ロリコン界の英雄?前田利家とまつの年齢を超えた夫婦愛!

「加賀百万石」と言われるほどの大名となった戦国武将・前田利家。その妻はなんと12歳!?若くして利家に嫁ぎながらも、確かな愛で利家を支え、前田家存続に尽力した妻・まつ。戦国を代表する二人の夫婦愛とは!?

利家とまつといえばおしどり夫婦?

2002年に放送された大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』を覚えているでしょうか?大河ドラマ史上初めてタイトルに夫婦の名前が使われたという『利家とまつ』。この二人の夫婦に焦点を当て、唐沢寿明さん・松嶋菜々子さんがW主演し話題となりました。

まだ20代の松嶋さん、お美しいですね!

織田信長、豊臣秀吉という二人の覇者に仕え実質天下No.2の地位にまで上り詰めた武将・前田利家。加賀藩を栄えさせ百万石の大名となったこの男。そして利家の武功を語る際、欠かせないのが正室・まつの存在です。

戦国時代、武将の命運に大きな影響を与えることもあった”妻”。その女性達の中でもまつは賢妻として名高く、数々のエピソードが残されています。夫である利家を大名に押し上げた大きな要因はまつの優れた才覚であり、利家を想う愛情でした。

戦国を代表するおしどり夫婦に名が挙がる利家とまつ、二人の夫婦愛を今一度振り返ってみましょう!

衝撃!前田利家とまつは超歳の差婚だった?

加賀藩百万石の大大名利家とは

出典:https://ja.wikipedia.org

現在の石川県・金沢城を居城とした加賀藩。その藩祖である前田利家は織田信長に小姓として仕えたことが大名への第一歩でした。戦で功績を挙げ続け、信長が死去した後は豊臣秀吉に臣従、加賀百万石を与えられるまでの大出世を遂げたのです。

戦では6m30㎝もの長い槍を用い、「槍の又左」の異名が付けられるほど武勇を称えられていました。秀吉亡き後は跡継ぎである秀頼の後見人まで任じられ、62歳で亡くなるまで権威を示し、諸大名からの信頼も厚かったと言います。

若い頃は傾奇(かぶき)者だった利家。傾奇者とは派手な身なりで狼藉を働く者を指し、雑に例えると今でいう原宿系ファッションかつ一昔前のツッパリ、といったところでしょうか。

派手な格好だけでなく短気で気性が荒かったという利家が、ここまでの立派な大名になるとは当時の周囲を大層驚かせたことでしょう!


21歳の夫に12歳の妻!

そんな利家とまつの出会いはまつが4歳の頃でした。ロリどころかペド真っ盛りです。実はいとこ同士だったこの二人。まつの父が死去し母の再婚をきっかけに、まつは母の妹が嫁いだ前田家で養育されることになったのです。

そしてまつが数え12歳となった1558年、21歳だった利家にまつは嫁ぐことになりました。12歳…だと…!?おまわりさんコイツです、と言いたいところですが、当時の男性の成人が15歳前後、女性は妊娠が可能な身体になったら成人と見られていたそうで、ロリ…もとい幼な妻を貰うことは羨ましいことに許されていた時代でした。

政略結婚も盛んだったこの時代。利家とまつも家が決めた結婚かと思いきや、恋愛結婚だったとする説が残されています。

約182㎝の長身であり、細身のイケメンだったとされる利家と一つ屋根の下で暮らしていたまつ。幼いながらも利家に好意を抱いていたのでしょうか?なんだか少女漫画にでもありそうです。

ロリコンの異名は伊達じゃない

現代ではロリコン武将と称されることもある利家ですが、その所以は12歳の嫁を貰っただけではありません。結婚の翌年、まつは長女を出産しているんです。お分かりいただけただろうか…つまり利家は12歳の幼女に手を出したということになります。

5歳前後で婚姻関係を結ぶことが珍しくなかった時代とはいえ、実際妊娠出産するのは15前後が多く、12歳のまつの妊娠は当時でも早期。主君である織田信長にも自重を促されたこともあったとか!

