昭和天皇の秘密!兄弟の知られざる関係とは?

今上天皇(きんじょうてんのう)のお父上にあたる昭和天皇。ある意味、『戦後日本の運命を握っていた』方になりますが、はたして何人兄弟だったのでしょうか。また、ご兄弟の仲はどうたったのでしょうか!?

昭和天皇の兄弟は何人?

昭和天皇は男だけの四人兄弟

昭和天皇は、大正天皇と貞明皇后の第一男子(長男)として1901(明治34)年4月29日(~1989(昭和64)年1月7日) に誕生されました。1歳違いの弟(第二皇男子/次男)として秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)、4歳下の弟(第三皇男子/三男)として高松宮宣仁親王(たかまつのみやのぶひとしんのう)が、いらっしゃいました。

また、三兄弟とはひとまわり程年が離れていますが、昭和天皇より14歳下で一番下の弟(第四皇男子/四男)にあたる、三笠宮崇仁親秩父宮王(みかさのみやたかひとしんのう)がいらっしゃる、男ばかりの四人兄弟でした。

四人の皇子は、大変仲が良く、それぞれの長所短所を理解し、必要に応じて補完する関係にあったように思われます。昭和天皇ご自身も、折に触れて弟宮様たちがご自身よりも優れている点を述べられていました。

第三皇男子の高松宮様と第四皇男子の三笠宮様

@jpnpkkが投稿した写真



高松宮様(1905(明治38)年1月3日~1987(昭和62)年2月3日)は、幼名を光宮(てるのみや)といいました。戦前に学習院中等科三年を退学し海軍兵学校予科に入学されましたが、昭和天皇の「なるべく近くに」とのご意向により、横須賀海軍航空隊に配属されました。1986年(昭和61年)に末期の肺癌と診断された際には、昭和天皇みずからが3度もお見舞いに出向かれ、お亡くなりになる直前まで髙松宮様の手を握られていたといいます。

三笠宮様(1915(大正4)年12月2日~2016(平成28)年10月27日)は、幼名は澄宮(すみのみや)といいました。戦前は学習院中等科から陸軍士官学校に進まれ、陸軍大学校ご卒業後は陸軍軍人として大本営参謀を務められました。当時、若手将校らの東条英機首相暗殺計画を知り、「天皇に対する反抗」として未然に阻止されたといいます。戦後は、古代オリエント史の研究家として、知られていました。

昭和天皇と弟秩父宮は良き兄弟

秩父宮と2,26事件

秩父宮様(1902(明治35)年6月25日~1953(昭和28)年1月24日)は、幼名は淳宮(あつのみや)といいました。昭和天皇のご兄弟の中で一番快活であったと言われています。

1936年(昭和11年)2月26日に陸軍の青年将校が首相官邸等を占拠し、高橋是清ら政府関係者を暗殺した二・二六事件から遡ること4年前の五・一五事件(海軍青年将校が総理大臣犬養毅を殺害)の直前、秩父宮様は第一師団歩兵第3連隊の中隊長でした。

同隊は陸軍の優秀者集団で、のちに二・二六事件首謀者の将校も所属していたため、秩父の宮様の思想を案じた昭和天皇のご意向で、参謀本部第一部第二課(作戦課)に異動し、弘前市の歩兵第31連隊第3大隊長に任ぜられていました。

秩父宮様は二・二六事件の報を高松宮様から受け、翌日に皇居で昭和天皇に拝謁され、その日のうちに歩3の青年将校らに「自決せよ」とお伝えになりました。

2人の先生は乃木将軍!?

