【喝采】ちあきなおみ デビューから現在までの歩みを辿る

表舞台かラ姿を消したスター歌手・ちあきなおみ。流行歌にとどまらず、演歌やジャズ、シャンソンまでを見事に歌いこなす彼女の生々しい生き様・歌い様を見よ!

歌謡曲の女王・ちあきなおみ

上手さだけではない、情感あふれる歌いっぷりは他の追従を許さない!

日本レコード大賞(以下、レコ大)がまだ、大晦日に生放送していた頃。この賞は、その年の日本の歌謡界の頂点を決める権威のある賞でした。1972年12月31日、『喝采』でレコード大賞を受賞したちあきなおみは、この瞬間に間違いなく「女王」としての冠を得る事に成功したのです。

デビューから3年、大賞受賞には早かったと思います。ただ、それだけ時代が彼女のような歌手を求めていた事も確かです。“歌が上手い歌手”がいると言われ続けてきた彼女に、実績がプラスされたという事です。以降も、ヒットを飛ばし続けていく姿は「歌謡曲の女王」と言っても過言ではない活躍ぶりを見せます。

低いのに、カスレ気味にならない艶のある声質。詞が与えてくれる世界観を、表現できる情感と歌唱力。もはや、ちあきなおみは自分でしか表すことのできない世界を形成して行ったと言えるのではないでしょうか。オリジナリティが確立されたという事ですね。これもまた、凄い事です。

ここでは、伝説になりつつある彼女の足跡を追い、そして女王・ちあきなおみが残していった歌声の一端を探ってみる事にします。

芸能界デビューまで

プロ意識は大人以上だった幼少期~少女期



1947年9月7日に東京都板橋区で生まれた、ちあきなおみのレコードデビューは21歳の時です。しかし、彼女はその遥か以前よりプロとしての舞台に立ち、一家の生計の柱になっていました。資料によると、生い立ちは以下の通りです。戦後の混乱期に転居を重ねる中で、彼女の息の長い活動の基礎は、この頃に培われていきました。そのうえ、早熟であるというのも特徴です。

東京都板橋区出身。3姉妹の末っ子として誕生し、芸事の好きな母の影響で4歳でタップダンスを習い、5歳の時日劇にて初舞台を踏む。小学2年生の時に神奈川県藤沢市辻堂へ転居し、藤沢市立辻堂小学校を卒業、藤沢市立湘洋中学校へ進学する。中学2年生で大田区立大森第三中学校へ転校、中学3年生で新宿区立大久保中学校(現:新宿区立新宿中学校)へ再転校する。

米軍キャンプ、ジャズ喫茶やキャバレーで歌ったり、演歌歌手としての修行をしたり、下積み時代の10代は芸名を変えながら、いわゆるドサ回りで全国を回る。橋幸夫やこまどり姉妹などの前座歌手も務める。実力のあったちあきは既に、一家にとって大黒柱的存在になっていた。

出典:https://ja.wikipedia.org

ちあきなおみが初ステージに立ったとされる日劇は、当時のショー・ビジネスではメッカ的な存在です。その日劇に出演した経歴は、「箔が付く」事となり、米軍キャンプや大手キャバレー回りの営業をかなり有利にさせてくれたでしょう。その時、日本は朝鮮戦争景気です。補給基地として、また休暇の地として潤いますよね。特に、米軍キャンプを回っていたちあきにとっては、収入もさる事ながら、“音楽に触れる”いい機会だったと思います。

生バンドがのてはやされていた頃でしたから。その本物との出会いが、彼女の「歌謡界の女王」と言わしめる基礎となったのは、自然の流れとも言えます。耳から入ってきた音楽を全身で吸収していたのでしょう。今、彼女のベストアルバムを聴いてみても、他に類を見ない上手さですもんね。ビックリです。

先に引用したプロフィールによると、小学校2年時に都内から辻堂(神奈川県)へ転居とありました。これは、両親の別居によるもので後には家庭裁判所の調停の末に正式に離婚します。それまでは、好きなタップや踊りで収入を得てはいましたが「一家の生計」を意識して、プロ根性が座っていったのは、この頃なのではないでしょうか。

