伊達政宗の名言10選!独眼竜の異名はダテじゃない!

遅れてきた戦国ヒーロー独眼竜伊達政宗。北の空に彗星の如く現れ戦国最後の野望と云われ!身内殺しの汚名も何のその?切り取り自由の戦国時代、有終の美を飾りダテ男の生みの親でもある伊達政宗の名言10選を紹介します。

伊達正宗の名言/其之一

禍は内より起こりて、外より来たらず

実母に嫌われ実弟(同じ父母から出生)を殺害!、父親殺しの疑惑まである非情の男・伊達政宗。上記の禍は内より起こりて、外より来たらず』に心情がよく表れています。独眼竜と云われた伊達政宗は、伊達氏16代当主・伊達輝宗と正室・義姫の長男として1567年に生まれました。

幼い頃に天然痘を患い、右目を失明しており眼帯を掛けている銅像や肖像画が多いのはこの為です。映画や小説では、初陣を飾った合戦において矢で右目を射られる場面もありますが?彼方はフィクションのようです。

ギリシャ神話でも、ゼウスの正妻ヘラが足の不自由な嫡男ヘパイストスを嫌ったように?伊達政宗の母・義姫は、天然痘で右目を失明した政宗を嫌い、次男・小次郎(政宗の実弟)を可愛いがったと伝えられています。

政宗の父・伊達輝宗が家督を相続した時点では、実権は隠居した政宗の祖父・春宗が握っておりました。これだけならよくある話ですが?実は重臣の中野宗時が実権を掌握しており、伊達家を二分するような親子間の争いを企てようとしていました。このお家騒動に発展しかねない状況を制して、反対派の重臣を処分・追放して伊達家内の統制を図ったのが政宗の父・伊達輝宗だったのです。  

さらに、伊達政宗の母親・義姫は出羽の名門最上氏の一族で最上義光の妹です。義姫が伊達家に嫁いだ後、最上家で親子間の争いがあり、政宗の父・輝宗がこの争いに義姫の父方で介入しようとするが、義姫は兄の義光を支持しており、輝宗 の介入を制止したという事もありました。

このように、戦国時代にありがちな親子、兄弟間の争いを身近に感じて育った、伊達政宗は自身にも兄弟間の争いが降りかかり、上記の名言が身から出た錆のように口をついた思われます。

伊達正宗の名言/其之二

仁に過ぎれば弱くなる。魏に過ぎれば硬くなる。礼に過ぎれば諂いとなる。知に過ぎれば嘘をつく。信に過ぎれば損をする。

瑞鳳殿 #伊達正宗 #仙台

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『仁に過ぎれば弱くなる』は、上記で紹介したように、政宗の父が親子間であらそったように、政宗自身にも親子・兄弟の確執が起こります。敵に人質として捕らえられた父・輝宗を政宗は敵諸共射殺しています。これは、父・輝宗が「自分を気にして家の恥をさらすな。わしもろともこ奴を撃て」と云ったとなっていますが?

政宗親子に確執があったとも伝わっています。さらに、政宗は実弟の小次郎を自身の手で殺害しています。これも父輝宗が伊達毛家の実権を握った時のように、母・義姫の思惑により、お家騒動に発展しかねない状況で、伊達家内の統制を図る為に政宗が弟の小次郎を切り捨てたのです。

『魏に過ぎれば硬くなる、礼に過ぎれば諂いとなる』は、正義を強調すると頑固になり、礼が過ぎると失礼になるという逆説を説いています。伊達家の地盤陸奥は昔から砂金の産地であり、伊達家は代々足利将軍家に砂金を献上して陸奥国守護まで登りつめました。

. 『運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり』 #上杉謙信

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上杉謙信が関東管領としてあくまで足利将軍家に忠誠を誓ったのに対し、伊達政宗は切り取り自由を地で行く戦国武将でした。豊臣秀吉の関白就任後も領土拡大に励んでいて、小田原城評定に遅参して危うく秀吉に首を切られるところでした。

『知に過ぎれば嘘をつく、信に過ぎれば損をする』は、知恵がありすぎると嘘をつき、人を信用し過ぎると損をするという事です。政宗は、『関ケ原合戦』では、東軍につき、上杉家と争いましたが?コレも東軍としてというより、自身の領土拡大の為だったようです。

