アカデミー賞作品賞・監督賞を2度受賞するなどアクション映画から文芸映画まで幅広くこなせる、優れた監督兼俳優として今良作を作り続けているクリント・イーストウッド。そんな巨匠の絶対に観ておくべき映画を厳選して紹介!
はじめに
クリント・イーストウッドとは
出典:https://upload.wikimedia.org
クリント・イーストウッドはサンフランシスコ出身の映画俳優、映画監督、映画プロデューサー、作曲家、政治活動家。なんでもこなすマルチな才能の持ち主でその中でも特に有名なのが俳優業と監督業。
俳優として数多くの西部劇やアクション映画に出演。『ダーティハリー』シリーズでスーパースターの地位を不動のものとし、監督としては『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー作品賞とアカデミー監督賞を2度受賞するなど、現代のハリウッドを代表する人物と目されている。
その人生はまさにアメリカンドリーム
1930年、イーストウッドはいわゆる名家に生まれたのだが当時の世界恐慌のあおりを受け苦しい生活を送っていたという。1951年に陸軍に召集され入隊。2年後の1953年に除隊。それを期に演技を学び始めユニバーサル映画と契約を結ぶが、B級映画の端役しか与えられないという、不遇の時代を過ごした。
しかし、1959年からCBSで放映されたテレビ西部劇『ローハイド』で演じたカウボーイ役が当たりイーストウッドの知名度と人気は世界的に高まった。これを見たマカロニウエスタンの巨匠セルジオ・レオーネ監督はイーストウッドを『荒野の用心棒』、『夕陽のガンマン』、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』と都合3作のレオーネ作品に出演させた。
そして、『マンハッタン無宿』で出逢ったドン・シーゲルと再びタッグを組んだ『ダーティハリー』でイーストウッドはスターの地位を不動のものとした。レオーネ、シーゲルはイーストウッドの師とも言えるだろう。
複雑な家族構成
父クリントン・イーストウッド・シニアと母モーガン・イーストウッドの間に生まれたクリント・イーストウッドはスコットランド、アイルランド、ドイツ、イングランドの4か国の血をひいている。ちなみにクリント・イーストウッドは芸名で本名はクリントン・イーストウッド・ジュニアである。
そんなイーストウッドだが、合計5人の女性との間に7人の子供がいるとされている。5人の女性とあるがそのうち妻となった女性は2人だけ……。しかも1996年のディナ・ルイスとの再婚の際は、ディナ・ルイスが初婚のときに生まれた娘と同年代だったり、愛人だったソンドラ・ロックから慰謝料を求める訴訟を起こされたりとだいぶヤンチャなちょい悪オヤジっぷりを発揮している。
その作風は
静かな映画だった!沁みたなぁ〜✨#トムハンクス #クリントイーストウッド #ハドソン川の奇跡 pic.twitter.com/dTyAyDYAYz
— 中田 ハル (@haru14) 2016年9月29日
「観客に知性を求める映画」、「善悪を明確に分けない物語」、「暗い画を好んで使っている」などと言われることが多く、観客のレベルが問われるなどと思われがちだが、それは間違っていると声を大にして言いたい。
たしかに「アメリカンスナイパー」「ミリオンダラーベイビー」「ヒアアフター」など公開されるたびに宗教問題や政治問題などの論争を巻き起こし、アカデミー賞の常連でもある彼の作品は上級者向けの文芸作品と思われるかもしれない……。
しかし、実はイーストウッドの映画は観客に「知性」を求めているのではなく「観客に考えさせたい」というある種の「怒り」のようなものはある気がするが「善悪」は比較的はっきり描いていると思う。
ただ、その「善悪」は私たちが生活している上での常識とはずれたところにあるから「観客に考えさせる映画」になっているだけなのだ。そして、手を替え品を替え作品を作っているが一貫して「愛」と「正義」を描き続けているなのではないかと私は思っている。
