超有能?徳川秀忠は歴史上まれに見る英傑だった!

第2代征夷大将軍・徳川秀忠。どんな人物だったか答えられますか?父・家康の陰に隠れ、息子・家光に押されて、今ではすごく目立たない存在になっています。そんな存在感の薄い人物が、どうやって江戸幕府を運営していたのでしょうか?

徳川秀忠ってどんなイメージ?

徳川家康の子。恐妻家。関ヶ原の戦いに遅刻。など、情けないイメージが先に立ちます。クイズ番組で「徳川15代将軍を全部答えよ」といった問題が出されても、秀忠の名前が浮かばない回答者もいるほどです。

綱吉のように「生類憐みの令」という愚策を立てたり、慶喜のように「大政奉還」を行ったりなどのインパクトがないと、徳川将軍15人も覚えられませんよね。

総合すると「家康の子供で、お江という気の強い妻を持ち、戦いに遅刻して父に叱られ、子供には、甘く見られていた。」といったイメージでしょう。
でも、実際はどうだったのか気になります。そんな情けないお坊ちゃんに、幕府を支えることができたのでしょうか?むー、気になりますね。

徳川秀忠は幼少期から傑物だった?

なぜ兄たちが徳川家を継がなかったのか

#徳川家紋

Hiroki Nakazawaさん(@_h.n___)が投稿した写真 –

秀忠には異母兄が2人います長兄:信康。若い時から勇猛果敢で、岡崎衆を率いて家康の補佐をしていました。正室の母から生まれ、偉大な父を持ち、妻は織田信長の娘です。家臣からの期待も大きかったことでしょう。

順風満帆の人生!と思っていた矢先、父から「腹を切れ」と命が下ります。信康としては「えっ?なに?なに?」という状態だったでしょう。

経緯としては、妻:徳姫と、家康の正室:築山殿とのいわゆる嫁姑問題が発端です。徳姫が「姑がいじめるー」と父:信長に泣きつき、信長は「嫁姑問題も解決できないような男はダメだ」と家康に信康の不信感をぶつけます。

家康としては「苦労して結んだ織田家との同盟を崩したくない」と、妻と信康に切腹を命じました。世の男性方、嫁姑問題には注意すべし!

次兄:秀康。豊臣秀吉のもとに養子に出されます。実際は、家康と秀吉が和解するときの条件として、人質として出されたようです。秀吉に実子鶴松が誕生すると、また養子に出され、最後は結城家の人間として生涯を閉じました。

約束された地位

徳川家康の三男として誕生します。母は、側室の西郷局。お愛の方と呼ばれていました。とても温和な性格で、家康の信頼も厚く、周囲の家臣や侍女たちから好かれていたそうです。加えて、名家出身であることから、秀忠は小さい頃から実質的な世継ぎとして育てられました。

小さい頃から、勤勉で穏やかな性格。人より一歩下がって、物事を観察する。と評されています。争う必要はなく、自分自身で跡継ぎになることはわかっていたのでしょうね。母親の性格を、継いでいることも考えられますね。

父:家康は知恵と策略で身を立ててきた男、傍には本多忠勝のような武力に優れた人物を置き、可愛がっていました。そんな家康からは「律儀すぎる。もっと柔軟に立ち回れないか」と、秀忠はじれったく思われていたようです。

周りからの信頼厚い2代目

秀忠が13歳のころ儒学の講義を受けていた部屋に、突然牛が乱入!大騒ぎになりました。周りは大混乱で大騒ぎです。これを書いている私も大混乱。なぜ、城に牛がいるのでしょうか?

まあ、とにかく牛が乱入している間も、秀忠は冷静に講義を聴き続けいていたそうです。(ということは、先生も講義を続けたのですね。)

別の時にも、能を観劇している最中、地震が起こり皆パニック!という事態がありました。そんな時にも「大きく揺れているけど、壁や屋根が崩れる兆候はないよ。下手に動かないほうがいいんじゃない。」と冷静に周りを観察し、皆を安心させました

日ごろから、冷静沈着で勤勉な秀忠の言葉だからこそ、パニック状態を抑えられたのでしょうね。周りから信頼されているあかしともいえます

徳川秀忠は最前線で戦う武将?

