最後の将軍!徳川慶喜の晩年は悠々自適でうらやましすぎ?

小学生の時、 “一夜むなしく大政奉還”と1867 年に徳川幕府から明治天皇に政権が返上されたと教わりました。では、その徳川幕府最後の将軍であった徳川慶喜は、明治時代に何をしてたのでしょうか!?

徳川慶喜は最後の将軍!

最後って何人目?

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徳川幕府とは、初代にあたる徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた1603年に創設され、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大政奉還した1867年までの約265年間をいいます。江戸(現在の東京)に本拠地を置いたので、 江戸幕府ともいわれます。

徳川慶喜(1837年10月28日(天保8年9月29日)~1913(大正2)年11月22日)は、徳川幕府の第15代征夷大将軍(在職: 1866(慶応2)年12月5日~1867(慶応3)年12月9日)で、徳川幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍になります。

徳川幕府265年の歴史の中で、一番最後にあたる15番目の将軍で、しかもたった1年だけ将軍を務めた徳川慶喜とはどんな人物だったのでしょうか。180年ほど前に遡って、その歴史を紐解いてみました。

徳川慶喜はネガティブで慎重派?

徳川家康の再来!?



徳川慶喜は、徳川御三家(尾張、紀州、水戸)のうち水戸の出身で、第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の七男として生まれました。 母・吉子は、有栖川宮織仁親王の末娘でした。

江戸の徳川宗家に世継ぎが途絶えた時は御三家から宗家へ養子を出し、徳川の血を絶やさぬようにという初代家康の発案で御三家を定め徳川姓を名乗らせましたので、徳川宗家が『本家』なら、徳川御三家は『分家』ですね。

慶喜の利発ぶりに父・斉昭は、七男だが養子に出さずに長男の控えとして手許に置こうと考えましたが、そんな逸材を徳川宗家周辺が放っておくハズがなく、御三家では格下の水戸出身では将軍候補は難しいと、御三卿の一橋家の養子に出されます。後に将軍となった慶喜の弁舌に長州藩士も舌を巻き、「家康の再来か!?」と唸ったと言います。

将軍就任を断った真意は!?



徳川家茂(妻は和宮)が第14代将軍の時に、慶喜は将軍後見職という初の役職に就きます。230年ぶりの将軍上洛(天皇のいる京都に行くこと)のため、家茂より先に京都入りし、将軍の名代として朝廷との交渉にあたりました。

しかし、家茂は第2次長州征伐中に大阪城で落命し、次の将軍にと白羽の矢が慶喜に立てられますが、慶喜は要請を断ります。ここには、慶喜なりの計算がありました。難しい局面で、慶喜以外にカードはない。その中で自分の価値を最大化するにはどうしたらいいかと。

その結果、『懇願されて仕方なく引き受けるので、慶喜の判断には反対しない』との言質を取ります。昇格を打診され「私なんか」と一旦断り、それでもと背中を押されて受けるケースは女性によくありますが、「他にいない」となると、強気に出れますね。

ネガティブだけど有能!慶喜と大政奉還

徳川幕府で唯一の戦闘経験者!?

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慶喜クローズアップには、慶喜の能力を見抜いた薩摩藩が新政権樹立にあたり朝廷を巻き込み、薩摩が有利になるように慶喜を推した点と、当時の孝明天皇(明治天皇の父、和宮の兄)が聡明な慶喜を気に入っていた点が挙げられます。

期待に応えて慶喜は、大老・井伊直弼(1867(安政7)年桜田門外の変で没)が勅許(天皇の許可)を得ず勝手にアメリカと結んだ通商条約の勅許取付けや、次の開港先の選定・交渉など、時には公家たちを恫喝して、不眠不休で精力的に働きます。デキる男は、やはり交渉をいかに有利にまとめられるかでしょう。

1864(元治元)年7月19日に長州藩との間に京都で起きた『蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)』では、歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の中に馬にも乗らず敵陣へ刀を振るい、切り込んでいます。

ついに大政奉還!!

慶喜の政権は、朝廷との密接な連携が特徴でした。また、将軍の間はほとんど関西から離れず、多くの幕臣を上洛させました。また、薩長の武力による倒幕を予測し、1867(慶応3)年10月14日に「政権を幕府から天皇に返上する」と発表し、翌日の10月15日には明治天皇から勅許され、大政奉還が成立しました。

国内での武力闘争を避け、政治体制再編を模索した結果が大政奉還でしたが、同時に慶喜は、「今の朝廷に政権を運営する能力は無いから、大政奉還後も補佐する形で政権に関わるだろう」と踏んでいました。

しかし、大政奉還により武力行使の機会を失った薩長らは、猛然と慶喜外しにかかり、12月9日に「王政復古」のクーデターを起こし、慶喜の「官職辞職」と「納地返納」(辞官・納地(じかん・のうち))を決定します。

戊辰戦争でまさかの敵前逃亡?

戊辰戦争の発端―〝鳥羽伏見の戦い〟

「王政復古」での慶喜の処遇は理不尽なものでしたから、二条城に駐留する旧幕府軍が京都で薩長軍と衝突を起こし、『朝敵の汚名』がかかることを恐れた慶喜は、軍を一旦大阪城へ移動させる判断をします。

しかし、江戸では慶喜の思いが無残に踏みにじられ、旧幕府軍と薩摩藩士の小競り合いが勃発します。庄内藩の屯所が薩摩藩士に襲撃されたことへの報復として、庄内藩士が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにするなど交戦が起こりました。

江戸の騒ぎが大阪の旧幕府軍に届き、会津藩士ら勢いづく軍勢を慶喜は制止することができず、朝廷に『薩摩藩の卑劣ぶりを成敗するために旧幕府軍を京都に向かわせる』と書面で訴え出ました。この時の薩長の新政府軍の兵の数5千人に対して、旧幕府軍は1万5千人。武器の配備も両軍甲乙つけがたい状況でした。

慶喜まさかの朝敵となる!?