そして、「分かりにくい」と思われがちなだが、彼の映画脚本は忠実にハリウッドの映画の脚本術に習っており、ヨーロッパの小洒落たミニシアター映画や実験映画なんかよりはるかに見やすい作品が多いと思う。
そんな前置きをした上で、彼の作品を紹介しておこうと思う。
恐怖のメロディ
ありゃ『恐怖のメロディ』録画されてない!なぜだ? pic.twitter.com/m8n7UBfy48
— スチャラカ社員 (@xiu_chang_po) 2016年12月28日
あらすじ
地方ラジオ局の人気DJにいつも“ミスティ”をリクエストしてくる女性。ある日、出来心から二人は一夜をともにする。しかし、そこから彼女はストーカーと化し、彼に執拗につきまとう…。
記念すべき初監督作品
公開当時、私は生まれてすらいなかったが、その概念さえなかったというストーカーを扱ったサイコサスペンスだ。初監督ということもあり、だいぶ荒削りだがそれでも有り余るほど非常に先進的な映画であったことは今観ても分かる。
それは、この映画のパクリじゃないかと疑いたくなるほどほぼ同じプロットの『危険な情事』がヒットしたのが『恐怖のメロディ』公開の16年後だと言えばわかりやすいだろうか。
見どころは前半戦の狂気
映画は上映開始15分で面白いか面白くないかが大体わかるというのが私の持論だが、この映画の前半戦は面白い!
何と言ってもストーカー女異常性は映画『ミザリー』を彷彿させるほど真に迫っていて恐ろしい。そして、官能的でもあるのだ。
嫉妬にかられ、ハサミを振り回す女の吐息がまるでセックスをしている喘ぎ声のように聞こえるのは演出なのか偶然なのか……「愛とは人を傷つけるものなのだ」と言わんばかりの圧倒的な怒涛の前半にはこれが初監督作品なのかと驚いたぐらいだ。
しかし、物語の半ばを過ぎたあたりから「おやおや?どうした?」と思い始めてしまうのだがそれはまあ、初監督作品だからとしておこう……。
正直、ラストは笑ってしまったのだが、それでも主人公に思い切り感情移入させるその演出術はこの作品でも健在で、だいぶ荒削りな作品なのにストーカーの女性に本気で苛立ち、恐怖を覚えてしまうから驚きだ。
私のお気に入りのシーンはメイドがストーカー女に八つ裂きにされて救急車に運ばれるシーンだ。死にかけたメイドが言うセリフがだいぶ小洒落ていて笑ってしまった。もし見る機会があればチェックしておいてほしい。
許されざる者
2つの映画『許されざる者』を徹底比較!【イーストウッドVS渡辺謙】 https://t.co/VpKfpFr3PU #映画 #許されざる者 pic.twitter.com/8F2NLpCmgx
— ciatr シアター (@ciatrjp) 2016年12月28日
あらすじ
かつて悪名を馳せていたマーニーは、今は農夫としてひっそり暮らしていた。そんな彼に、若いガンマンが賞金稼ぎの話を持ち掛け…。
アカデミー賞4部門受賞の名作
恐怖のメロディから15年。15年でこんなに素晴らしい作品が作れるようになるのかと驚きである。
まずその作品タイトルからもわかるだろう。「恐怖のメロディ」→「許されざる者」である。観た人ならわかるだろうが、この「許されざる者」というタイトルは本当に秀逸である。未見の方は一体誰が許されざる者だったのだろうかと思って観てほしい。
ここからはネタバレ
この映画はカウボーイがトラブルから娼婦を切り刻むシーンから始まる。娼婦の顔をズタボロにした二人のカウボーイは即刻捕まり、保安官により「家畜を売春宿に引き渡す」という罰を下される。しかし、娼婦の仲間はこの裁定には納得できず、この二人のカウボーイの首に賞金をかけることで物語は始まるのだ。
さきほども言ったように映画は冒頭のシーンで面白さが大体わかると思うのだが、このオープニングは圧巻である。
この文字にすると数行のシーンには様々な登場人物の感情が入り乱れているのだ。そして、本来ならば悪者はこのシーンではカウボーイだけでもいいのにもかかわらず、このシーンに登場している人物全員に「悪」の要素が描かれているのだ。これこそが「許されざる者とは誰なのか」というこの映画のテーマを体現している。
