天草四郎はイケメンで超セレブ!一揆指導者の知られざる素顔とは?

日本史上最大級の一揆“島原の乱”を、若干17歳で率いたカリスマリーダー『天草四郎』。イケメンでセレブという噂もありますが、いったいどんな人物だったのでしょうか?そのミステリアスな魅力に迫ります!!

天草四郎のイメージって?

色々誤解があるようですが・・・

天草四郎については、中学の社会科の授業で『1637年、島原で天草四郎という少年を中心としたキリシタンによる一揆があった』と結構さらっと、教わった記憶の人が多いのではないでしょうか。あとは、なんとなく『美少年』という刷り込みをされていませんか?

天草四郎に関して、現存する歴史的資料は少ないのですが、周りから英雄視され、その死後偶像化された側面があるのではないかと感じます。また、そのような背景から、フィクションとして作り出されたイメージが、天草四郎そのものとして根付いているのかもしれません。

ただし、天草四郎とうい若干17歳(15歳という説もある)が中心となって起こしたと言われる島原の乱は、その後の日本の政策に多大な影響を与える出来事であったことは事実です。そんな謎の多い天草四郎について、紐解いていきます。

天草四郎はイケメンでセレブな最強男子だった?

まさに日本版“イエス・キリスト”の誕生!?

天草四郎は、本名は益田四郎/時貞(ますだしろう/ときさだ)。洗礼名は「ジェロニモ」、島原の乱の時は「フランシスコ」と言いました。

天草布教の宣教師ママコスが鎖国でマカオに追放される際、「今から25年後に天地異変で人は滅亡に瀕する。このとき16才の神の子が現れ、キリストの教えに帰依する者を救う。」と残しました。

預言通り1637年、天草四郎が現れました。幼い頃から儒学・仏学・神学・南蛮学を学んだ救世主の登場です!!天草四郎は、生まれながらにしてカリスマ性がありました。

ホントにイケメンだった?

天草四郎を描いた絵画は、どれもイケメンに描かれています。色白で目が青く茶髪で、実は日本人ではなく、ハーフだったという話が残されています。反対に、顔にあばたがあったという話も残っています。いったいどちらが真実なんでしょうか!?

父親は肥後国南半国のキリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れ斬首された小西行長の家臣だった益田甚兵衛(ますだじんべい)母親は天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)の渡辺伝兵衛という庄屋の娘とう記録があります

ここで言えることは、天草四郎が本当にこの2人を両親として生まれてきたということであれば、疑いもなく、れっきとした日本男児になりますが、実際はどうだったんでしょうね。

武家の血を引くセレブ!

天草四郎の父・益田甚兵衛は、小西行長の家臣時代には6000石の俸禄を与えられていたといわれていますが、小西家滅亡後は長崎や大矢野島で農業をしていました。武士(正規社員)を捨てたということではなく、浪人となり生活のために農業(非正規社員)といったところでしょうか。

母の兄である千束善右衛門も小西行長の家臣として仕え、関ヶ原の戦いでは小西行長の使者として肥前(現在の長崎県、佐賀県)の大村氏、五島氏の元へ使いとして送られたという記録が残っていますが、甚兵衛と同様に小西家滅亡後は大矢野島で浪人をしていました。

天草四郎は大名の家臣の家に生まれたため裕福で、学問の機会にも恵まれ、当時日本で唯一の外国貿易港だった長崎も頻繁に訪れていたようなので、子どもながらに海外の最新情報に触れていたかもしれません。

天草四郎の影響力とは

なんと!!3万7千人が集結した“島原の乱”



1637年に島原と天草で起こった “島原の乱”には、3万7千人もの民衆が集結しましたが、幕府は鎮圧に12万人を超える兵を投入し、4ヶ月もかかるほど手こずりました。

日本史上最大級の一揆の伏線は、領主の有馬氏が国替で松倉氏に代わったことにあります。キリシタン大名の元、家臣も領民もキリシタンが多い中、有馬氏の家督を継いだ直純がキリスト教を改宗したため、キリシタンの家臣の多くは島原に残り、その後の島原の乱の主要メンバーになります。