一説にはまつは背の高い美人だったらしいですが、可愛い幼馴染の従妹(12)と結婚して子作りとか少女漫画どころかエロゲじゃないですかやだー。

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以降もまつは34歳頃まで妊娠を繰り返し、2男9女の合計11人の子供に恵まれました。この数は戦国時代においても最も多い人数。今ならサッカーチーム作れますよ。

現代でも若年者の出産は命の危険が伴いますが、医療や栄養の劣る戦国時代にこれだけの出産ができたまつの身体に驚きです。

年の差は関係ナシ!利家を助けるまつが偉大すぎる!

出産早々浪人貧乏生活

まつは利家と結婚した際、父親の形見である(こうがい/脇差の鞘に差し髪の乱れを整える道具)を利家に譲ったことがありました。利家はこのまつからの贈り物をとても大事にしていたといいます。

しかし1559年、同じ信長配下であった拾阿弥という茶坊主に笄を盗まれ、さらに幾度も侮辱されてしまいます。ブチ切れた利家はなんと拾阿弥を斬殺これに怒った信長により出仕停止処分、所謂クビとなり浪人同然となりました。

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戦で手柄を立て信長に許しを乞おうとした利家は1560年、桶狭間の戦いに勝手に参戦敵の首を3つ獲る働きをしました。しかし信長は許しません。気落ちする利家をまつは「信長が許してくれるまで武功を挙げるのです」と叱咤激励しました。

この時長女を出産したばかりだったまつは赤子を抱えながら貧しく苦しい生活を強いられています。ですが気丈に利家を支え続けたのです。この時まつはまだ13,4歳。戦国では若妻だろうとしっかりしてらっしゃいます…。

この後利家は美濃森部の戦いにも無断で参戦豪傑二人の首を挙げた利家はようやく信長の下へ帰参を許され、再び出世街道の道のりを走り出したのです。

戦況を見極めるまつの目

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本能寺の変により信長が死去、そして明智光秀が討伐された後、織田勢力を二分する羽柴秀吉柴田勝家による跡目争い賤ケ岳の戦いが起こりました。利家は柴田勝家に服属していましたが、長い付き合いであった秀吉と敵対することに躊躇いがあった利家は戦の途中で自軍を撤退させます。

この戦いは勝家が敗走、秀吉側の勝利となりました。しかし戦線離脱したとはいえ一度は敵となった利家を秀吉が許してくれるかは分かりません。まつはそんな利家を救うため、秀吉と和議を講じ和睦の許しを得たのです。

さらにまつは長男・利長を勝家追跡の軍に同行させ、秀吉に加勢することを促しました。これからの天下人となる秀吉に付くことで大名として生き残る道を示したのです。

金銀に槍を持たせろ!

1583年に秀吉から金沢の領地を与えられた利家でしたが、家臣たちからは「給金が少ない」と不満の声が聞こえるようになりました。拾阿弥殺害による貧乏浪人生活の影響か、利家はケチな金の亡者となっていたのです。

ブラック企業よろしく家臣を軽んじる利家をまつは窘めますが、聞く耳を持たない利家。まつは何とか家臣との絆を保とうと、利家に無断で家臣の家族に対し気遣いの手紙を出すなど関係維持に努めていました。



しかしまつの尽力空しく利家に”ツケ”が回ってきます。1584年、隣国の武将佐々成政が利家の領地に攻め入ってきた末森城の戦いでの事。出陣しようとした利家の下に思うように兵が集まらなかったのです。

困惑する利家に対しまつは金銀の入った袋を投げつけ「この金銀を引き連れて槍でも突かせればよいでしょう」と言い放ちました。実に見事な皮肉と嫌味っぷりです。

さらにまつは戦に負けたら自分も含め兵士全員討ち死にすることと宣言。死を覚悟するまつの姿に利家や兵は奮起し、佐々8000の軍勢に対し2500の兵力で見事勝利を収めたのでした。

利家の面子を守る

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1595年、会津の大名・蒲生氏郷が亡くなると、東北の取りまとめを任されていた利家は氏郷の跡継ぎを氏郷の子・鶴千代にするよう後押し。秀吉もこれに同意していました。しかし秀吉の側近・石田三成が鶴千代では若すぎると反発、秀吉は三成の意見を採用し利家の話を反故にしてしまいます。