そして、この事件は被害者、加害者をよそに周りの人間たちがどんどんヒートアップしていく。
娼婦たちは「仲間の尊厳を奪われた」という事実を盾に復讐するという名目で「男尊女卑に抗う」ということが目的になっていっているようにも見えてくる。保安官は賞金を目当てにやってくるならず者たちを懲らしめるという名目のもと暴力的で独裁的な統治をし始める。
では、当のカウボーイたちはというとほとんど描かれないのだ。そしてむしろ、顔を傷つけられた女性に関しては聖母マリアのように穏やかでいるのだから驚きだ。事件の当事者たちではない人たちの力で一つの街が混乱していくのだ……。
そう、それぞれに建前があり、名目があり、善人であるのだ。しかし、それと同時に悪であるということを非常になめらかなに描写で見せてくれるのだ。
ゾッとするラストは必見
許されざる者
#モノクロ版で見たい映画 pic.twitter.com/j0ZzEmy0Je— 緑色@映画 (@grinraisu) 2016年12月13日
目的を達した主人公たちだが、改めてここで自分たちがやっていることは「殺しなんだ」と確認する。悪を成敗するヒーローのように描かれてきたが殺しは圧倒的な悪なのだ。
親友のネッドが惨殺されたことをしった主人公のマニーは復讐の鬼と化し、真人間のように振舞っていた今までとは一変する。
しかし、保安官へ復讐しに行くシーンを見て一つの疑問が浮かぶ。「撃たれてもいい」とさえ思っているような銃撃戦なのだ。むしろ「撃たれたい」とさえ思っているように見えたのだ。ここら辺の解釈は人によって違うだろうが自分にはそう見えたのだ。いっそ、死んで愛する妻、親友のネッドの元へ旅立ち「許されたい」という咆哮のシーンに見えたのだ。
だからこそ、ラストはゾッとした。
結局主人公のマニーは生き延びた。寿命までしっかり生きたのであろう……。彼はずっと許されることはなかったのだ。
圧巻の131分である。濃厚で重厚なテーマなのにそれをのどごしよく見れてしまうのだから驚きである。この映画は痛快な娯楽映画でありながら重厚な悲劇でもある。
パーフェクトワールド
昨日パーフェクトワールド放送してて最後の方からしか観れなかったけど、凄く良かったから今度最初から観たい!!
あれだね撃たれ方がグラン・トリノを思わせるね!
あと男の子がめちゃめちゃ可愛い?? pic.twitter.com/c6K1RpBA3O— nanami?TWD (@naaa0206) 2017年1月13日
あらすじ
1963年アメリカ。テキサス及びアラバマ州全土に敷かれた緊急捜査網をかい潜って、脱獄犯ブッチ・ヘインズは、8歳の少年フィリップを人質に逃亡を続けていた。しかし、追い詰められ、凶暴性をむき出したブッチは、一夜の宿を提供してくれた男に銃を突きつけるのだった……
クリントイーストウッド映画で度々描かれる「親子」
イーストウッド映画では度々親子が描かれる。クリントイーストウッドの家族構成が複雑というのもあって、邪推したくなるくらい子供とうまくいっていない親というものが出てくるのだ。そして本作はまさに「親子の愛」と「正義とは」ということが描かれている。
物語はケビンコスナー演じるブッチの走馬灯として始まる。キャスパーのお面が傍に置かれ風がそよそよと吹く中、ブッチは気持ち良さそうに寝ているようにさえ見える。実際は死んでいるブッチをさも生きていて気持ち良さそうに寝ているように描いているのだ。
改めてこの映画を見返して脱獄の逃走劇の中、父親の幻影を追い求めアラスカ(パーフェクトワールド)へ向かうというこのお話を見ると深みが増した気がした。
父親の幻影を追い求めていたブッチが死の淵で思い返したのは死の少し前に出会った少年との数日間の出来事だったのだから。それこそが彼の追い求めていたパーフェクトワールドだったのかもしれないと思えてくるのだ。
涙なしには見られない
パーフェクトワールドすごく良い映画!