ここでも、事態は慶喜の思いとは逆に動き出します。新政府軍に錦旗(にしきのみはた/天皇の軍旗)と節刀(せっとう/天皇が軍の最高責任者に持たせる任命の印としての刀)が与えられ、勅命(天皇の命令)を受けたたことになり、 旧幕府軍は朝敵となってしまいました。

もともと戦を起こしたくなかった慶喜は、少数の側近を連れ、自軍を置き去りにしたまま大坂城を密かに脱出し軍艦開陽丸に乗り込み、大阪湾から江戸へ退却しました。慶喜は上野の寛永寺にこもりますが、天皇に恭順し反抗する意思がないことを示したかったのでしょう。

この戦で新政府軍の最高責任者である東夷大総督を務めた有栖川宮熾仁〔たるひと)親王は、和宮の元婚約者だった人ですが、後に慶喜の妹貞子と結婚しています。当時文春があれば、結構なスキャンダルでは!?

戊辰戦争の顛末



その後の新政府軍との交渉は、勝海舟に丸投げした形ですがよく言えば、慶喜は勝海舟を信頼していたということでしょう。事実、勝は西郷隆盛との間で、歴史的な江戸城無血開城を成し遂げました。また、慶喜の身に危険が及ばないことも確約させています。

指揮官がいない旧幕府軍は、地元に帰る者、新政府に恭順する者、戦意をもって北上する者と分かれ、『北上する者』たちは、引き続き新政府軍との間で『戊辰戦争』を続けます。

上野の寛永寺で彰義隊を結成しますが、長州藩の大村益次郎指揮する新政府軍に惨敗。新選組を含む残党は、会津に合流しますが会津軍降伏。旧幕府軍の残党は、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)に向かい箱館戦争へ流れ、五稜郭での最後の戦いとなり、新選組副長・土方歳三も殉死しました。

余生は趣味に没頭!人々に親しまれた元将軍

江戸からの引っ越し先は?

大阪から江戸に戻った慶喜は、徳川家の菩提寺である上野の寛永寺で謹慎後、江戸城無血開城が行われた日に寛永寺を出て水戸へ向かいます。水戸では慶喜が幼少のころに学んだ弘道館(日本最大の藩校)で、謹慎を続けました。

3ヶ月後に徳川家は駿府に国替えされ、慶喜も駿河に移り、翌(1869(明治2))年9月の戊辰戦争終結で謹慎が解けるまで、宝台院(徳川家の菩提寺)で過ごしました。謹慎解除後は、駿府改め静岡市の中心部にある、徳川時代の代官屋敷に住んでいました。現在は「浮月楼」という料亭になっています。

その後、1897(明治30)年)年11月に東京に戻り巣鴨で過ごし、1901(明治34)年12月に転居した小石川のお屋敷が終の棲家でした。住まいのあった場所は現在、国際仏教学大学院大学になっています。

趣味(粋)人として

謹慎後の静岡時代は趣味に興じ、地元民から「ケイキ様」と親しまれました。狩猟を好み、獣を求めて伊豆の天城山まで足を運び、手裏剣、馬、弓などは、免許皆伝でした。弓は毎日150本射るのを日課にしていたところ、医者からやり過ぎと言われ100本に減らしましたが、それでも3時間もかけていました。

新しいものへの好奇心旺盛で、日本ではまだ珍しかった自転車を取り寄せ、街中を乗り回していましたが、運転が難しかったのか川に転落したり、綺麗な女性に見とれて壁にぶつかったこともあったようです。

カメラにも凝り、日記代わりに毎日写真を撮っていましたが、雑誌に熱心に投稿してもなかなか採用されなかったというトホホな話も残っています。その他に、日本画、油絵を描き、刺繍もやっていましたが、相当な凝り性のようですね。

交友関係と名誉回復



静岡時代は、明治新政府が警戒していることや自分の発言が不用意に使われることを嫌い、旧幕臣に会うことを控えましたが、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の訪問は、受けていました。

新門辰五郎に至っては、京都以降慶喜と行動を共にし、常に“殿”の護衛をしていました。辰五郎は江戸の町火消で『最後の侠客』と言われた人ですが、娘の芳は一時期慶喜の妾でした。また、男児のいない勝海舟の孫・伊予子に、慶喜の十男・精(くわい)が、婿入りしています。

東京に戻って4か月後に、有栖川宮威仁(たけひと)親王の仲立ちで、30年ぶりに明治天皇に拝謁しました。その後公爵となり貴族院議員を8年務めて辞め、七男慶久に家督を譲り、また趣味三昧の生活に戻りました。死去に伴い日本の最高位勲章の勲一等旭日桐花大綬章が授与されました。

まとめ

いかがだったでしょうか。徳川慶喜を漢字一文字で表現すると「悟」ではないかと思います。歴史の転換期において、状況を見据えて理解し、先を読み、最善策を選び、推し進める力を行使した人。仏教では、「悟」を「心の迷いを去って真理を会得(えとく)する」と解釈します。

大政奉還を果たした最後の将軍・徳川慶喜の功績として、いろいろな解釈はあるかと思いますが、①慶喜が朝敵となり徳川宗家を救った②外国との戦争にならなかった③江戸の街が戦火に焼かれることなく民を救ったという3点を挙げておきたいと思います。

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