初陣を飾る関ヶ原の戦い



初陣は関ヶ原の戦い。この戦いは、歴史に疎い方でも、聞いたことがあるくらい有名な合戦ですね。1600年、東軍:徳川家康。西軍:毛利輝元に分かれ、現在の岐阜県を主戦場として行われた野戦です。

秀忠は、38,000人の大軍を率いて、2,000人が籠城している上田城を責めます。そして大敗しました。人数の差を見ても、大敗するなんて不思議ですよね?ゲームなら確実に勝てる状態です。

その訳は、攻めた相手が悪かった。の一言に尽きるでしょう。なんといっても上田城を守っていたのは、真田昌幸なんです。2016年大河でも見られたように、真田昌幸は、戦の神様のような人でした。その神様に、初陣の若造:秀忠がかなうわけがありません

そうこうしているうちに、主戦場である関ケ原への到着が遅れ、お父さんに怒られる。ということになってしまったのです。そもそも、なぜ上田城に戦を仕掛けたのでしょうか?

律儀すぎる男

関ヶ原の戦いへ出向く前、最初から一緒に戦うならば、合流して関ケ原へ向かえばよかったのです。そうしなかったのは、家康から「反乱分子をつぶしておきなさい。」と命を受けていたからです。

秀忠は父の言いつけを聞き、反乱分子である真田親子を潰してしまおう。と考えます。「こっちは大軍だから、すぐ落城できるだろう」「お父さんにすぐ行くって、伝えておいて」と家康のもとに書状を走らせます。

家康にも、真田親子にこだわる理由がありました。前の戦で家康は、真田軍相手に苦戦し、撤退を余儀なくされています。屈辱を晴らしたい、汚名を撤回したい。という気持ちは常にあったでしょう。

家康は「秀忠が、憎い真田をやっつける。頼もしいじゃないか!すぐに合流して、こちらの戦も終わらせてくれるだろう。」と期待を持ちながら秀忠を待ちます。待ちます。待ちます…。

なぜ来ない?

再現された徳川家康最後の陣・陣場野 #関ヶ原 #関ケ原 #徳川家康 #戦国時代 #戦国武将

小早川秀秋さん(@kingo_hideaki)が投稿した写真 –

その時、秀忠は昌幸の策略にはまっていました。時間稼ぎをくらい、足止めされていたのです。秀忠は「すぐ行くって、お父さんに言っちゃたのにどうしよう。」と焦ります。焦った挙句、あの昌幸に直接攻撃を仕掛け、敗北してしまいます。目も当てられないですね。

多くの犠牲者を出しながら、関ヶ原の父の元へと急ぎます。この時の秀忠の気持ちは、どうだったでしょう。「真田親子を懲らしめて、関ヶ原でアシストするよ!」と大見得を切っておきながら、実際は…。しかも天候が悪く、ぬかるんだ道に足を取られ、なかなか兵が進みません。最悪です。

一方関ヶ原では、なかなか来ない秀忠を待たずに、家康は決戦を開始します。秀忠が家康の元に着いたのは、戦が終わってからでした。「大事な仕事に遅れるとは、どういうことだ!」と家康は怒っています。顔も見せてくれないほど、怒っています。

秀忠にしてみれば「だって、上田を落とせって言ったじゃん。川も増水して渡れなかったのに。」と、口をとがらせて、ふてくされたに違いありません(笑)

最前線で汚名返上

初陣で、大きな失態を犯してしまった秀忠。今度こそ手柄を立てようと、大阪の陣では張り切ります。張り切りすぎて、また怒られてしまいます。

大阪冬の陣出軍!秀忠は「今度は戦場に遅れないようにしないと」と兵を急がせます。江戸から伏見まで、なんと17日で到着という速さを見せました。「今度は、間に合った。俺やったぜ!」なんて思ったでしょうか?しかし、結果は…。

