黒田官兵衛の名言10選!天才軍師はキリシタンだった?

大河ドラマ『軍司官兵衛』が記憶に新しい黒田官兵衛ですが、戦国最強の軍司と云われており緻密な計画と冷静な判断で主君秀吉の天下取りをサポートしました。しかし、冷静な判断が他人には冷血&狡猾と映ったようで、秀吉からも警戒されました。しかし、彼はキリシタンだったのです!名言の中から、その辺の繋がりを見てみましょう。

君の御運開かせ給うべき始めぞ

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『あなた様が天下をとる絶好の機会ではありませんか』の原語と思われるのが上記の名言です。本能寺の変が起こった時、黒田官兵衛は豊臣秀吉の軍司として織田信長の命令で毛利討伐の為、備中高松城の水攻めの最中でした。

本能寺の変にて明智光秀に討ち取られた、主君織田信長の訃報を聞いた秀吉が動揺して涙を流しながら放心状態だったときに、黒田官兵衛が秀吉の側に来て『君の御運開かせ給うべき始めぞ』と囁いたと云われております。

この言葉で、秀吉は我に返り、後に中国大返しと云われた、明智光秀討伐の準備を始めます。この囁きで、秀吉は黒田官兵衛の底知れぬ力量を感じ取り、以後軍司として頼る反面、警戒するようになったと云われております。

次の天下人は秀吉である

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上記の名言は、豊臣秀吉が明智光秀討伐に向かう最中に、秀吉の家臣たちの間に流れたという噂です。この噂の元を造ったのが黒田官兵衛でした。主君織田信長の死は、秀吉の家臣たちにも動揺を与えました。

しかし、秀吉と軍司官兵衛は、毛利攻略の為、備中高松城の水攻めの最中であり、光秀討伐に向かうには毛利家と和睦をまとめなければならず、信長の死を毛利家に知られずに早急に和睦をまとめなければなりませんでした。

この難しい和睦を担当したのが軍司官兵衛で、さらに備中高松城の水攻めの具体的なプラン作成と陣頭指揮をとっていたのも黒田官兵衛だったのです。

太閤殿下と言えば…サルだけど、似てないね。 #さる #猿 #サル #太閤 #monkey #豊臣秀吉 #大阪城

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織田信長の訃報が秀吉と官兵衛の元に届いた時には、高松城攻めの大勢は粗決まったような状況で、秀吉は最後の詰めを残して、信長の到着を待とうとしていた矢先だったのです。毛利家から和睦の交渉に出てきたのが、外交では戦国随一と云われた安国寺恵瓊でした。

秀吉軍有利な状況で和睦を急いでは信長の死を悟られる危険性もあり、和睦を早急にまとめなければならい内情と、和睦後の進軍中に背後から毛利軍の追討を受けないようにする為にも、かなり難しい交渉だった筈です。

この難しい和睦をまとめた後に、冒頭の『次の天下人は秀吉である』の噂を全軍に流して士気を上げ!中国大返しという軍行を成功に導いたのは、官兵衛の交渉術と絶妙のタイミング&バランス感覚だったのかもしれません。

我人に媚びず、富貴を望まず

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戦国大名の生き様とは対極にあるような上記の『我人に媚びず、富貴を望まず』という名言。これがキリシタンであったという黒田官兵衛の心情を最も表す言葉だと思います。人に媚びて人を裏切るのは当たり前!切取り自由の下剋上の戦国時代、自身の名言としてこの言葉が残っている自体がキリスト的です。

軍司官兵衛の通り名で知られる黒田孝高は、天昇15年(1546年)に姫路で生まれたと伝わっております。最初は、親子2代で姫路城主の小寺氏に使えました。主君小寺政職が織田信長に従属した為、後に信長に仕えるようになりました。

この信長に仕えている時に、生死の間を漂う体験をしました。この時の体験が後のキリスト教への改宗と『我人に媚びず、富貴を望まず』という名言に繋がったと思います。

黒田官兵衛が生死の境を漂った体験とはどのように起こったのでしょうか?織田信長の命令で豊臣秀吉の臣下に入り、毛利討伐の最中に荒木村重が信長に反旗を翻しました。この村重の説得に単身向かったのが官兵衛でした。

官兵衛は、村重説得に失敗して有岡城に投獄されます。この時信長と秀吉は官兵衛が裏切ったと思い、信長は秀吉に官兵衛の嫡男長政を殺すように命じます。この命令を独断で阻止して後の黒田長政の命を救ったのが、秀吉臣下のもう一人の天才軍司竹中半兵衛その人でした。

裏切ったか?切られて死んでいると思われていた官兵衛でしたが、一年後有岡城の落城時に奇跡の生還を果たします。一年間まともな食事も与えられず、全身皮膚病に侵され、左足は不自由になり、発見され時は、骨と皮の屍同然の状態だったと云われております。

この生死の境を彷徨った体験が、黒田官兵衛の人生哲学を決定づけたと思います。また、一度十字架にかけられ歿した後復活したキリストに重なる部分でもあります。

義にありて、命を惜しむべきにあらず

武士の鏡のような『義にありて、命を惜しむべきにあらず』という名言。黒田官兵衛も戦国大名の一人で、一人の人間であり豊臣秀吉に天下人の器と云われた人物、上記の言葉はどのような心境で発せられたのでしょうか?

