近藤勇の生涯!侍に憧れた男の壮絶な最期とは?

新選組、組長近藤勇。時代が違えばもっと功績を認めていられたのではないか?信念の強さはすごいものがあります。どれほど侍魂を全うしたのか調べてみた!

侍に憧れた近藤勇

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新選組・局長だった近藤勇。幕末の志士の一人ですね。結果として最後に勝つのは新政府ですが、最後まで江戸幕府を信じ、守る為に戦い抜いた忠誠心は「流石」の一言に尽きます。

新選組へ入るためのテストは、幕府への忠誠心も勿論ですが、「個人の剣の強さ」も重要な要素として評価されました。もちろん近藤さん自身は15歳の時に天然理心流剣術道場にて修練をつみ、剣の腕の立つ人物でした。

天然理心流の練習用の木刀を持ったことがありますが、重いです。両手で持っても持ち上げるのがやっとで、まっすぐに振り下ろすのは至難の業。子供のころ父から「水滸伝(すいこでん)」などを読んでもらっていたためか、英勇に対する憧れが強かったらしく、厳しい剣術の練習も耐えられたんでしょう。

近藤勇の子供時代~若かりし頃

新選組史跡巡り 『近藤勇生家跡』 #調布市#近藤勇生家跡#近藤勇#新選組#新撰組#幕末

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近藤勇が生まれたのは、現在の東京都調布市で、農家の家に産まれます。これゆえに、侍への憧れがより一層強かったんでしょうね。農家といっても豪農だったようなので、そこらの侍よりよほど裕福な暮らしをしていたでしょうに・・・

天然理心流に入門してからは、誰よりも稽古に熱心だったらしく、家に泥棒が入ったときには見事に撃退したらしいのです。ホントにヒーロー願望が強かったんですね。そして、その勇気を師・近藤周助に認められて近藤家の養子となります。

さらに徳川家の家臣・松井八十五郎の娘・松井つねと結婚。これで、徳川家のれっきとした家臣です。縁談が持ち上がった時には、どんな人であっても”絶対に結婚しよう”と思ったことでしょう

芹沢鴨との対立と非情なる暗殺!

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14代将軍・徳川家茂の上洛警護をするため「浪士隊」として、京都に向かった近藤勇。真の理由は朝廷に尊王攘夷を志を建白すると知り、攘夷に反対だった近藤らは江戸への帰還を拒み京都へ残り「壬生浪士組」(のちに「新撰組」の名を下賜されます)となります。

市中警護という活動でしたが、実際は反幕勢力の殺害などが主でした。そのため京都では恐れられる存在になるのですが、中でも素行が悪かったのが芹沢鴨。このころ新撰組は会津藩預かりだったため、芹沢鴨の素行がそのまま会津藩の評判になりかねなかったため、暗殺されたと言われています。

しかし、芹沢鴨は産まれながらの武士。農家出身の近藤勇としては嫉妬心を持っていたかもしれません。人の嫉妬心は半端じゃないですから・・・個人的に大嫌いな人の暗殺を率先した可能性は否定できません。

暗殺方法があまりにも残忍!

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まず最初に芹沢の側近であった新見錦を自殺に追い込みます。そして、芹沢を暗殺するのですが、一緒に愛人のお梅さんも殺しちゃうんですね。現在でも京都にある八木邸ではこのとき付けられた鴨居の傷が残されています。

芹沢の剣術に長けていたので全うに戦っても歯が立たない。そこで考えた方法が”酔わせてしまえ~”!ってことで、土方・沖田らが飲みに誘います。芹沢は思いっきり泥酔して帰り、梅と就寝。そこを襲ったわけです。

しかし、芹沢さん気が付かなかったんでしょうかね?天狗になっていて感が鈍くなってたのか?自分の剣術がすごいからって過信していたのか?敵対する近藤の側近たちが誘ってるんだから少しは気づきそうなものです。

新撰組円熟期の活躍

#京都#壬生#新選組屯所#街歩き

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尊攘派の公卿7人と長州藩を京都から追い出すという「八・八一の政変」において活躍します。その後、芹沢鴨ら水戸藩を一掃し、近藤は自分の思い通りに新撰組を動かすことができるようになります。

幕府からいいように使われている気もしますが、そのあたり”忠義”の人ですから、疑わなかったんでしょう。もちろん女性関係も華やかでした。お相手は深雪太夫と御雪太夫夫。二人は姉妹だったようです。

しかし、なぜ必ず愛人がいるのでしょう。歴史上の人物など、たいがいの男性には女性がついて回る。逆に、いない人はいるのか?と聞きたいぐらいだ。

池田屋事件!

