オードリー・ヘップバーンにスパイの噂!銀幕の妖精に隠された真実とは?

「ローマの休日」「シャレード」「ティファニーで朝食を」など数多くの名作に主演し、ハリウッド史上最も愛された女優のひとりとも言われたオードリー・ヘップバーン。華奢で可憐な容姿で世界中を虜にし、今なお愛され続けているオードリーにスパイ疑惑があるそうです。まるで映画のようなお話ですが、そんなオードリーの半生と共に、スパイ疑惑の真相を探ってみたいと思います。

銀幕の妖精オードリー・ヘップバーンの悲しい過去

オードリー・ヘップバーンの生い立ち

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オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)、本名オードリー・キャスリーン・ラストンは1929年5月4日にブリュッセルのイクセルで生まれました。オードリーの父はオーストラリア・ハンガリーのボヘミアの出身で、貿易商を営んでおりました。

オードリー父も母もお互いが再婚で、オードリーの母には前夫との間に二人の息子を授かっています。その後、オードリーのご両親は再婚してオードリーが生まれました。

マルチリンガルだったオードリー

オードリーはベルギーで生まれましたが、父親の仕事の関係でイギリス、そして母の実家がオランダだったためにベルギー・イギリス・オランダの3カ国を頻繁に行き来していました。

そのためオードリーは小さい頃から、英語・オランダ語・フランス語・スペイン語・イタリア語の五カ国語を話すことが出来たようで、マルチリンガルだったようです。この当時マルチリンガルだったとはとても尊敬出来る気がします。

やがてオードリーの父は子守の女性と不倫関係になり、家族を捨てて家を出ていき二人は離婚することになります。その後、オードリーと母はイギリスのケントへと移住します。

しかし、当時戦争中だったためにドイツからの侵略を免れるために1939年に再びアーネムへ帰郷します。1939年からオードリーはアーネム音楽院に通い同時にバレエも習いはじめました。やがてこのバレエが彼女にとって大切なものになるとこの時はまだ分かっていなかったのかもしれません。

出て行った父への慈悲深い優しさ

恨んでいたはずの父親とその後、再会したオードリーは、父親が亡くなるまでずっと経済的援助をしていたと言われています。自分や家族を捨てた父親の面倒をみるなんて、普通に考えたら出来ない気がします。でもオードリーはそれをしました。

このことからもオードリーは、心の広い本当に慈悲深く優しい人だったのだとお分かりになると思います。ユニセフに力を入れていたことも考えると困っている人を放っておけない性格なのかもしれません。そこがまた彼女の魅力の1つなのかもしれません。

オードリー・ヘップバーンと第二次世界大戦

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1940年5月、アルンヘムがナチスに占領されました。占領されたためドイツ語が義務化され、様々な事情が変わり、ファン・ヘームストラ家(オードリーの母の実家)の全所有地と資産がすべて没収されてしまいました。

それだけではなく、兄のイアンはドイツの強制労働収容所に連行され、オランダ軍に勤務していた弟のアレキサンダーはオランダ降伏の後もレジスタンス活動に参加していたと言われています。

そして、オードリーの母の姉の夫である叔父と従兄弟が反ドイツのレジスタンスに参加していたとしてオードリーの目の前で処刑されてしまいます。いくら戦時中とはいえ、叔父や従兄弟が目の前で処刑された様子をオードリーはどんな気持ちで受け止めたのかを考えると胸が痛みます。

オードリーは、ナチスによって行われた凄惨で悲惨な光景を数多く目の当たりにするような現代では考えられないほどの凄まじい戦争の体験をしたのです。ナチス軍がユダヤ人を強制連行するところや沢山の青年たちが逮捕されて射殺される光景を毎日見てきただなんて・・・考えだけで苦しくなります。

スパイ疑惑のその本当の理由とは?