本当に観て欲しい? pic.twitter.com/dmVx4EunRo— ほのか (@funa_hono) 2016年12月20日
冒頭はブッチとテリーの脱獄から始まる。そして、フォードの車に乗り換えようと探しているうちにテリーは民家に押し入り母親をレイプしようとする。それをブッチが止めに入ったところにフィリップ少年がいて、フィリップを人質にとり逃走するという非常に緊迫したオープニングだ。
オープニングフェチの私がここで注目したいのは2点。①イーストウッドのフォードへのこだわりと②「許されざる者」のマニーと「パーフェクトワールド」のブッチの大きな違いだ。
①に関しては完全に余談だが、イーストウッドは本当にフォード車が好きだなと思ったということだ。のちにイーストウッドは「グラントリノ」というフォード車の映画を撮っていて、そのグラントリノでは本作のラストを彷彿させるシーンがあるというのもなんとなく気になった。
②はマニーは冒頭は真人間だと語り、ラストに許されざる者が誰か悟るという話だったのに対して、本作では冒頭からフィリップ少年に自らに銃を向けさせるのだ。「俺は悪人だ」と自分で言ってのけるのだ。当然作品が違えば主人公も変わるのだから当然なのだが、同じ「正義」と「愛」を扱う作品でもアプローチの仕方が全然違うのだ。
そして、そのアプローチの違いはまさに、ブッチがある意味「許されたもの」がフィリップ少年「許されざる者」になってしまう映画なのかもしれないとさえ思わせる深い映画なのだ。
ここからはネタバレ
さて、どうしてフィリップ少年が「許されざる者」でブッチが「許された者」かというのは完全に個人的な考察であり、一映画の見方として読んでもらえれば嬉しい。
というのも、ブッチは冒頭で少年に自分に銃を向けさせる。母親を守るために小さな体で抵抗する少年に自分の過去を投影させ、看守たちに自分を罰せられるのは耐えられないけど、この少年に罰せられるならよい。そう思ったのではないだろうか。
そして、物語は進み、ブッチという男は破天荒でならず者だがフィリップという少年に確実に愛を注いでいた。
しかし、一体良い父親とはなんなのだろうか?父に限らず良い親とはなんなのだろうか? そんな疑問がラストのシークエンスで一気に噴出することになる。ブッチが愛を注げと黒人を縛り、脅すシーンだ。そこで良い父親はこういう者だと言わんばかりに子供と遊んで見せる。
が、子供は喜ぶことはなく、大泣きしている。しかし、ブッチは構わず遊び続ける。黒人の子供の体が宙に浮き、着地する。その乾いた音だけが部屋に響き渡る。このシーンがこの映画のすべてだと思わせるくらいだ。
宗教に厳格な母親も、黒人の親が子供をしかりつける時に暴力を振るうのも、ブッチが良いと思う父親像も、すべて大人のエゴなんじゃないかと。これが正解、これが不正解。この人が良い人、この人が悪い人。その判断基準を押し付けているだけなんじゃないだろうか。それだけに、フィリップ少年が放った銃弾はすべてを切り裂いた。
子供だって判断しているんだ。大人のおもちゃじゃないんだと。