「ばっかもーん!」カツオ君を叱る波平さんのように、秀忠は怒られてしまいます。自分の兵を見てみると、強行軍を続けた結果、移動だけでへとへとになっている兵がいました。疲労困憊で、とても戦える状態ではありません。

秀忠に徐行して付いてくるように命じて、家康はその場を去りました。これでは汚名を返上するどころか、恥の上塗りになってしまう。「そうだ。兵に頼らず、自分の力で挽回しよう!」とはっちゃけます。

戦が始まると、自ら最前線で指揮をしました。真面目な秀忠は、武功を立ててお父さんに認めてもらおうと、必死だったのです。最前線で戦った結果、負傷してしまいますが、家臣からは「勇猛果敢に、前線で我々を引率してくれる指導者」として愛されていきます。

徳川秀忠の政治手腕がすごい!

家康に託された太平の世

家康は自分に最後の時が訪れるのを分かっていました。秀忠を傍に呼び「わしの命も、後わずかだ。今後、天下はどうなると思う?」と問いかけます。秀忠は「乱れます」と答える。家康は、安心したように「それさえ分かっていれば、問題はない。」とこの世を去ります。

家康は、秀忠の従順さ・知識深さを買っていました。生真面目過ぎるところは、歯がゆく思っていたようですが…。戦人として通用しないであろう秀忠に、後を託したのには、訳があります。

「わしの時代で、戦を終わらす。その後は、平和になった世を秀忠によって存続させて欲しい。」と、数々の武将が願った太平の世を夢見ました。

そうして、平和な世を続けるために江戸幕府の土台を作り上げ、皆をまとめ上げる手腕が試される時が来たのです

平和な世をアピール

江戸幕府の主導者になった秀忠は、次々とリーダーシップを発揮していきます。まずは、自分と意見の合わない譜代を一新。公家諸法度・武家諸法度を制定し、大名や公家の取り締まりを実施しました。

この法度の狙いは、大名たちの力を大きくしないことで、江戸幕府への反乱を抑える。という事です。

〇「新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス」一国一城令ともいわれます。平和な世の中になったのだから、大名は一つしか城を持ってはいけません。お城の堀や土塁が壊れたら、幕府に申請してから修理しなさい。と、軍事用の砦を築くことを禁止しました。

〇「私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事」政略結婚の禁止。大名同士の結束を強めるような結婚は、勝手にしてはいけません。始まったばかりの幕府運営。やはり、大名同士の結びつきは怖かったのでしょう。

このように、平和な世の中なのだから、物騒な考えは捨ててみんなで賢くやっていこうよ。と法律を制定していきました。

まとめ

2017.01.26#増上寺

Makotoさん(@iviakkoring)が投稿した写真 –

偉大な親の陰に隠れてしまった、徳川秀忠。時代劇でも、家康のサブエピソードとしてしか、脚光を浴びていません。地味にコツコツ仕事をこなす人は、目立たないのでしょうがないのかもしれないですが。

世の中には、親の七光りをしょって立ち、勘違いをしている馬鹿な2代目は山ほどいます。そんな中で、冷静沈着に世の中を見わたし、必要・不必要な事柄を判断し、江戸幕府の礎を作り上げた人物として、もうちょっと評価してあげてもいいのではないでしょうか?

今は、妻のお江と一緒に東京タワーの傍にある、増上寺で眠っています。秀忠は恐妻家と言われていますが、文献が残されていないため、夫婦仲は分かりません。

ただ、お江がなくなった後も側室を設けていないので、お江を愛しく思っていたか、女性に淡白だったかのどちらかでしょう。外腹に保科正之がいますが、お江には内緒だったようですね。内緒にすることで、愛情を示しているような気もします。

秀忠は、今の世の中を、どうみているのでしょうか?

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