オードリーの告白

当時、そこそこ有名なバレリーナになっていたオードリーは、秘密でバレエの公演して稼いだお金を反ドイツのレジスタンスに渡していたといわれています。後にオードリーはイギリス軍のメッセンジャーを務めていたと告白しています。

森に隠れていたイギリス軍空挺部隊へのメッセンジャーを靴の中に隠して運んでいたそうです。しかし、ある日メッセージを届ける任務の帰り道でナチ軍に見つかり司令部へと連行されてしまったそうです。

オードリーはなんとか脱走をし、25日間もの間地下室で一切れのパンとジュースの飲みで生き延びました。大戦中にオードリーは重度の栄養失調に苦しんでいたと言われており、五年間もの間地下の隠れ家で生活をし、空腹を満たすためにチューリップの球根を食べていたという話はあまりにも有名です。

彼女は栄養失調で黄疸と重い貧血にかかったままこの戦争が終結を迎えました。この影響による偏頭痛は大人になってもずっと抱え続けることになってしまったそうです。そんな過去をずっと引きずっていたとは意外ではありませんか。

第二次世界大戦中オランダでは他の国と同様に、ナチスへのレジスタンス運動(抵抗運動)が組織されていました。オードリーはこのレジスタンス活動を手伝っていたようなのです。

バレエを観せて得たお金を渡していたことがレジスタンスの資金稼ぎをしていたためであったとしても、それが果たしてそれがスパイであるのか?とも思ってしまいます。このことだけでスパイだと断定するのはとても難しいのではないでしょうか。

それに当時のオードリーは地下の隠れ家に住んでて、来る日も来る日も飢餓と死への恐怖に怯えながら生きていたことを考えると、スパイだったと言われるような行動をしたこともいたし方ないとも言える気がします。

歴史的背景を考えれば、生きるためには必要なことだったのかもしれませんし、オードリーではなくても自分がその立場だったとしても同じことをしてしまっていたと思うのは筆者だけでしょうか。

ユニセフとの出会い

1945年5月5日、オードリーが16歳の時ににオランダが解放されるとオランダ兵の療養所でボランティアの看護師として働きました。オードリーは、この戦争体験によって「全てのことに尊厳を持てるようになった」と言っています。

戦時中、食料をドイツ軍にすべて持ち去られ、毎日大勢の餓死者が出る惨状のなか「1日、ベッドで本を読むことにするわ。そうすればおなかがすかないもの」と言うほどに彼女も飢えていたなんて・・・こんなふうにオードリーの過去を知らなければ分からない事実ですね。

ユニセフでの活動の根源は恩返し

オードリーは大好きなバレエを踊ることができないほどに弱っていました。彼女の兄達は犬用のビスケットすらも口にしたという話しも残っています。

このままでは死が目の前に訪れると思われた時に、大量の支援の食料が届きました。その善意は、ユニセフの前身であるアンラという慈善団体からのものでした。彼女にとってはこの食料は命の恵だと感じられたことでしょう。

そしてオードリーはアンラの届けてくれた何年も食べていなかったチョコレートを口にし、徐々に体力を回復したそうなのです。オードリーは、その時に命を救われた恩を返そうとユニセフの親善大使になったと言われています。

「ユニセフ」の前身「アンラ」からきた援助に感動したことは、彼女がその後のユニセフに献身的に参加するきっかけにもなったと彼女自身が言っていたそうです。ある意味援助によって命を救われたのですから、オードリーではなくてもそう思うようになると思います。

餓死寸前だったオードリー

オードリーの細くくびれたウエスト、細く長い手足に見とれ、こんな風になりたいと感じたことのある女性は世界にどのくらいいるでしょうか。様々な映画のシーンで魅せたドレスの数々。あのスリムな体型だからこそ美しくまばゆいばかりに光り輝いていたのだと思っていました。

けれど、そんな女性の誰もが憧れるスタイルになる前に第二次世界大戦中に彼女が栄養失調や重度の貧血、呼吸器障害、浮腫に悩まされ、この栄養失調などのせいで代謝系にダメージを受け体重の増えにくい体質になってしまったなどと誰が想像出来たでしょうか。ほっそりとしてスタイル抜群な彼女の背景には悲しい過去があったんですね。

母の教えを最後まで守った彼女

餓死寸前まで行くような経験をし、苦しく辛いのにオードリーがいつも前向きでいられたのは、彼女の母親が「自分のことよりも、他人のことも考えなさい」といつも教えていたからだといわれています。常に自分が人のために何ができるかを考えて努力を惜しまずにしてきたことは、外見だけではなく妖精と呼ばれるに相応しい内面だと思います。