では、大人は子供を愛していなかったのか?それは違うだろう。そして、フィリップ少年は母親のことを「ママは良い人だよ。言えば綿菓子だって買ってくれるよ」と平気で言ってのけるのだ。子供は親の愛に当然気づいているのだ。少年が聖人にさえ見えてくる。
ブッチは少年の放った一撃で目を覚まし、フィリップと本当の意味で男と男としてラストを迎える。大人に罰せられることをこばみ、子供に殺されたいと願っていたブッチは大人に罰せられることを選ぶのだ。
お化けのコスチュームを着たフィリップ少年が、解放され一人で帰ろうとするが踵を返し、ブッチと手をつなぎ警察の方へ歩き出すシーンはそれこそ、天使に連れられるように、あの世からこの世へ戻ってくる、そんなシーンに見えてくる。
ラスト、ブッチは警察の銃弾によって死ぬ。しかし、それは紛れもない悲劇であると同時に、罪を認めたブッチが許された瞬間ではないだろうかと思うのだ。心のどこかで死を望んでいたブッチは少年の手で致命傷を与えられ、最後は大人の手で罰せられ死に至ったのだ。そうでなければ死んだときの顔があんなに満ち足りているはずはない。フィリップ少年という一つの無垢の魂がブッチを救ったのだ。
と、同時に、フィリップ少年の顔は悲痛だ。ブッチという大切な人を撃ったのは自分で、その人が死んでしまったという事実は変わらない。しかも、フィリップ少年は決して罰せられることはない。ブッチの命を奪ったのは警察だからだ。決してフィリップ少年は「許されない」のだ。
そう思うとこの映画は感動的であると同時に、とても辛く考えさせられる映画だ。考えれば考えるほど、見れば見るほど発見がある。噛めば噛むほど味が出てくるスルメのような映画だと言える。
マディソン郡の橋
昨日『マディソン郡の橋』を観て、今回のメリル祭りは終わり?
フランチェスカの役作りがすごかったな〜^ ^歩き方とか癖とかね pic.twitter.com/Bcgw2EGTmS— ちーさん (@abimarunya) 2017年1月17日
あらすじ
永遠の4日間-どんなに離れていても、あなたを感じる。
アイオワ州マディソン郡に屋根つき橋の写真を撮りに来たフォトグラファーと、そこに住む小農場の主婦。ふたりはごく自然に恋に落ち、わずかな時間の中で完璧なまでに愛を確かめ合い…そして別れていく。
メリルストリープという役者に脱帽
この映画の冒頭はメリルストリープの残した遺産相続の話から始まるが、この映画から目を離せなくなったのはメリルストリープが画面に映ってからだ。
もう、メリルストリープという女優に主人公のフランチェスカが乗り移ったとしか思えない。歩き方、首のかしげ方、他の役者への目線の持って行き方その一挙手一投足、細かい演技が光っていた。しゃべっていなくてもこんなに目を奪われる役者はなかなかいない。
そして、この映画を久々に見て「あれ?こんなにメリルストリープって肉感的だったっけ?」と思ったのだ。
決して美人、セクシーのタイプの役者ではないのだが、流れ行く人生に疲れたようなアンニュイな雰囲気も相まって人妻の色気というか、妙なセクシーさがこの映画の彼女にあるから驚きだ。
これは美しい恋愛映画なのか?(ややネタバレ?)