そのちあきなおみにとって、人生の転機とも呼べる大きな出会いがあったのが、13歳の時です。彼女の歌を聴いた三芳プロ社長・吉田尚人氏がその人で、こまどり姉妹や橋 幸夫のステージの前座をさせたり、大手キャバレー回りを積極的に展開して行きます。それだけではなく、本格的なレコードデビューを見据えて作曲家の鈴木 淳(デビュー後も、ちあきの多数の曲を作曲)に彼女を預け、基礎からの訓練をさせたのです。

こうして修行する事1年4ヶ月、1969年6月に遂に彼女は日本コロムビアから『雨に濡れた慕情』でデビューしたのです。「文句ひとつ言わずに、黙ってレッスンに打ち込んでいた」というのですから、その努力には脱帽モノですね。本当に頭が下がります。

アイドル時代、そして『喝采』

『四つのお願い』で紅白歌合戦初出場

「凄く歌の上手い女がいるらしい」「コロムビアからデビューするらしいよ」……。音楽業界でまことしやかな噂が流れる中、ちあきなおみは前述の『雨に濡れた慕情』でデビューしました。しかし、そこそこのヒットはしたものの、関係者を満足させる業績ではなかったいうのも事実です。

のちに作詞を担当した吉田 旺は「通好みにしすぎた」と回想しています。筆者が考えるに、デビューの新人にしてはマニアックな曲を上手に歌いすぎたのではないかと思います。上手く歌いすぎて、初々しさに欠けていたんでしょうね。今、聴き直しても確かにそんな感じがします。

そこで、大衆ウケに少々路線を変更した『四つのお願い』(1970年)と『X+Y=LOVE』(1970年)が連続ヒットを飛ばします。「お色気アイドル路線」と呼ばれるこのラインは、世間からも認められて、ヒット歌手の仲間入りを果たしました。そして、この年には『NHK紅白歌合戦』(以後、「紅白」と表記。~1977年まで8回連続、1988年にも出場)に初出場して、彼女は全国区の人気を不動のものとしたのです。

役者さんなどは、「ドラマNHKに出演した翌日から、道で声をかけられる事が多くなった」と、今でも言います。紅白出場の影響は、現在とは比べられない程、大きかったと思いますよ。まさに、女王までの道筋が見えてきた時期だったのではないでしょうか。
(注:ジャケット写真内に不適当な語が含まれていますが、オリジナルの原語のままとしました)

『喝采』で日本レコード大賞受賞。頂点の座へ!

紅白にも出場して流行歌手の仲間入りを果たした、ちあきなおみは「お色気 アイドル」路線を走るのと並行して、「大人の女歌」を歌える歌手への脱皮をはかります。そこで出会った歌が『喝采』(1972年)です。

吉田 旺の詞を読んでいると、あたかも彼女自身の身に起こった出来事を見ているかのようです。現に発売当時は「あれは、ちあき自身の実話」という話もあった程です。後にプロモーションのための作り話(彼女の前座時代、兄のように慕っていた若手俳優が死亡するという話はありましたが)という事実が発覚。

それくらい彼女の歌には説得力と情があったという逸話として、語り継がれています。その凄さに筆者が気づいたのは、不惑の年齢を過ぎてからでしたが。

そしてこの年、ちあきなおみは前年の紅白出場に続く、いやそれ以上かもしれない大きなモノを手中にしました。それが、歌手としての大冠「日本レコード大賞」の受賞です。紅白は、その年に活躍した歌手達が出場する舞台。レコ大は、その年に活躍した中のトップの歌手のみに与えられる賞です。まぎれもなく、この1972年は歌手・ちあきなおみが女王に登りつめた年であったと言ってもいいでしょう。

この後、『喝采』は翌年まで売れ続けて、累計80万枚の大ヒットとなりました。同年には、『喝采』同様、作詞・吉田 旺、作曲・中村泰士による『劇場』『夜間飛行』と「ドラマチック歌謡」路線を発表して、それぞれをヒットさせています。子供心に、この頃のちあきなおみの“勢い”をTVの歌番組を見ていて、感じていたものでした。

ただ、彼女の歌いたい歌と実際に歌う曲との間に、ギャップが生じてきたのも、この頃だったと思われます。はたから見ていると順風満帆な歌手ロードに、彼女はどんな思いを抱いていたのでしょうか?