バレエに打ち込む日々からの転機

戦争が終わり、2人の兄も無事に帰ってきたのですが、住処を失ったファン・ヘームストラ一家はアムステルダムに移り住みます。そこで、オードリーは3年間バレエのレッスンを受け続けます。彼女にとって、悲惨な過去から逃げる方法はただひとつ、バレエが生きがいでもありました。

ある時、『オランダの七つの教訓』という映画監督であるチャールズ・ユグリー・ファン・デル・リンデンがバレエ教室を見に来ており、そこでオードリーが脇役として抜擢されたのです。バレエが好きで踊っていた彼女にとっては大きなチャンスを掴んだと言っていいいでしょう。

バレエを諦め演劇の世界へ

背が高いオードリーは、バレリーナとしての限界を感じ20歳になる頃からバレエの道から演劇の道へと歩み始めます。ショーや写真のモデルを始めて俳優学校にも入り、ぼたんつきのハイブーツというブロードウエイミュージカルのロンドン公演の端役で舞台のデビューも果たします。

この舞台を観に来ていたイギリスのプロデューサーがオードリーを気に入り、舞台への出演が増えていきます。1949年には、ファッション雑誌「VOGUE」に掲載されると次々に雑誌からのモデルオファーが舞い込み、1952年オードリーが22歳の時についにオードリーの名前を世の中の人が知ることになったあのローマの休日のロケが始まったのです。

アンネの日記とオードリー

実は、オードリーは「ローマの休日」で世界的に有名となった後に「アンネの日記」の映画化するにあたり、アンネ・フランクの役を演じてほしい。と何度も依頼されたのですが、すべてその依頼を断っているのです。

アンネの父親であるオットー・フランクさんが直接オードリーに会いに来て、「どうしてもあなたに演じてほしい」と依頼したのですが、頑として首を縦にふらなかったと言われています。

オードリーは、アンネと自分自身の体験とがあまりにも重なって感じるためにどうしても演じることができないと言ったと言われています。実はオードリーとアンネ・フランクには共通点が沢山ありました。

同じ年に生まれ同じ国であるオランダに住んでおり、彼女達は同じように第二次世界大戦を体験したのです。だからこそオードリーは、アンネと自分を重ねあわせ、過去の嫌な思い出を思い出すことを避けたかったからこの依頼を断ったのでしょうね。

第二次世界大戦後に発行されたアンネの日記を初めて読んだ時、オードリーは胸が引き裂かれるようだったと語ったそうです。そして、自分の昔の体験を振り返り、オードリーが言った言葉があります。

「アンネ・フランクの日記を読みながら、私は自分のあらゆる感情と恐怖を再体験した」と・・・・。そんなオードリーが1989年のユニセフの親善大使就任インタビューの際に言った言葉があります。

「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから」

と・・・・幼い頃に第二次世界大戦という戦争を体験し、餓死しそうな寸前まで何も食べられなかった時に救ってくれたユニセフに対して感謝をしている彼女だからこその言葉なのかもしれません。

オードリー・ヘップバーンの名言というものが数多くありますが、彼女は先ほどご紹介したとおりに戦争のことも言葉にして残しています。本当ならば忘れたい過去であろうに・・・・

晩年にかけて慈善活動に力を入れていたのも彼女の悲しい過去である幼少期の経験があるからこそ様々な名言というものが生まれてきたのかもしれないですね。

わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから

この言葉は1989年、オードリーがユニセフ親善大使に就任した際に残したコメントです。幼い頃戦争を体験した彼女は、華やかで誰もが羨むような煌びやかな女優としての人生にきっぱりと別れを告げ、世界中の厳しく今食べるものもないような状況にある子どもたちのために力を注ぎました。

そして1992年、彼女はアメリカでもっとも栄誉のある市民栄誉賞「自由勲章」を受賞しています。とても立派な行動ですから、勲章も当然だと思われます。そして、翌年の1月20日スイスの自宅でその生涯に幕を閉じました。

“女優としての人生は、まさにユニセフのこの仕事をするためだったのだと思う。”

“有名になってよかったわ。(知名度のおかげで、人は耳をかけてくれるし)こういう仕事ができるもの。本当に価値ある仕事がね。”

オードリーはそう言って、戦争や貧困の深刻な地域を訪ね、飢えや病気に苦しむ多くの子供達の現状に接し、励まし、食料、薬品などの支援やユニセフの広報活動に励み各地の悲惨な状況を自分が病に侵されていても世界の人々に訴え続けました。