この映画の感想でよく聞くのが「こんな恋愛がしてみたい」か「熟女の恋愛なんて興味ない」だ。
後者は身も蓋もないが、この映画を恋愛映画としてみたらそう見えるかもしれないが、私はこの映画は結構辛辣な、人生の選択をテーマにした映画だと思っているのだ……。というのも、映画冒頭でも子供たちがフランチェスカの不倫を知らなかったことからわかるように、二人の恋は実らない、その結末がわかっているのだから実は恋愛映画としてはある意味破綻しているのだ。
もちろん破局してしまう恋愛映画も当然あって良いと思うが、恋愛映画でないと言い切るのは映画製作者・脚本家的な見方をすればこの映画の主人公はフランチェスカではないからなのだ。
商業映画制作者の一員という見方で多少、踏み込んだ話をすると映画とは「主人公がある事件にぶち当たり、右往左往する過程で自身の問題点が明らかになってきて、最終的に変質を遂げる」という話の作り方をしているものがほとんどだ。
しかし、このフランチェスカは右往左往はするが最終的に変化を「選ばない」のだ。そして、この変化を「選ばなかった」という人間の吐露を聞いた子供たち二人が変質しているのだ。息子は家族との復縁を選び、娘は距離を取ることを選び、今までの自分たちが築いてきた人間関係を一歩進めるのだ。そう、実はこの映画の主人公は子供たちだったのだ。
とはいえ、物語はフランチェスカを中心に話が進んでいくのだが……そんな理由で私はこの映画を恋愛映画だとは思っていない。
迫られる人生の選択
いや、それマディソン郡の橋ですやん! pic.twitter.com/md25EjcIkA
— リイゲー (@3koichi) 2016年9月24日
フランチェスカはもともとはイタリアの小さな村の生まれ。そんな少女がアメリカ人の現在の夫と出会いアメリカに来るという大きな選択をしたのだ。アメリカへ向かう決断をした時には将来自分たちに倦怠期がくるとは予想していなかっただろう。とてもキラキラした気持ちでアメリカに向かったはずだ。
時は流れ、子供は二人生まれ、二人ともティーンエイジャー真っ盛り。その頃になるともはやその頃のキラキラした気持ちは全くなく、喜びや希望というよりも不平不満の方が数えてみたら多い、そんな生活を送っていた。そこに身長190センチのモデル体型、声は渋くしゃがれたイケメンのおじさまが現れたらどうなるだろうか?しかも、自分の知らない世界を飛び回り、お話も弾む。これで恋に落ちるなと言った方が無理な話だ。
あんなに、ハイウエストでズボンを履いてもカッコよく決まるのは世界広しといえどクリントイーストウッドくらいだろう。
住んでいる場所はアイオワの片田舎。保守的で、不倫や浮気の噂などはすぐ広まってしまい噂の的になった人間は差別を受けるそんな地域でも、フランチェスカは不倫を選択した。
とても幸せな4日間。しかし、それ以上の選択はできなかったのだ。「夫と子供たちへの責任」を彼女は語るが、それは本音ではありつつも言い訳でしかなく「自分のしてきた過去の選択を否定するという選択」ができなかったに他ならないのだ。
彼女はイタリアからアメリカに来るときのキラキラした気持ちが忘れられなかったのかもしれない。すごく低俗な表現だが、「もう二度と同じおもいはしたくない」という気持ちや「傷つくのが怖いから傷つく前に恋をすることを諦める」という気持ちがあったのだろう。
彼女は自分の傷を舐めるかのように不倫仲間のルーシーと仲良くなるようになるが、重大な選択をすることができなかったフィランチェスカをよそにルーシーは不倫相手との結婚を選択、クリントイーストウッド演じるキンケイドは諦めていたアーティストとしての写真本の出版を選択と、周りの人間はどんどんと重大な人生の選択をして進んでいくことになるのだ。
彼女は死してなお、「あの4日間は奇跡の4日間」「リチャードと別れていたらこの輝きは失われていたでしょう」と過去の自分の選択を否定することができず前に進めずにいるのだ……。たしかに本当にそうなのかもしれないが、本当はそうじゃないかもしれない。これを確かめることは誰にもできない。だって選択されていない「たれれば」の話なのだから。
橋で遺灰を撒くということで成就しているようにも見える。フランチェスカの人生は否定されるべきではないが、私には甘くほろ苦い大人の恋愛映画の体を装った「重くせつない人生の選択」を扱った悲しいドラマに見えて仕方ないのだ。
ミリオンダラーベイビー
https://youtu.be/6uC45Rqt6fg
あらすじ