昭和天皇と秩父宮様のお2人が学習院初等科在学中の学習院院長は、日露戦争で日本を戦勝国に導いた乃木希典(陸軍大将)でした。これは、お2人の祖父にあたる明治天皇のご意向でした。

普段女官に囲まれている宮様が、帝王学を身につけるためにと、武士道に忠実な乃木希典が選ばれました。乃木は学童たちから恐れられましたが、昭和天皇だけはお慕いし、徹底して『質素』を叩き込まれました。難しい時代を生きた昭和天皇の優しさの中に強さを感じるのは、幼少期の乃木将軍の薫陶があったからでしょう。

昭和天皇は肺結核で療養中の秩父宮様へのお見舞いを希望されましたが、最期まで叶いませんでした。秩父宮様が遺書で「遺体解剖」、「火葬」、「葬式は無宗教」と記されていたため、昭和天皇は「秩父宮の遺志を尊重するように」と即座に許可されました。

意外と知られていない?昭和天皇の優しい人柄

天皇の料理番の大失態

『天皇の料理番』のモデルである秋山徳蔵(あきやまとくぞう1888(明治21)年8月30日 ~1974(昭和49)年7月14日)氏のエピソードを、ご紹介します。

昭和34年頃の昭和天皇の宴で、牛フィレ肉をベーコンで巻いたトゥルヌド(=tournedos)をお出しした時のことです。ベーコンを糸で肉に巻き、焼き終えたらその糸を外してお客様にお出しするのですが、一つだけ糸を外し忘れて配膳したことが発覚。あろうことか、その一つが昭和天皇に供されたという大失態!

秋山氏は昭和天皇にお詫びを申し上げ「お客様の糸は全部取ってあります」と伝えたところ、昭和天皇は「それはよかった。それはよかった」とご満足で、不手際を責めることはありませんでした。秋山氏は陛下のお心の広さに「涙が溢れ出て、どうすることもできなかった」といいます。咄嗟にそのように対応できる陛下の優しさに脱帽です。

雑草という名前の草はない

昭和天皇の侍従長を務められた入江相政氏の「宮中侍従物語」に、心温まるエピソードがあります。天皇皇后、両陛下が夏休みで暫く御用邸に行かれご不在という折に、侍従たちが御所の草むしりをしたのですが、面積が広すぎて終わりませんでした。

お帰りになった昭和天皇に入江氏が、「雑草が生い茂っておりまして随分手を尽くしたのですがこれだけ残ってしまいました。いずれきれいに致しますから」とお伝えしたところ、昭和天皇がいつになくきつい口調で、「何を言っているのですか。雑草という草はないのですよ。どの草にも名前があり、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるのです。人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけません」と仰いました。

まさに、『世界に一つだけの花』のようなお話しで、陛下のお人柄が心に響きます。

マッカーサーとの秘話

昭和天皇がマッカーサーに会うことの意味とは?

1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇による玉音放送の終戦から15日後の8月30日にマッカーサーは厚木に降り立ち、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官として、連合国軍が接収した皇居前の第一生命館の執務室で、日本占領に当たりました。

米国は、マッカーサーに天皇はじめ日本の行く末が委ねられていることを、日本国民に知らしめる最高の機会として昭和天皇との会談を望んでいましたが、米国から陛下を呼びつけたのでは国民の怒りを買うと考え、その機会を静かに待ちました。吉田茂がマッカーサーと面会した際に、「陛下が会いたがっている」と伝えた時、米国側は狂喜乱舞したハズです。

1945年9月27日に昭和天皇との初面会が実現しましたが、その時の内容について昭和天皇は「男の約束」として終生語られていませんが、マッカーサーの回顧録や外交文書などで明らかにされています。

初めての会談でマッカーサーの心をわしづかみにした昭和天皇!!

当日、マッカーサーは天皇を出迎えることも立ち上がることもせず、ソファーに座っていました。陛下は挨拶を終えると、「私は、戦争の全責任を負う者として、あなたの国の裁決にすべてをゆだねます。ただ、国民は住む家もなく、着る物も不自由し、食べるのもままならぬ状態です。どうか、この国民の衣食住のみはご高配賜れますように」と言われました。

陛下の「極刑をも受ける」という覚悟は、「命乞いに来る」と思っていたマッカーサーには衝撃で、骨の髄まで揺り動かされたと言います。会談後マッカーサーは、予定外に玄関まで昭和天皇を見送り、『この偉大なる紳士』に敬意を表しました。

その後、昭和天皇とマッカーサーは個人的な信頼関係を築き、11回も会談を繰り返しました。マッカーサーが定期的にあった日本人は、昭和天皇と吉田茂ぐらいでした。

昭和天皇は多趣味?

