どうしてこうなった!片桐且元は家康に翻弄された悲劇の武将!

戦国時代を駆け抜けた武将:片桐且元。豊臣秀吉につかえながら、最後には豊臣家に刃を向ける立場になった悲しき武将です。裏切者とレッテルを張られながらも、豊臣家を守ろうとした忠臣という評価も同時に受けています。果たして、どんな人物だったのでしょうか?

片桐且元ってどんな人?

賤ケ岳の七本槍



現在の滋賀県長浜市に、浅井氏配下の片桐直貞の長男として生まれた片桐且元。織田信長軍が浅井長政を破ってからは、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)につかえ、柴田勝家との戦“賤ケ岳の戦い”活躍し、賤ケ岳の七本槍の1人にかぞえられています

賤ケ岳七本槍とは、脇坂安治、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟谷武則、加藤嘉明、片桐且元の7人の名称。賤ケ岳の合戦において、最前線で武功を上げたことから、「頑張ってくれて、ありがとう!これで天下取りへの地盤固めが出来たよ。これからもよろしくね。」といったお礼状が、秀吉から届きます。

この頃は、まだ若かった且元。上司から褒められることは、相当嬉しかった事でしょう。しかも摂津国内に3千石も与えられています。皆さんも経験があると思いますが、若い時に褒められた嬉しさは、一生消えずに残ります

頼れる事務方

その後も、且元は戦場で戦い続けます。且元としては、七本槍に数えられた!という自信に満ち溢れていたのでしょう。小牧・長久手の戦いでは、馬周り衆として張り切って、本陣を守っていました

1586年には、方広寺大仏殿の建設で、作事奉行に任命されます。この頃から、戦場を離れ街道整備や検地作業に携わることが多くなってきます。いわゆる事務方ですね。

秀吉が朝鮮出兵を決めた文禄の役では、先発して街道整備を行っていましたが、海路用の船の調達を指示されています。事務方としての腕を買われてのことでしょう。

地道な作業が功を奏したのか、1595年には1万石の城主となっていました。ここまで、順風満々に邁進してきた且元に、影がさしかかります…。

秀吉の死

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1596年に起こった慶長伏見地震(M7.25-7.55程度と推定されている直下型の大地震。)死者数だけで1千人を超えたと伝えられています。完成間近の伏見城も倒壊し、城内だけで600人が圧死したといわれています。

この復興作業に且元は、かかわっていました。その2年後には、秀吉の愛息:秀頼の補佐役5人の中の1人に任命され大阪城で勤務することになります。浅井の家臣から、秀吉に信頼されるまでの長い道のり。秀頼の世話役にまで上り詰めた時が、且元にとっての最高期でした。

とうとうやってきた秀吉の死、且元の心境はどうだったでしょう。七本槍に数えられてから秀吉に尽くし続け、受けた恩を、一生懸命返し続けようと努力してきました。「さあ、秀吉様の元、もっと良い世の中を作るぞ」と思っていたでしょう。

そんな矢先に襲ってきた、秀吉の死。ガックリきていたと思いますよね?ご安心ください。そこは戦国時代人、変わり身も速いです。今度は、徳川家康に近づき始めます。

片桐且元が悲劇の武将と言われる理由

裏切者か?忠臣ものか?

1599年豊臣秀頼が伏見城から大阪城へ移りました。同行していた徳川家康、大阪には家がないので宿泊地に困ります。その時に且元は家康を自宅に迎え入れます。さあ、家康とのパイプが出来ました

1600年に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成方に付きます。結果は、三成軍の負け。当然、且元も家康に詫びを入れなければなりません。娘を人質として差し出し、家康とのパイプを何とか繋ぎ止めます。

恩がある豊臣方、未来を予感させる家康方、両家の関係を調整したい且元は、奔走し続けます。その働きを見た家康は、且元に2万4千石の領地を与えます。この頃から、家康方にちょっとずつ心を許し始めました。人が物に弱いのは、今も昔も変わりません。

大阪城へ帰り、家康の政治を、幼い秀頼の代行として承認する立場になっていました。この頃の且元の評価は大きく分かれます。家康から領地を貰ったことにより、家康に付いた。いやいや、七人槍の名に懸けて、豊臣家を裏切るものか!と、周りの噂も真っ二つに割れていました。

方広寺鐘銘事件とは?

鼻タカな且元

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1614年長年とりかかっていた、方広寺大仏殿の再建も、大体区切りが見えてきました。とうとう、お寺の鐘を完成させるときです。鐘自体は、秀頼の命令によって集められた鋳造師が尽力を尽くし、後は鐘に入れる銘を決めるだけ。

且元は、家康の元へ大仏開眼供養の日時を報告がてら、ご機嫌伺いをしていました。その時、家康は「分かったよ。OK」と気軽に返事をくれていたので、スケジュール通りに進めるために準備を急いでいました。

秀吉から託された方広寺再建が、秀頼の代によってやっと完成する。敵だと思っていた家康も協力的だし、私の調整力も捨てたもんじゃないな。なんて鼻タカな気分だったでしょう。

そんなルンルン気分を、一気にぶった切る事態が起こります。何故か家康が怒っているというのです

古狸の本領発揮

且元はうろたえます。なぜだ?怒らせることをしただろうか?考えても答えは出ません。今の世なら「ドッキリ?ドッキリだ!」とカメラを探し回るでしょう。答えは、鐘に刻まれた銘にありました。「国家安康」「君臣豊楽」何がいけないのでしょうか?