小さなボクシング・ジムを営む老トレーナー、フランキー。ある日、31歳になる女性マギーがフランキーに弟子入りを志願するが、追い返してしまう。フランキーの親友スクラップは、諦めずジムに通うマギーの素質と根性を見抜き、目をかける。フランキーはついにトレーナーを引き受けるのだが…。
ボクシングを取り扱ってはいるがボクシング映画ではない
だからこそこの映画は名画であり、議論の的となったのだが……この映画で扱っているのは「人の生命とは」「人種」「差別」「宗教」「家族」そして「愛」だ。
この映画は前半戦と後半戦では全く重さが違う。前半戦はまるでロッキーを見ているかのようなスポ根青春ものだ。しかし、後半は重く、悲しい。ショッキングなラストに言葉を失った人も多いのではないだろうか。
この映画に関しては今までのようにあまり多く語りたくはない。ただただ、観て欲しい。ラストの好き嫌いは分かれると思うが、こんなに見事で濃厚で切なく悲しくだけども人間賛歌になっている映画は数少ないと思う。
人種そして宗教
アイリッシュ系の家系の二人がのし上がり、イギリス人チャンピオンに挑んでいくという前半のストーリーからもわかるように、この映画は根底に人種の問題もある。
アイリッシュといえばアメリカにおける下層白人で差別を受けている人たちでもある。そんな人たちが掴もうとするアメリカンドリームという構図はまさにロッキーだ。そして、その差別やいじめという構図は小さなジムの中でも存在する。
デンジャーがリンチにあうシーンは悲しく痛烈だ。だからこそ、終盤にデンジャーが飄々とあらわれ「誰でも一度は負けるから」と語るのはすごく救いになっている。
そして、この映画で大きな要素になっているのが宗教だ。宗教を扱う映画となると日本では受け入れがたいものがあるが、この映画は宗教的素養があった方が理解出来るが宗教を軸においてはいるが宗教に関わらず普遍的につらい事件が起こるため宗教に馴染みがない日本でもズシンと響いてくる。
特に印象的なのは、終盤神父に悩みを告白するシーンだ。切実で、切迫した悩みに対して「答えは出ている」と無難な答えしか出せずに立ち去っていく神父だ。とても印象的に主人公のフランキーは一人ぼっちにされてしまうのだ。
この映画も「許されざる者」「パーフェクトワールド」同様主人公は「罪を背負っているのだ」。罪を背負った主人公がイーストウッドは好きなのかもしれないが、今回の主人公が背負っているのは「タオルを投げ込めなかった」という罪だ。この映画で投げ込むことになるタオルは鉛のように重いタオルだ。
グラントリノでもチェンジリングでも本作でもそうなのだが、イーストウッドは宗教は助けや指針にはなっても最後に行動するのは人間で、相手にするのも人間なのだから形式ばった説教や言葉、さらに言えば欺瞞は信じていないと強く発信しているような気がしてくる。
あと、余談だがラスト、病室のフランキーの顔がなきじゃくりすぎてほっぺたが真っ赤になっているのが妙にかわいい気がしたのは私だけだろうか?
グラントリノ
https://youtu.be/UZeG6ceVFSY
あらすじ
朝鮮戦争の退役軍人で、自動車工として勤め上げたウォルト・コワルスキーには、引退後の日常も近所の変わり様も、すべてが面白くない。中でも気に食わないのが、東南アジアからの移民であるモン族の隣人たちだ。しかしある事件が起こり、ウォルトは図らずも暴力と脅しを生業とする地元のギャングから彼らを守ることになる。
ザ・世直し映画
というのも、この主人公のウォルト・コワルスキーという男は古き良きアメリカを守ろうとする男なのだ。
冒頭の葬式のシーンからその堅物っぷりは十分表現されている。「古き良き」というのはこの映画で重要なキーワードだ。乾燥機のガタつきは直さずにはいられない。古い車だって冷蔵庫だって庭だってお向かいさんの雨どいだって壊れたものが許せない。古いものは作りがしっかりしているから大事にすれば応えてくれると、なんでも大事にしてなおしてしまうのだ。
そういえば聞こえはいいが、このじいさんだいぶぶっ飛んでいる。自分の正義を貫くためならギャングにだって向かっていくこの主人公は一説によるとダーティーハリーをだいぶ意識して作ったというから何となく納得してしまう。
インビクタス
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ジャージーボーイズ
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