松倉氏が飢饉の中で重税を科し、納められない者に水牢や蓑踊りと常軌を逸した仕置きを行ったことで、領民たちが決起しましたが、農民だけではなく、漁師、商人、庄屋、浪人等含め老若男女が参加しています。現在の社会科の教科書では、“島原の乱”は『島原・天草一揆』と改められています。

島原藩主は極刑に

“島原・天草一揆”当時の藩主であった『松倉勝家』は、「過酷な年貢の取り立てで領民の生活を脅かし、そのことが一揆を招いた」という咎で、極刑になりました。ビジネスの場に置きかえると、統率力と危機管理能力の欠如でしょうか

刑の執行は、大名であるにもかかわらず、切腹ではなく斬首でしたので、極めて重い罪と考えられます。ちなみに、江戸時代で同様の処分を受けた大名は、後にも先にも松倉勝家だけです。

松倉家の名誉のために書き加えますが、松倉勝家の父・松倉重政は関ヶ原の戦いの論功行賞で、徳川家康から大和五条藩(現在の奈良県五條市)を賜り、現在の五条市の礎を築いた人物です。勝家の処分は、三代将軍・徳川家光が、鎖国と禁教令(キリスト教禁止)を厳しくした時代背景も影響していると思います。

ポルトガルとの国交断絶へ

Yukariさん(@yukaring.m)が投稿した写真

豊臣秀吉から徳川家康の政権になっても、禁教令は続いていましたが、家康や秀忠が東北布教のために来日した宣教師に面会していたので、まだ厳しい弾圧は行っていませんでした。

江戸幕府の政策として禁教令と双璧をなす鎖国については、それまではポルトガル船の入港を認めていましたが、“島原・天草一揆”で多数のキリスト教信者が蜂起したことに脅威を感じた幕府は、ポルトガルとの貿易中止を検討し始めます。

ポルトガル貿易を中止した場合、中国産の生糸や絹織物が入らなくなるデメリットがありましたが、オランダ貿易で手に入ることが確認できたので、幕府は「南蛮船入港禁止」を決断します。“島原・天草一揆”鎮圧から1年半が経過していました。1543年、種子島に鉄砲が伝来して以来続いていたポルトガルとの国交が断絶しました。

天草四郎はお飾り?一揆の意外な真相

ホントの総大将は!?



ここまでお読み頂くと、いくら「昔は数え年12歳で元服できた」と言っても、天草四郎という若干17歳の美少年が、江戸幕府をも揺るがすような、“島原・天草一揆”をひとりで計画・指揮したと思う人は、残念ながら少ないのではないでしょうか。

幕府が脅威に感じた『3万7千人の民衆』の中には、キリシタン大名・小西行長の元家臣であるキリシタン浪人や庄屋など、知性と教養を身につけたオトナたちが多数いました。しかも、浪人たちに至っては、1600年の関ヶ原の戦いを経験したメンバーもいるのですから、軍師並みに戦術を立てることができる者がいてもおかしくないと思います。

天草四郎は、松倉氏あるいは江戸幕府の「重税と禁教令」に猛反発する民衆を一つにまとめ、戦意を高めるためのプロパガンダとして、擁立、神格化された人物ではないかと考えるのです。

多士済々なブレーンたち

原城本丸大将を務めた有家監物 (ありえけんもつ)は、元領主・有馬氏の家老格だった60代の長老です。原城は、有馬氏の居城だったので、きっと勝手知ったる他人の家だったでしょう。監物の娘が天草四郎の妻という記録が残っています。

関ヶ原で敗れ切腹した小西行長に仕え「徳川家の天下を覆してわが志を立てよ」と遺言を言付かり、島に隠れて有馬氏の家臣となった蘆塚忠右衛門(あしづかちゅうえもん)は50代でしたが、天草四郎の父・益田甚兵衛とともに軍師を務めました