長州藩・土佐藩・肥後藩の尊王攘夷派が、”御所に火を放ちその隙に一橋慶喜、松平容保を暗殺し、孝明天皇を連れ去るという計画”を近藤勇が突き止めます。そして、旅館池田屋で会合している攘夷派を発見。

20名ほどいた攘夷派に対して、踏み込んだのは近藤・沖田・永倉・藤堂の4名のみ。しばらくして土方隊が到着し、激闘の末攘夷派を一掃することができました。これによって新撰組は一躍有名となります。

この事件によって明治維新が遅れたとも、攘夷派が激高し早まったともいわれています。近年ではこの攘夷派の計画自体、新撰組のねつ造では?などといわれています。近藤はこのとき自分が武士であり、ヒーローなんだと実感できたでしょうか?これが本当にねつ造だったらのなら・・・何だか複雑な気分になってしまいますね。

失墜の新撰組

出典:http://ja.uncyclopedia.info

池田屋事件で名声を得た新撰組。隊員も200名を超す大所帯となり、場所も壬生→西本願寺へ移転します。長州討伐の戦いに備えて、指揮系統が伝わるように小隊に改組などしたが、この時点では実際に声がかからなかったようです。

1867年、徳川慶喜が大政奉還します。そしてすぐあと”坂本龍馬”が暗殺されるんですね。この犯人が新撰組となり立場が悪くなるんです。でも、現在では犯人は新撰組ではないという説もあるので、濡れ衣を着せられた可能性もあります。

新撰組は、名声を得たもののあまり好かれていなかったようですね。幕府でさえ、重臣として扱っているようには思えませんから。剣術があって、忠誠心も厚い、でも嫌い。できるできないだけでなく、人に好かれる好かれないはものすご~く重要なんですけどね。

夢追った男の最期

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田中将さん(@trickytanaka)が投稿した写真 –

長州藩・薩摩藩・土佐藩を中心とし新政府と旧幕府勢力とが争った戊辰戦争がはじまります。新撰組も幕府の名を受けて参戦します。武士としてはここで忠義をつくさなければ意味がないわけですから、自分たちが政府を取り戻すという意気込みはあったでしょうね。

しかし、この時点で幕府側は”反官軍”です。ヒーローになりたい近藤勇にとっては納得できない言葉でしょう。結局初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府に敗北し、榎本武揚率いる幕府所有の軍艦で江戸にもどります。

さらに旧幕府側が不利だと悟った隊士達が次々と脱走し、士気が下がってしまいます。えっ!?忠誠心を最も大事にしてたんじゃなかったんですか?まぁ意にそぐわない人たちを殺していたわけですから、何かあったらすぐに近藤についていけないと感じるのも無理ありませんが・・・

板橋刑場で斬首

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たま Tama  読書メモ/神社仏閣/東京風景さん(@tama20150504)が投稿した写真 –



実は近藤勇は鳥羽・伏見の戦のときは、怪我で療養中のため参戦してないんです。これを取り戻そうと、江戸に戻ってから甲府城を守るように幕府より命を受けると勇んで進軍するのですが、既に甲府城は官軍の手に落ちていました。

なんとか逃げ帰ったものの、さらに離脱する隊士が増えたのです。それでも再起をかけ、大久保大和守剛と称し、流山に移転しました。名前を変えたということは、自分が狙われているということは分かっていたようですね。

ですが、結局この時点で新政府に捕らえられてしまいます。土佐藩は坂本龍馬殺しの犯人だと信じていたため、近藤は斬首されてしまいます。更に首を京都・三条河原で晒されてしまいます。

まとめ

出典:http://www.kodomo.go.jp

京都に晒された首は行方不明になってしまいました。好意的に盗んだのならどこかに葬られているはずなので、よほど憎んでいる人が戒めるために持っていったんでしょうね。

胴体のほうは、板橋より生家の宮川家の人間がこっそり取りに行き、生家のそばに葬ったようです。子供のころから、休むことなく精一杯生きていた人ですね。あまりに信念が強すぎて、大海を見ることができなかった感じがします。

享年35歳でした。

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