実は、いろんなスポーツをされていました!?

スポーツについては、「幼いときから色々やらされたが、何一つ身に付くものはなかった」と発言されたという記録があるようですが、謙遜もあるのではないかと思います。というのも、皇太子時代に、相当ゴルフを嗜んでいたことが確認されています。

1922(大正11)年4月、英国のエドワード8世が皇太子として来日された際には、ご一緒にプレーされています。また、良子妃にもゴルフの手ほどきをされました。お2人の成績として、9コースで昭和天皇が51、良子妃が60という記録があります。

戦前は軍人に必要とされていたこともあるのか、乗馬もされていました。特に、障害飛越(障害馬術競技)がお得意だったご様子。また、現在も学習院初等科の臨海学校で受け継がれている『古式泳法』による水泳や水球も楽しまれているお写真が残っていますし、釣りも嗜まれました。

スポーツ以外のご趣味の数々

『天皇陛下が国技館に出向いて相撲観戦する』という現在の天覧相撲の形は、1955(昭和30)年5月場所をご観戦された昭和天皇からです。最後の天覧相撲となった1987(昭和62)年5月場所までに、40回も天覧相撲を楽しまれました

相撲はその観戦回数から昭和天皇が一番お好きなスポーツ観戦だったと思いますが、それ以外の天覧試合は、プロ野球、日米野球、社会人野球の都市対抗野球大会、学生野球の早慶戦、サッカー、競馬等があります。

映画やテレビドラマもよくご覧になったようですが、ご贔屓を尋ねられても「騒ぎになって迷惑をかけてはいけないから」と、特定のことはお答えにならなかったといいます。御所で雑種の魚を飼育されていましたが、DNA鑑定でキンブナとリュウキンの雑種と判明しました。海洋生物学を研究する関係から、英語よりフランス語が得意だったようです。

実は研究者だった昭和天皇

海洋生物・植物の分類研究者

昭和天皇は、海洋生物・植物の分類研究を続けられ、単独でのご著書は初めての出版物にあたる『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科のClathrozonidaeのヒドロ虫類の検討(昭和42年2月15日/保育社刊) 』から、崩御後に出版された最後の『相模湾産ヒドロ虫類II(有鞘類)(平成7年12月20日/丸善刊)』まで、多数あります。

昭和天皇が24歳の1925(大正14)年6月に、赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究に熱心でした。天皇になられてからの1928(昭和3)年9月に、お住まいの御所内に生物学御研究所を建設され、粘菌研究の第一人者であった南方熊楠に、自ら進講をお受けになっています。

昭和天皇が発表されたヒドロ虫類の新種は30種以上に及び、昭和天皇の海洋生物研究の一部は今上天皇の研究とともに、新江ノ島水族館で公開されています。

まとめ


いかがだったでしょうか。昭和天皇を漢字一文字で表現すると「忍」ではないかと思います。国語辞書によると、『忍』の意味は、「自分の感情をおさえて、こらえる。我慢する」とあります。戦後、日本国憲法で象徴天皇と定められてから、天皇というお立場は、『忍』になったのかもしれません。

後に昭和天皇は、「自分の意を貫いたのは2.26事件と太平洋戦争終戦の時だけだったと語られていました。

昭和天皇―「理性の君主」の孤独 (中公新書)
古川 隆久
中央公論新社
売り上げランキング: 31,857

昭和天皇の終戦史 (岩波新書)
吉田 裕
岩波書店
売り上げランキング: 16,516