結婚と事務所移籍

歌の幅を広げるための船出

1975年6月、ちあきなおみはそれまで所属していた「三芳プロ」を離れます。自分が真に歌いたい歌を求めて船出して行ったのです。そのため彼女は、かねてから交際中の俳優・郷 鍈治(俳優・宍戸 錠の実弟)の事務所に身を置いて、精力的に自分の道を模索するのです。

郷 鍈治も彼女のマネージャーとなり、陰に日向に支えていく決心をしたのでした。レコ大を獲り、紅白の常連になってもなお「歌」に対して真摯に向き合う姿勢。この態度・行動には、聴いていて背筋をピンと伸ばさなければならない緊張感が漂って来ましたよ。当時は、震える程の感動をもらった気分にさせてもらいました。

現にこの時期には、まずは演歌を歌うにあたり「この人の曲なら」と、大御所・船村 徹作曲の『さだめ川』(1975年)、『酒場川』(1976年)をリリースします。この流れは後年の名曲『紅とんぼ』(1988年)で結実する事となります。それにしても、さすが天下の船村 徹、魂を揺さぶるイイ曲を書きますね(若造の筆者が言うのも、おこがましいですが)。

そして演歌だけにはとどまらず、ちあきなおみは貪欲にニューミュージック系のアーティストともガップリと相対します。中島みゆき、川島英五、飛鳥 涼らの楽曲にも挑戦して行きました。中でもフォーク歌手・友川かずきの作った曲『夜へ急ぐ人』(1977年)には、鬼気迫るモノを感じた人も多かったのではないでしょうか。

1978年の紅白を観ていた中学生だった筆者は、単に「怖いナ」くらいにしか感じませんでした。でも、大人達はきっと「オンナの恐ろしさ」を観て取ったと思いますよ。“凄い迫力だった”とオコチャマな筆者が思ったくらいですから。

こうして、「新しいちあきなおみ」が形成されていったのです。

郷 鍈治と結婚、個人事務所で更なる深い世界へ

こうした様々な歌手としての可能性に果敢にチャレンジする日々の中で、ちあきなおみは最愛の人・郷 鍈治と正式に結婚しました。1978年の事です。この結婚を機に二人は、ちあきの個人事務所で、彼女の歌いうあすい環境を整えていくのです。

郷は俳優業を引退して、惚れ込んだ彼女の歌のために、本格的にマネージャーとして二人三でやって行く事を決意します。日活でアクション俳優としての地位を確立しつつあった夫・郷の決断に応えるべく、ちあきなおみもまた、ますますの精進を続けて行くのです。こういった愛情の形もあるんですね。羨ましいかぎりです。彼女もオンナとしての幸せを掴んだのでしょう。

この時期に彼女は全曲シャンソンの『それぞれのテーブル』(1981年)、スタンダード・ジャズの『THREE HUNDRED CLUB』(1982年),、ポルトガル民謡ファドの『待夢』(1983年)と、今までとは異なるジャンルのアルバムを発表。年輪とともに熟成された深い味わいを聴かせてくれていますよ。幼少時に回った米軍キャンプで色々な曲を聴いて育った耳が、身体に染み付いているのでしょう。特にジャズなどは、日常的に生バンドで聴いていたでしょうから。

そういった新しい試みは、日本の曲に対しても同様に行われます。前述の『紅とんぼ』(作詞・吉田 旺/作曲・船村 徹、1988年)は今となっては、ちあきなおみが自身とオーバーラップさせたとしか思えない内容に仕上がっています。新宿駅裏の「紅とんぼ」が、彼女達の事務所のように思えてならないのです。

もちろん、常連客は彼女のファンという事になるでしょう(意味がチンプンカンプンな人は、1度ググってみて下さい)。この曲は、街の一杯飲み屋では定番になっている程です。こんなお店があったら、是非とも訪れたくなりますよね。筆者も自分なりの「紅とんぼ」を持っていますが、ここではお教えられません。内緒ですから(笑)。

この時点で彼女は、名実ともに「歌謡曲の女王」と呼ぶにふさわしい歌手に成長していたと言っても、言い過ぎではないでしょう。総合的に“上手い”のですから、非のつけようがナイんですよ。

そして芸能活動休止へ

突然訪れた夫の死



大ヒットには恵まれないものの、ちあきなおみは地に足を着けた活動で「歌謡曲の女王」「大人の唄が唄える歌手」としての称号を得るまでになりました。それを陰で支えていたのが、夫でありマネージャーでもあった郷 鍈治でした。その二人の関係は「おしどり夫婦」という言葉では表しきれない程の、深みと濃さをも持っていたと思います。

そうした幸せな日々の中、ちあきなおみにとっては最愛の人を病いが襲いかかります。肺ガンでした。献身的な看病もむなしく1992年9月11日、郷は永眠してしまいます。結婚してから14年、享年55歳の早すぎる死でした。葬儀の際、柩に抱きつき「一緒に焼いて!」と叫んだのは有名な話です。彼女は夫の死で、全てを無くしてしまったのでしょうか?