『関ケ原合戦』後、徳川家康を信用して寝返った大名は、減封か改易にあい損をしました。江戸幕府開幕後も家臣をヨーロッパに派遣して、スペイン国王に江戸幕府倒幕への加担を持ちかけるなど?最後まで野心を捨てなかったのが独眼竜正宗でした。

伊達正宗の名言/其之三

わからぬ将来ことを心配しているよりも、まず自前の事をすることだ。時を移さず行うのが、勇将の本望である。

仙台 伊達正宗の騎馬像😁 #さんぽ#仙台#伊達正宗#写真好きな人と繋がりたい

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伊達正宗が子供の頃は、足利将軍家の威光があり、将軍家への砂金の献上で成り上がった伊達家だったので、正宗の前までは、足利将軍からの一字拝領を慣習しておりました。しかし、政宗の元服の時には、織田信長によって足利義明は、京から追放されており、正宗は将軍家からの一字拝領を断っています。

正宗が家督を譲られた時には、天下人と云われた織田信長は亡くなっており、豊臣秀吉の天下統一の真っ只中!?まだ天下がどう転ぶか?余談を許さない状況でした。そこで出たのが上記の名言と思われます。

伊達政宗は現に、秀吉の天下がほぼ決まる中、奥州統一に向けて領土拡大に励んでいます。政宗が奥州の覇権を争ったのは、鎌倉以来の名門・芦名家でした。

正宗の父・輝宗が死亡したのは、政宗の芦名領への侵攻が原因と云われており、父親殺しの汚名も政宗の野望が発端とも言えます。元々、伊達家と芦名家と母の実家・最上家は同盟を結んで、越後の上杉氏に対抗しておりました。

しかし、正宗の独断で上杉景勝と講和して芦名領に侵攻した為に、起こったのが父・輝宗が人質に取られる事件だったのです。独自路線を歩む独眼竜正宗の真骨頂が此処に現れている気がします。

正宗は、父の敵として、二本松の合戦に挑みます。しかし、芦名・佐竹連合軍は3万の兵力!これに対し伊達軍は8千人。伊達軍不利の状況を跳ねのけて激戦を制して勢いに乗り、後に摺上原の合戦にて名門芦名氏を滅ぼし、奥州統一にリーチを掛けました。

伊達正宗の名言/其之四

料理心のない者は、情けない心の持ち主である

ダテ男の生みの親!伊達政宗が好んで食べたのが卵料理!見栄えの良い豪華な卵料理なので、伊達ものから伊達巻とついたのが写真のそれです。そもそも伊達男の由来はとは?

伊達正宗が、豊臣秀吉に謁見する時に、死を覚悟して白装束で現れたのが由来と云われており、派手好みの傾奇者であった政宗らしいエピソードです。戦国の傾奇者と云ったら、織田信長と前田慶次郎それに伊達政宗に尽きます。

正宗は、派手好きで、野心家で、新しいもの好きという織田信長と被る部分がありますし、豊臣秀吉と徳川家康は、正宗が信長に近いオーラを発していると警戒していたようです。



伊達政宗VS前田慶次郎、戦国の傾奇者横綱対決が実現!したのが、『関ケ原合戦』の東北バージョンと云われた『慶長出羽合戦』です。この戦の発端は、直江状で有名な直江兼続の德川家康への抗議が『関ケ原』とこの合戦に繋がっています。

この政宗と慶次郎、共に豊臣秀吉に命を狙われた事があり、傾奇者としても二人とも秀吉に認められています。政宗が命を狙われ傾奇者と認められたのは、上記の白装束のエピソードであり、慶次郎は天下人の秀吉の前で猿真似をして切られそうになったと云われております。

『慶長出羽合戦』 は、関ヶ原の西軍敗戦が直江兼続に伝えられ、兼続は切腹しようとするが?慶次郎に諫められ思いとどまり撤退を決意します。この撤退戦jは、伊達軍の執拗な追撃にあい凄惨を極めたと伝えられています。しかし、前田慶次郎の活躍で直江兼続は無事帰還しました。戦は伊達軍が勝利しましたが、政宗VS慶次郎の傾奇者対決は慶次郎に軍配が上がりました。

伊達正宗の名言/其之五

大事の儀は人に談合せず、一心に極めたるが善し

#有馬温泉 #豊臣秀吉

道端俊彦【河内長野市議会議員】Ⓜ️さん(@mitibata)が投稿した写真 –

上記の明言は、重要な事は他人と相談せず己の責任で決める事を説いていると思われます。コレは唯我独尊!単独行動が得意の独眼竜政宗らしい名言とも言えます。政宗とて国主として家臣の意見も尊重していた筈ですが!?