面目丸潰れとなった利家は怒り、屋敷に籠るようになりました。そこでまつは動きます。秀吉の妻・ねねを訪ね、利家の、そして前田家の為にも約束の履行を嘆願。ねねの説得により秀吉は考えを改め、跡継ぎは鶴千代に差し戻しとなり無事利家の面目は保たれることになりました。

ねねとまつは長年懇意にしていた間柄で信頼関係も厚かったといいます。ねねとしても武将の妻として夫の為に奔走するまつの姿に共感するところがあったのでしょうか。戦国時代でも妻同士の関係は重要な役割を果たすんですね。

死後をも気遣う死に装束

秀吉死去後、秀頼の後見として、天下を狙う家康の抑え役として政の中心となっていた利家。しかしその体は病に蝕まれていました

1599年、享年62歳で自邸で息を引き取った利家。まつは危篤の利家に対し、自ら縫った経帷子(きょうかたびら)を差し出しました。戦で多くの人を殺めた利家の後生を心配し、成仏できるよう願いを込めた利家の死に装束を用意したのです。

利家の死後の世界まで思いやるまつからは夫への愛情の深さが窺えます…。ですが利家は経帷子の着用を拒んだといいます。

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Masaさん(@nishimura6633)が投稿した写真 –

「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」

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経帷子を拒んだ利家はまつに告げます。カッコイイっす利家さん…!地獄に逝こうともどこまでも武士の心を忘れない戦う男!そして死後もまつを待っているというさりげない優しさを感じます。こんなこと言い残して死んでみたいものです…経帷子縫ってくれる伴侶なんていませんけど。

利家の死後、まつは……?

自ら徳川の人質に

利家が亡くなった後、まつは出家し芳春院の号を得ました。しかしまつに穏やかな時間は訪れません。1600年、前田家は徳川家康から謀反の疑いを掛けられ、その解消のためまつが人質となったのです。

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利家死去後、長男である利長が豊臣秀頼の守り役となっていました。しかし天下を狙う上で前田家が邪魔な存在であった家康の謀略により、利長が家康暗殺計画を企てているとされ、家康は加賀征伐を献言

250万石の百戦錬磨・家康を敵に回しても勝ち目のないことを悟ったまつは、謀反の嫌疑を解消する為、前田家を存続させる為に家康と交戦する気概であった利長を諫め、自ら江戸へ人質に参ることを決意したのです。

加賀から江戸へ下る際、まつは利長に対し「母を想うあまり家を潰すことがあってはならない。いざとなったら母を捨てなさい。」と言い残したといいます。

金沢帰国、そして…

まつの江戸での人質生活は14年にも及びます。その間に起こった関ヶ原の戦いにおいて家康の敵となり敗戦した次男・利政の赦免や、五男・利孝を大名にすべく江戸幕府に直訴するなど前田家の為に尽力し続けていました。

利政の赦免が土壇場で反故になりショックから体調を崩し重体となることもありつつ、まつは利長が病死した1614年にようやく金沢への帰国が許されました。この時「加賀の母」とも呼べるまつの帰郷に加賀の民衆たちは涙し喜んだといいます。

その3年後の1617年、まつは享年71歳でこの世を去りました。

まとめ

利家にはまつ以外にも5人の側室がいたといいます。まつだけを愛しぬいた、なんてドラマチックにはいかずとも、利家はまつがいなければ加賀百万石の大名にまで上り詰めることは不可能だったのではないでしょうか。

幼女に手を出したロリコン武将、なんて下世話な言い方をしましたが、幼くして母となったまつには「母は強し」の言葉に相応しく、自立性、利発さ、タフさが溢れていたと思います。だからこそ賢妻として夫を支え続け、今も良妻賢母と名高い存在となれたのではないでしょうか。

いつの時代も偉人の側には伴侶の支えがありました。戦国時代ともなれば武将の妻たちの働きは良くも悪くも歴史に大きな影響をもたらします。そんな戦国の乱世において、大名となった利家とまつは年の差なんて関係ない戦国きってのお似合い夫婦といえるでしょう!

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