官兵衛は、秀吉から『兄弟の親しみをなす』という誓紙を与えられ、褒美の約束手形のように陣中にあっても肌身離さず家宝のようにしていたと云います。そして、盟友の竹中半兵衛に手柄の割には褒美が少ないと愚痴をこぼした事がありました。

この愚痴をこぼした時に、上記の誓紙を半兵衛に見せたら、即座に誓紙を破かれて、火鉢で燃やされてしまいました。半兵衛曰く『秀吉殿と半兵衛どのは主従関係であって兄弟にあらず、この誓紙は災いの元』と言って官兵衛を諭したそうです。

同じ信長の命により、秀吉の臣下に入った黒田官兵衛と竹中半兵衛の戦国軍師の双璧と云われた両兵衛ですが?最後まで秀吉に忠義を尽くした半兵衛に対して、秀吉に警戒され德川家康からも野心を疑われた官兵衛!対象的な二人でした。

生死の境を彷徨い生還して、秀吉に忠義を果たし手柄を立てているのに、褒美が少なすぎるし、秀吉は自分に野心があると疑っている?人間なら弱音の一つは出てくる筈で盟友半兵衛に愚痴をこぼしてしまったのかもしれません。

息子の命の恩人でもある半兵衛に、上記のように諫められて、義と命について自戒の念に気づき『義にありて、命を惜しむべきにあらず』という心境に至ったと思います。

夏の火鉢、ひでりの傘

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上記の明言は必用のないもの与えても部下はついてこないという例えですが?タイミング&バランス感覚に長けた黒田官兵衛ならではの格言だと思います。軍師の一面が強調される官兵衛ですが築城の名人とも言われております。

豊前国主となって築城した中津城、明治まで続く福岡黒田藩の主城!福岡城完成前に没した官兵衛ですが、築城の設計をしたのは官兵衛です。また、豊臣秀吉の命令により大阪城を設計(縄張り)したのも官兵衛でした。

築城は人心掌握術に長けていなければ、陣頭指揮はとれません。狡猾で冷血漢の一面がクローズアップされがちな官兵衛ですが?部下には信頼されていた筈です。

旅行〜3日目🙋🏻 大阪城!!すッごいかっこ良かった😊 #大阪城 大阪めっちゃ楽しい❤

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黒田官兵衛が設計した大阪城ですが、現在の大阪城は、大阪の陣で豊臣方が破れ焼け落ちて、 德川時代に再建されたものなので、石垣組の名人と云われた官兵衛の築城の跡は残っておりません。

大阪城落城に至った大阪の陣は、ご存知のように夏と冬の2回あり、先の冬の陣では官兵衛の設計がモノを言い堅牢を誇り、徳川方を真田丸に誘い込んで撃退させる要因を造りました。

しかし、官兵衛の設計で堅牢さを発揮した大阪城に手を焼いた徳川家康は、大阪城の堀を埋めてしまい、夏の陣において大阪城攻略を果たし豊臣家滅亡に追い込みました。

神の罰より主君の罰を恐れよ、主君の罰より家臣・百姓の罰を恐れよ

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黒田官兵衛は、豊臣秀吉に警戒された為、若くして家督を長政に譲り剃髪して如水と名乗りました。これ以上秀吉に警戒されぬよう鼻毛を伸ばしてボケた振りをしていたとも伝わっています。

家督を譲った長政に対して云った言葉が『神の罰より主君の罰を恐れよ、主君の罰より家臣・百姓の罰を恐れよ』でした。神の罰は祈れば免れる、主君の罰は媚びて謝ればいい、しかし、家臣や百姓に恨まれると国を失うという意味です。

家督を譲った長政は筑前55万石の大名になっておりましたが、戦国の世を生き抜いた黒田如水から見たら、まだ嘴の青いひよこのような存在だったのかもしれません。



如水により家督譲り受けた黒田長政は、豊臣秀吉に良く仕え、秀吉の没後は時勢を見抜くのは官兵衛譲りで長けており、徳川家康に接近して関ケ原では東軍で手柄をたて筑前55万石の大名になりました。

上記の官兵衛の憂いが現実のものとなってしまったのが、後藤又兵衛の出奔ではないのでしょうか?その武勇伝が映画や小説に頻繁に登場する後藤又兵衛は、黒田如水死去の2年後黒田家を出奔しています。

後藤又兵衛は、大阪夏の陣において、壮絶な最後を遂げます。しかし、一介の武士なのに生存説が各地に残る程の伝説の武士が後藤又兵衛という人物です。

屋敷と米をやるから、庭には梅の木を植えろ。そうすれば梅ぼしが出来るから、食うには困らない!