此処ぞという時には、『大事の儀は人に談合せず、一心に極めたるが善し』独断専行を行っています。それが、上で紹介した上杉景勝との講和ならびに芦名領侵攻と小田原城攻めにおける遅参と豊臣秀吉との単独謁見です。

天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉は北条氏の主城・小田原城攻めを行いました。政宗は、関白秀吉が他国への侵攻禁止を発したにも関わらず、奥州統一に動いており侵攻を止めませんでした。小田原城攻めにおいても、正宗は北条氏とも通じており、秀吉の参陣要請にも中々応じませんでした。

Where is Buruzon? #小田原城 #odawaracastle #buruzon #japan

ブルゾンちえみさん(@buruzon333)が投稿した写真 –

この事から、伊達家では、今さら小田原に遅参しても、豊臣秀吉に切られるか?改易は必至と思われており、遅参するよりこのまま北条方について豊臣と一戦交えようというのが、伊達家での大半の意見でした。

此処において、伊達政宗のとった行動は、供の者数人だけ連れて小田原に行き、単独での豊臣秀吉との謁見だったのです。これが上で紹介した死を覚悟した白装束だったのです。これが伊達男の伝説を生んだ訳です。

また、秀吉は政宗の野心を警戒してた為、有力大名の蒲生氏郷を政宗の隣国陸奥黒川に配して監視ささており、正宗の行動に謀反の疑いありと!?秀吉に報告した氏郷と秀吉に対し、正宗の取った行動が金箔で飾ったはるつけ柱を供の者に担がせて、身の潔白を証明するという伊達者らしいエピソードもあります。

伊達正宗の名言/其之六

物事は、小事より起こるものだ。決して油断するな。



これも激動の時代を生きた!戦国大名らしい伊達政宗の名言です。小事が大事に発展しないよう油断するなと説いていると思います。母の兄弟どちらかへの依怙贔屓はよくある話ですが?正宗の場合、お家騒動に発展しかねない状況で母義姫と弟小次郎に毒殺されそうになり、小次郎を切り殺しています。

また、奥州統一向け宿敵芦名氏との合戦の天王山となった『摺上原決戦』も小事が大事を決める一戦になっております。これは、伊達家ナンバー2と云われた天才軍司・片倉小十郎の判断により、合戦の見物人の百姓に向けて鉄砲を発した処、芦名方は見方が寝返ってた思い?形勢が一気に逆転したとの事です。

一進一退の攻防を繰り広げていた戦況が見物人の排除の為か?それとも天才軍司たる片倉小十郎の閃きか?事実は見物人に向けた発泡が勝敗を分けたと思われます。

伊達家ナンバー2と云われた片倉小十郎は、武士の子ではなく神官の次男として生れました。少年の頃、正宗の父輝宗の小姓として召し抱えられ、政宗の教育係りを務めるようになります。

独眼竜の由来となった、正宗が5歳の時に天然痘を患い右目を失明して、目玉が飛び出す状態になった時、母に嫌われる事を嘆き、政宗が『右目を取り出せ』と家臣に命じた処、誰も命に従わす!?切腹覚悟で目玉を取り出したのが小十郎だったのです。

以来、固い絆で結ばれた、政宗と小十郎の主従関係は生涯崩れることはありませんでした。上で紹介した、独断専行と思われる政宗の判断も小十郎のアドバイスがあったとも云われております。

伊達正宗の名言/其之七

そなたは若輩だが、小姓頭を命じた者に、脇差の鞘で頭を殴ったのは、私の誤りだ。

伊達政宗は酒好きとして知られており、酒で失敗したことも多かったようです。部下への仕打ちへの後悔がこの名言と思われます。政宗が家臣への仕打ちとして一番後悔しているのは、身内で重臣の伊達成美への仕打ちだったかもしれません?