「主人の死を冷静に受けとめるまでにはまだ当分、時間が必要かと思います」というコメントを残し、彼女が表舞台から姿を消して、今年で25年になります。惜しいけれど、まだ「当分」は終わっていないようです。

現在は…… 。

ベストアルバムと特番が熱いラブコール!



“休業”中のちあきなおみには、当然の事ながら新曲のリリースはありません。しかしながら、過去の作品を集めたベストアルバムやCD-BOXなどは毎年のように発売されていますので、ここで彼女に会う事はできるのです。

また、これらは好セールスを記録していますので、曲目や音の嗜好に合わせての選択も可能になってくるので結構楽しく聴く事ができますよ。ただし、廃盤になってしまったり、在庫切れになってしまった作品もあるので、注意する必要もありますけど。

参考までに筆者の購買例を挙げると、できるだけ当時の声を聴きたい想いがあるので、アナログ盤をそのまま集めてベストアルバムに仕上げた日本コロムビアのモノを楽天などのショップや行きつけの中古レコード・CD屋で探しています。生歌を聴けないのは淋しいですが、それはしょうがないですね。

ベストアルバムだけではなく、ちあきなおみをクローズアップしているのがTVの特番です。特にBS-NHKが作る番組の充実度は高く、録画して保存している人も多いはずです。『歌伝説・ちあきなおみの世界』(2005年11月)をはじめ、『BSまるごと大全集ちあきなおみ』(2009年11月)など。

そして、休業中の歌手では異例の『SONGS』(2013年11月)は、本当に見応えタップリでした。民放ではTV東京『たけしの誰でもピカソ』(2007年2月)やBS ジャパン『熱唱!孤高の歌姫伝説 ちあきなおみ歌の世界』(2017年1月)でも、彼女を特集しています。筆者は、この中の約半分しか録画していません。あ~、悔しいデス!

これらの番組やCD等は、そのまま「歌謡曲の女王・ちあきなおみ」復活へのラブコールとも取れるんじゃないでしょうか。きっと、そうだと思います。

欠かさない月命日の墓参り

お盆と彼岸、命日はもとより、ちあきなおみは亡夫・郷 鍈治の月命日にはお参りを欠かしていないとか。彼が亡くなる直前に残した「もう、歌わなくていいんだよ」という言葉の意は、彼女にしか分らないのでしょう。

「当分の間」がいつまでの事なのか?それとも、このまま引退してしまうのか?そっとしておいてあげたい、でも生歌を聴きたい。こんなジレンマにとらわれているファンは、筆者だけではないはずです……。

(写真は故郷 鍈治氏が好きだった『ねぇあんた』収録のアルバム、『喝采をおぼえていますか、1972年の大晦日に見せた“伝説の歌唱シーン”…。今こそ、ソロヴォーカルの真髄を!』(2013年)ジャケットより)

「まとめ」に代えて

たまには笑顔で

紅白出場を果たし、レコ大も受賞。歌手としての金字塔を打ち立てたものの、さらなる探究心から違ったジャンルの曲へも挑戦して行く。その姿はまさに“孤高の歌姫”と呼んでも、差し障りはないと思います。ちあきなおみは「歌謡曲の女王」でありながら、「ちあきなおみの世界」を歌える唯一無二の歌手なのです。

しっかりとした基礎トレーニングに加えて、天性のリズム感、声質はどれも一級品です。加えて、年輪を増すごとに豊になっていく表現力・情感が人の心に訴えていきました。

「歌が上手い」という言葉だけでは表せないモノを持っているからこそ、彼女は女王なのです。

写真は彼女がレコ大を受賞した時のもの。笑顔の写真が極端に少ない彼女の珍しいショットです。時にはこんな笑顔でいてくれる事を祈りつつ、この記事の幕を降ろしたいと思います。

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