに武士らしくまっすぐなものであったと思います。

おそらくこの戦いの後、本格的に江戸時代へと時代が移り行く中で、彼は本当の意味での「最後の武士」とも言える存在であったのではないかと私は考えます。幸村が「日本一の兵」であるのなら勝永は「日本最後の士」と呼べる人物であったのではないでしょうか。

最高の武将、散る

日ノ本最後の侍の最後

幸村の隊による三度の突撃が失敗に終わり、隊が壊滅するのを見届けた勝永は四方を敵に囲まれてしまうという状況に陥ってしまいました。そして、撤退戦を始めるも相手方の名将、藤堂高虎が味方の兵によって壊滅させられたのをも見ると、すぐに攻撃に参加。土山で激闘を繰り広げます。

しかしながら、幸村が打たれたことにより味方全体の士気が低下。また、逆に敵はその勢いそのままに襲い掛かってきました。

そしてついに勝永は大阪城への撤退を命じ、軍を引き上げさせました。

堀のない城に退却をする。それは事実上の敗北宣言。白旗と同義でした。

8日、ついにその時がやってきます。

彼は大阪城城主、豊臣秀頼の介錯をし、戦国時代の終焉を見届けると自分自身も蘆田矢倉で息子・勝家とともに自害しました。毛利勝永、享年37歳。最後まで男らしい人生でした。

歴史に「もし」は禁句ですが、それでも、もし勝永と幸村が家康の首をとることがかなっていたらどうなったのでしょうか。

もしかすると、二人がそのあと天下取りに名乗りを上げていって新たな戦国時代が始まっていたかもしれないですね。

そんなことばかり考えてしまっても仕方ないのでこの辺でやめにしますが、なんとなく少し寂しい感じがしますね。

妻との感動エピソード

大阪の陣での活躍、その陰には……

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ここまで紹介してきた毛利勝永ですが彼は最初から大阪の陣での圧倒的な活躍を見せるような勇将であったというわけではありませんでした。というのも彼はもともと臆病な性格でとても心優しい人物でとても自分の命を顧みないで戦う鬼のような活躍ができる人物ではなかったのです。
なぜ彼がここまで変わることができたのか。その答えは彼の妻にあります。

大阪の陣が起こるまえのある晩。勝永は妻と息子を集めてこんな話をしたといいます。

「自分は多大なる恩を豊臣家より受けており、秀頼公のために一命を捧げたい。しかし、自分が大阪に味方をするということは残ったお前達は間違いなく殺されてしまうだろう」

この当時、彼は関ヶ原の戦いで敗北したことで徳川方の家であり昔から親交の深かった山内家にお世話になっていました。そんな中、山内家は、秀吉に変わる天下人と言われていた徳川家康に従属する形をとっており、ここの家に保護されている勝永が出奔して豊臣方に付くということは立派な裏切り行為を意味していました。

そんな板挟みで苦しみ涙する勝永に妻はこういったそうです。

「君の御為に働き、君の御為に死ぬことは素晴らしきことに他なりませぬ。それはお家にとっても非常に名誉なこと。もし、貴方が残るものが心配でそれを為すことができないのであれば、わたくしたちは喜んで海の藻屑となりましょう」

勝永は、その妻の自分の信念によるわがままのために身を投じてくれた全力の愛という優しさを受け、決心をし、大阪城へ息子・勝家とともに大阪城へ馳せ参じました。

この一件から、勝永は明らかに人間が変わったような活躍を見せ、先ほど記したほどの勇将になったのです。黒田官兵衛の息子、黒田長政が彼の大阪での戦いぶりを見てこう評していることからも伺えます。

「ついこの間まで幼若の者と思っていたが、武略に練達した実に立派な大将になったものよ」

 その活躍の原動力がこの逸話の中の妻の言葉にあるのかどうかは定かではありません。しかし、少なくとも彼が妻の命の分まで背負って戦っていたことは想像に固くないです。

まとめ

最後に……

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ここまでご覧いただきありがとうございました。
毛利勝永の魅力、少しでも伝わりましたでしょうか? 
戦国時代は彼のような男が自分の人生をかけて歩むことが義務付けられて、そして明日死んでも何らおかしくないとても過酷な世界です。そんな世界でも人間は何かの信念と思いを背負って毎日を生きることができるのであると、私は記事を書きながら思いました。
毛利勝永のように素晴らしいことをやっても正当に評価されないことは今の世も変わらないと思います。それでも全力で自分の信念を曲げずに頑張っていれば、いつか必ず誰かがわかってくれるはずです。
ですから皆さんもくじけないで、下を向かずに、そのいつかを信じて足をもう一歩先にうごかすため、頑張ってみるのはいかがででしょうか?

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