伊達成美は、政宗より一歳下で政宗6歳の頃から仕えており、兄弟のように育ったようです。形勢不利と云われた戦を何度も経験した政宗ですが?激戦を制したのは、上で紹介した片倉小十郎と伊達成美の活躍が大きいと思われます。

正宗は、豪放磊落なような戦国武士と思われますが?実は猜疑心も強く、伊達成美を疑い成美の妻子を自害に追い込んでいます。後に上で紹介した『慶長出羽合戦』の時に伊達軍不利の状況を一騎駆けで救ったのが、政宗に疑われ出奔していた、伊達成美その人でした。

伊達正宗の名言/其之八

倹約の仕方は、不自由なるを忍びにあり

上記の名言ですが『この世に客にきたと思えば何の苦もなし』と続きます。苦労の多い人生だった独眼竜正宗らしい名言と思います。幼い頃片目を失い、母に嫌われ弟を切り殺し、時の権力に振り回されて生きた戦国武将らしい名言です。

しかし、江戸時代入り、外様大名が相次いで改易&お家断絶になったのに対し、伊達政宗は明治まで続く仙台藩の礎えを築きました。徳川家康は、政宗を警戒していたようですが?

3代将軍家光は、政宗を慕い、伊達政宗が亡くなった時には、御三家以外で異例の江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発しました。

伊達正宗の名言/其之九

馬上少年過ぐ、世平らにして白髪多し、残駆天の許す所、楽混ざれば如何せん

上記は、政宗が晩年に造った漢詩です。馬に乗って駆け巡った青春の日々は過ぎ、戦国の世も遠い日々に思われ、自分の頭も白髪だらけなったが?天の許す限り残りの日々を楽しもうと謳っています。

『天の許す限り!残りの日々を楽しむ』とは?最後まで天下取りを諦めなかった独眼竜正宗らしい名言です。晩年、正宗の命により、支倉常長をスペイン&ローマに派遣しています。キリシタンでもない政宗がどうしてヨーロッパに家臣を派遣したのでしぃうか?

此処にも正宗が織田信長と被る部分でもあります。仙台にキリスト教の司教区を造り、交易の拠点として仙台を発展させようとしまた。しかし、実はスペイン国王に江戸幕府の倒幕の加担を持ち掛けて!断られたとも伝わっています。

伊達正宗の名言/其之十

曇りなき心の月を先立ててを浮世の闇をてらして行くぞ

仙台出張にて。 #伊達政宗 #独眼竜 #仙台

玄黄二刀流 瑞鳳会さん(@zuihoukai)が投稿した写真 –

上記が伊達政宗の辞世の句です。健康に気を使う政宗でしたが?酒好きで料理が趣味の美食家だったとも云われています。美食家らしく死因は食道癌だったようです。享年は70(満68歳)でした。戦国時代の平均寿命が50歳前後と云われていましたので、可也の長寿な方だと思います。

戦国時代を生き抜いた武将としては、徳川家康と並び穏やか最後を遂げています。伊達男の生みの親らしく臨終の際は妻子にも顔を見せなかったと伝わっています。独眼竜正宗と云われた伊達正宗ですが、病で失ったとはいえ片目であたったことは、親に申し訳ないと思っていたらしく、死後の肖像画には、両目が入れられているものが多いようです。

伊達家の安泰を願って、德川家への忠誠を誓ったと伝わっていますが?最後まで野心を捨てず、隙あらば江戸幕府倒幕を夢見て亡くなったのかもしれません。

まとめ

#伊達政宗 #青葉城 #仙台城跡 ちゃっかり社会科の勉強もしてきた📚📖☡✍

シ ラ イ マ ミさん(@shi_ra_i_nstagram)が投稿した写真 –



いかがでしたか?戦国最後のヒーロー独眼竜政宗。波乱万丈に満ちた生涯を歩み、最後まで野心を捨てなかった戦国随一の傾奇者かもしれません。逆境を物ともしない行動力と独断専行と思われる判断力も片倉小十郎との協議の上で緻密に計算された判断だったかもしれません。

小説や映画では、伊達正宗が10年早く生まれていたら、天下は変わっていたかもしれない?とよく言われますが。歴史にタラレバはないにしても?本当に戦国武将として魅力尽きない侍と思います。

小田原城攻めで、豊臣秀吉の前に遅参せず!?北条氏と德川家康を味方につけ秀吉に対抗していたら、天下はどう転んでいたのでしょうか?興味は尽きません。

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