家康は「国・家・安・康。私の名を分断するなんて、呪いか?」「君臣豊楽とは、豊臣家をたたえるまじないか?」と詰め寄ります。且元としては、「呪いなんて滅相もない。そんなつもりじゃない。」と一生懸命弁解しました。

しかし、相手は古狸と言われた家康です。「そうなの?じゃあいいよ。」なんて簡単に言うわけありません。家康には、豊臣家を潰すキッカケが欲しかったのです。

ヤクザの上を行くような理不尽ないちゃもんに、且元は純粋に言い訳を続けます。そのうち「あれ?これは、ただの言いがかりじゃないか?」とやっと気づきます。

淀殿ご乱心

とにかく家康に会わないことには、始まりません。駿府に駆け付けた且元は、家康に会うことを許されないまま時が過ぎていきます。内心は大焦りです。絶対に、秀頼と家康の仲を悪くしていけない。私が止めなければ!

一方、もう一人の使者として駿府に来ていた大蔵卿の局とはすんなり面会し、楽しい時を過ごさせ、丁寧に送り返しています。そのことから、大蔵卿の局は且元のことを見下し、自分のことは自画自賛していました。

且元は、本多正純らから3つの意向を伝えられています。1.秀頼に江戸参勤をさせる事。2.淀殿を人質として、江戸に差し出す事。3.秀頼が大阪城を出る事。「このうち1つは、守ってね。」と、やんわり諭されます。

さあ、大阪城に帰ると大変なことになります。大蔵卿の局と、且元の言っていることが大きくかけ離れているからです。大蔵卿の局は「家康様は、心配しないで。大丈夫だよ。」と声をかけてくれた。と、言っているのに、且元の伝言では「淀殿の人質や秀頼の国替え。ましては、江戸へ来いだなんて!」声を荒げて、淀は怒っています。

無念!最後は豊臣の敵に…

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淀殿と同じように、秀頼を家康の家臣扱いする行為に、目くじらを立てる者も出てきました。豊臣家をなんとか、救いたい一心で且元は淀殿に食らい付きます。「そこをなんとか、穏便に…」と。

自室に帰ってからは、「政治が分からない馬鹿者どもめが!」と大酒を喰らっていた事でしょう。舌打ちの連続だったかもしれません。同じときに大阪城内では「且元は、家康の味方に付いたのではないか?」と噂が飛び交います。

こうなっては、大阪城には居られません。手を尽くして仕えてきた秀頼には「不忠者」呼ばわりされ、仲間からも白い目で見られ、残念な気持ちと、あきらめの境地で大阪城を後にしました

家康の方は、これ幸いと「約束守らないってことは、攻撃されてもいいってことだよね。」と大阪の陣が開始されます。且元は、そんな家康のもとに、人質を送って臣下に加えてもらうことにしました。

非難轟々?その後の片桐且元の評価は?

知名度は高くありませんが、片桐且元は先見の明を持っていた武士だといえるでしょう。うまく使えば、立派な縁の下の力持ちになってくれたはずです。ただ、当時は家柄や血筋が物をいう時代でした。

気に入らない提案は、上のものによって考える隙を見せずに却下されてしまう。どうしようもないことだったんですね。且元の提案も、「気に入らない」と一蹴されてしまいました。

もしあの時、淀殿が家康のもとに行っていたら?秀頼が、家康に会いに行っていたら?旅行のついでや駿府の温泉に療養など、言い訳はなんとでも出来ました。

ちょっと知恵を巡らせて、且元の提案に乗っていただけで豊臣家は続いていたかもしれません。且元も、歯がゆい気持ちだったでしょう。今日、且元は「中間管理職の悲劇」「家康に利用された小者」「恩人を裏切った不忠義者」など、発言に力が無かったばかりに、悪者扱いされている事が多いです。

まとめ

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1615年になると、病気を理由に引退を願い出ます。家康はそれを許さず、大坂夏の陣に参戦を決行させます。この時の功績を認められて、4万石の大名になっています。

若い時から仕えてきた豊臣家が滅んだ瞬間、且元は何を思ったでしょうか?秀吉に褒められ、七本槍と言われていたあの頃。大変だった大地震の復興に尽力したこと。大阪城の業務を一手にさばいていた、充実した日々。

それとも、追い出された時の悔しさ。忠言が通らなかった時のむなしさ。仲間から裏切者とののしられた悲しさ。いろいろな思いが交差していた事でしょう

且元は、豊臣家滅亡を見届けた直後死亡した。と残っています。公式には病死となっていますが、人生をあきらめた落胆から死期を早めたのではないかと思っています。豊臣家と一緒に殉死したという説も残っていますが、それでは悲しすぎますよね。

今は、京都の大徳寺と静岡の誓願寺の2つにお墓が立てられているそうです。ストレスの無い生活をゆっくり過ごしていただきたいものです

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