女優引退後も煌やき続けたオードリー

今でこそ美容整形なるものが発達し、有名女優たちはこぞって整形などをしていますが、ハリウッド黄金時代と呼ばれたあの時代にトップを極めた多くの女優たちは違いました。

年をとって美貌が衰えはじめると、薬やアルコール漬けの毎日になってしまい不慮の死を迎えてしまうといった例が多かったと言われています。オードリーの引退後の生き方は、引退した女優の生き方の新しい道を切り開いたともいえるかもしれません。

目には見えないものの大切さ、、年齢を重ねると自分の顔に責任持たなければならないなどのオードリーの残した言葉にはとても重みがあり心に響くように感じられます。

今の自分をすべてを受け入れて、自然にありのままで老いたオードリーの写真の数々は、気高く気品に満ち溢れています。晩年の彼女の笑顔も若い頃の妖精と呼ばれた時と同じように輝いていました。あの可愛らしい笑顔こそが彼女が輝いて生きた証なのでしょう。

オードリーが愛した詩の奥に見えるもの

オードリーが亡くなる年の最後のクリスマス・イヴに、彼女の最愛の2人の息子のショーンとルカに読み聞かせたという詩をご紹介します。

この詩の原文は、アメリカの詩人サム・レヴェンソンが孫娘の誕生に贈った手紙であり、彼の詩集『時の試練を経た人生の知恵』に収録されていたものになります。今回は日本語訳だけ載せさせていただきます。英文にご興味のある方はお調べになってみてくださいませ。

“時を越えた美しさの秘密”

魅力的な唇のためには、優しいことばを紡ぐこと

愛らしい瞳のためには、人々の素晴らしさを見つけること

スリムな体のためには、飢えた人々と食べ物を分かち合うこと

豊かな髪のためには、1日に1度子供の指でといてもらうこと

美しい身のこなしのためには、

決してひとりで歩むことがないと知ること

人は物よりもはるかに多く回復し、復活し、生き返り再生し

報われることが必要なのです。

繰り返し報われることが。

人生に迷い、助けて欲しい時、いつもあなたの手のちょっと先に

助けてくれる手がさしのべられていることを、忘れないで。

年をとると、人は自分に2つの手があることに気がつきます

ひとつは自分自身を助けるため

もうひとつの手は他者を助けるために。

出典:https://kaumo.jp

このサム・レヴェンソンの詩、「時を越えた美しさの秘密」という詩を彼女はとても気に入っていたと言われています。実は、この中の一節に「スリムな体であるためには、飢えた人々と食べ物を分かち合いなさい」というフレーズがあります。

この言葉がオードリーの心の奥底にある辛い記憶に何かを語りかけていたのかもしれません。最後のフレーズの「年をとると、人は自分に二つの手があることに気づきます。 ひとつは自分を助ける手。そして、もうひとつは他人を助ける手」これは見習わないといけない本当に素敵な言葉だと思います。

スパイ疑惑の真相 ~彼女が歩んだ激動の人生~

生涯を通してたくさんの人々に愛情を注ぎ、また多くの人々から愛されたオードリー・ヘップバーン。大女優でありながらも献身的な優しい心を忘れなかった彼女の行動は、どこかマザーテレサのようにも感じられます。

果たしてそんな彼女がスパイだっただなどと誰が信じるのでしょうか?あくまでも疑惑なだけです。確かに疑惑とされているスパイ行為とされている事についても、戦時中彼女がしてきた行動は、見方や考え方によっては、スパイだと思われても仕方がないことをしたのかもしれません。

しかし当時は戦時中、資金を稼いだり、手紙を届けたりするだけのことが果たしてスパイ行為に当たるのかどうかは疑問です。仮にオードリーがスパイだったとしても何一つ今の状況は変わらないと思いませんか。

彼女が恩返しとしてしてきたユニセフでの慈善活動は本当に尊敬出来ることでありますし、いくつになっても少女のような彼女の晩年の笑顔にも今なお惹きつけられ、大女優だった彼女の晩年は女性としてとても憧れる生き方だと思います。そんな彼女がスパイだったなどと・・・あまりに映画のようで、あまり真実味がないような気がするのは私だけでしょうか。

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