森宗意軒(もりそういけん)は、小西行長の家臣時代に、行長の荷を積んだ船の船頭として朝鮮に渡航していたところ難破に遭い、南蛮船に助けられ南蛮からオランダに渡り、滞在中に幻術(マジック)を身につけました。その後、中国で火術、火攻めなどを教え、帰国しています。

天草四郎の最期…

壮絶な結末

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幕府軍は、オランダに大砲発射の援護射撃を依頼し、海上から領民が最後に立てこもった島原半島の原城めがけて打ち込ませました。これは、ポルトガルの援軍を期待していた領民たちに精神的なダメージを与える作戦と考えられます。

また、幕府軍は兵糧攻めの策を取った上での応戦で、「一人も生かして残すな」との下知に、城内は虐殺に近い状態でした。しかし、幕府軍で天草四郎の顔を知る者がいなかったため、15歳前後と思われる男児は全員首をはねられました。その首を全て四郎の母親の前に運び、首の確認をさせたといいます。

「四郎は鳥になって天空に飛び立ったので、城にはおりません」とうそぶく母親が、ある首を見て取り乱したので、「総大将・天草四郎の首」と認定されました。四郎等の首は長崎・出島のポルトガル商館前にさらされました。

今なお語られる天草四郎の魅力とは?

四郎が起こした奇跡!?

kenzo yabeさん(@kenzoyabe)が投稿した写真

天草四郎にまつわる奇跡の話がいくつか残されていますので、少しご紹介させて頂きます。①四郎は大矢野から島原までの8キロ程を海の上を歩いて渡ったそうです。また、②大矢野岳の山頂で、西の海にむかって四郎がお祈りしていると、海から赤い火が出現し、大きな光の十字架になって、四郎と一緒に十字架も消えたとか。

③四郎のことを怪物だと罵り危害を加えようとした役人が、急に口をきけなくなり足が曲がった状態で全く伸びなくなったので詫びを入れ、四郎がお祈りしたところ、元に戻ったとか。

新約聖書でイエス・キリストが起こした奇跡が四つの福音書に書かれていますが、『四郎の奇跡』も、福音書を参考に創作されたと思いませんか。さらに、天草四郎の“奇跡”は、森宗意軒のオランダ仕込みのマジックではないかと。まさに、『TRICK』です!?

たった一人の生き証人!?

ただ一人生き残った者がいました。幕府軍の総大将・松平信綱(老中、川越藩初代藩主)が、原城内の牢に繋がれている山田右衛門作(やまだえもさく)を発見。取り調べの内容を『山田右衛門作口書写』にまとめ、江戸の松平信綱邸に住まわせました。

山田右衛門作は、軍旗「天草四郎陣中旗」(天草切支丹館蔵、国の重要文化財)を描いています。ポルトガル人に絵を習い、お抱え南蛮絵師として有馬直純、松倉重政・勝家に仕えました。矢文で「幕府と内通していた」として、城内の牢に入れられて命拾いしました。

同志を裏切り妻子を殺され、一人生き残った右衛門作。江戸で放火がはやった年、信綱の命で犯人が処刑される時の苦悶の表情を描き江戸市中に張り出したところ、放火がピタリと止まったと言います。晩年は島原に戻り、83歳で波乱の生涯を閉じました。

天草四郎、その生き様は「崇」。



いかがだったでしょうか。天草四郎を漢字一文字で表現すると「崇」ではないかと思います。「崇」は、山が縦に高くそびえているさまをあらわし、転じて気高いことを意味します。また、「最後まで貫き通す」意志の強さもあります。

天草四郎には、300人とも500人ともいわれる女性の親衛隊がいたという話も残っています。17歳の少年を象徴として、時の権力に立ち向かっていかなければならないほど、苦しい生活を強いられていた当時の天草、島原の人々。

いまもなお、原城址にはたくさんの遺骨が埋もれていると言われています。

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