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質素倹約!黒田家の家風を造ったと云う黒田官兵衛、上記の名言がそれを表しています。上で紹介しているように投獄されて飲まず食わずの生活を1年間送っても、人間は死にやしないという実体験から出た言葉でもあります。

戦国武士は、水、米、みそ、梅干しを与えていれば、食の不満は出なかったと伝わっています。これに、小魚の煮干を加えれば、ビタミン、ミネラル、カルシウム、タンパク質、現代の栄養学からみてもバランスが取れた食事になります。

まあ、上記だけでは毎食が日の丸弁当又はみそおにぎり?になってしまいますので、現代日本人には耐えられないかもしれませんが?何かに熱中したら食を忘れると言いますし、毎回空腹なら左記の2食でも十分かもしれません。

俺が日頃倹約するのは、家臣に存分取らせたいからだ、使わぬ金なら瓦や石ころにも劣る

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ケチとの噂もあった黒田官兵衛ですが?コレは豊臣秀吉から十分な報酬を得ていなかった事も一因します。しかし、官兵衛は家臣には気前よく報酬を与えていたようです。

実際、関ケ原合戦の兵士募集では浪人たちに一騎あたり銀三百匁、徒下たちには永楽銭で一文づつ当座の支度金として前金で渡したとあります。

また、2度、3度貰う者が出ても笑って許して、上記の『俺が日頃倹約するのは、家臣に存分取らせたいからだ、使わぬ金なら瓦や石ころにも劣る』の言葉を発したと伝わっています。

人には得手、不得手がある。わしは若い頃から、槍や太刀をとって敵と渡り合うのは不得手だった。しかし、采配を振るい、一度に多くの敵を討ち取るのは得意だ!

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軍師の資質を自らの言葉で表したと思われる名言が上記のそれです。天才軍司の名を欲しいままにした黒田官兵衛!その集大成が豊臣秀吉の天下統一の総仕上げとなった小田原城攻めです。

徹底抗戦を主張して小田原城に籠城する北条氏を、圧倒的な戦力!22万人とういう兵力で包囲して小田原城無血開城の和平を成立させた交渉役も軍師官兵衛、最後の大仕事でした。

官兵衛は、和平交渉の時期を見計らい、単身丸腰で小田原城に乗り込みます。この単身丸腰というのは、一年間、有岡城に投獄された苦い経験が活かされていると思います。

北条方に警戒されぬよう単身丸腰だったのでしょうが?この時、既に有岡城に一年間幽閉された件は、世間に知られており、官兵衛は節義の士と評判を得ていて、交渉役が官兵衛だったからこそ、北条氏も和平条件を呑んだと思われます。

思いおく言と葉なくて、ついに行く道は迷はじ、なるにまかせて

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上記が黒田官兵衛の辞世の句です。豊臣秀吉が自分の死後豊臣家の行く末を安じて没したのとは、対照的な死に際だったと思います。秀吉に野心を警戒されたと云われる官兵衛ですが、真相はどうだったのでしょうか?

秀吉の生前は、野心を伺わせるような行動を官兵衛は一切とっていません。関ケ原合戦の時に九州を切り取ろうと軍事行動を起こしたとなっていますが?こちらも戦後すぐ徳川家康に返上しており真相は謎です。

また、黒田官兵衛は自分の死期を予見しており、予見した死亡日当日に『思いおく言と葉なくて、ついに行く道は迷はじ、なるにまかせて』という辞世の句を詠み、息を引き取ったと云われます。

まとめ


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黒田官兵衛の洗礼名はドン・シメオンといって上記が黒田如水の時の印章です。同じキリシタン大名であった高山右近の誘いでキリスト教の洗礼を受けており、官兵衛はキリシタンだったのは事実のようです。

官兵衛は、敵に対しては血も涙もない冷酷な仕打ちや軍事行動もとりましたが?味方や家臣には、極力死者を出さぬよう配慮し、部下に死罪を申し付けた事はなかったと云われております。コレは官兵衛がキリシタンだった為と思われます。

『酒は飲め飲め・・・・』で有名な黒田節は、福岡藩の黒田武士の気概を世に伝えた名曲です。この黒田福岡藩の礎を築いたのが黒田官兵衛という武士だったのです。

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