応仁の乱の真実!戦国時代の発端に渦巻く人間ドラマに迫る!

応仁の乱!それは戦国乱世の到来を告げる戦い!その発端は一人の女性だった!京都で東軍と西軍が激突!やがて全国に争乱が広がるこの乱を語りつくす!

戦乱の始まり!応仁の乱とは?

それを語るにはまず室町時代の説明から!

日本の歴史で平安時代、鎌倉時代ときて、その次が室町時代。1333年に鎌倉幕府が滅亡しちゃって、その後出来たのが室町幕府。その時代。この室町幕府もやがて滅亡するんだけど、そのきっかけを作ったのが応仁の乱って感じ。

詳しく見ると応仁の乱ってぐちゃぐちゃしてて、なんだかスカッとしない印象の戦いなんだけど、あの信長や秀吉が活躍した戦国時代の幕開けとなった戦いでもあるし、ここは一つ、スパッと語っていくぜ!

まず室町幕府は足利尊氏が初代将軍。このころの世の中は、相次ぐ戦乱の結果、名門の武家・公家の権力が弱まっていた。将軍家よりも三官領(細川氏、斯波氏、畠山氏)の力が強くなっていて、それが八代将軍・義政の頃にはそうとうなモンになってたんだ。

義政ってダメダメ将軍だった!?

足利義政は将軍なのに政治とか全然興味なくて、ダメダメ君になっていた。あの有名な京都の銀閣寺、あそこを作ったのが彼なんだけど、そこに若いうちから籠っちゃって、半隠居? 引きこもり? 状態の将軍だった。

この義政には奥さんがいて、それが日野富子。なんと日本三大悪女とか言われる恐ろしい女性。16歳で義政の正室となって、第一子を生むけど、その日のうちに死んじゃって、その後男子を生むことが出来なかった。

じゃあ、次の将軍はどうなる? ここで出てくるのが義政将軍の弟だ。仏門に入っていたけど、それを強引に戻して、将軍後継者としようとした。でもどうも嫌がるわけ。なら「もしこの先男の子が生まれても仏僧に入れ、家督を継承させることしないから」と言って納得させた。

ところがここで大どんでん返しが!

弟くんは戻ってきて足利義視と改名した。ところが! なんとそんなことをした後に、日野富子に男の子が生まれちゃったんだね。これがのちの足利義尚。「将軍にはしない」って約束だったのに、母親の欲が暴走しちゃう。

まだ弟の義視は将軍になっていない状況。富子はどうしても実子・義尚を将軍にしたい。そこで暗躍し始めた。敵は義視一派だ。特に後見人である幕府第一の実力者、細川勝元をなんとかしなくては! とね。

だから富子は他の強力な実力者、山名宗全と手を結んだ。こうして細川勝元と山名宗全が対立し、それが足利将軍家および、畠山、斯波の家督争いや、あちこちの利害関係を巻きこんで天下を二分する巨大勢力に分かれ、戦いの構図が完璧に出来上がっちゃった。

それに加えて重要な世相を解説しよう!

当時の1460年代は日本全土に異常気象が続き、全国的飢饉に見舞われていた。ところが時の天皇(後花園帝)や将軍義政は自分の楽しみに明け暮れ、何一つ救援策をやらなかった。

酷いよね? だから公家も武家も庶民も、みんな殺気立ってた。不満が溜まりに溜まって、爆発するきっかけを待ってたんだ。そのきっかけは、応仁元年(1467年)に起こった。

まず、畠山家の家督争いが高じて、畠山政長が京都・洛北の上御霊社境内に立てこもって挙兵した。これと敵対する畠山義就がそこに攻め込んだ。政長は窮地に陥り、社に火を放って遁走。その足で頼りの細川勝元に泣きついたわけ。

応仁の乱、開始!

この戦いで勝利した義就は、実は山名派。つまり幕府の実権が山名派に移っちゃうという危機感を、細川勝元が強烈に感じてしまう。そこで決意。将軍の居館・花の御所を軍勢で襲い占拠して、相国寺に布陣しちゃったのだ!

これに対して山名派も軍勢を招集。宗全邸に本陣を置いた。この宗全邸は勝元の陣の西にあったので「西軍」と呼ばれ、勝元方は「東軍」と呼ばれた。そして5月26日、ついに11年間に渡る戦闘が始まった。

応仁の乱・西軍の大将や本拠地は?

「西軍」の総大将は山名宗全

山名宗全は武将であり、守護大名だ。室町幕府侍所の長官に任ぜられた四家を四識家というんだけど、その一人だ。この宗全さん、西軍の中では「宗全入道」とか「赤入道」とか呼ばれてたというから、結構いかつい外見だったろうね。

西軍の兵力は『応仁記』によれば11万。東京ドームでライブをやったりするとそれが満員で4万5千というから、その約2.5倍という感じ。多いような少ないような。当時はもちろん鉄砲なんて武器はないから、弓とか刀とかの戦いだね。

この戦いで特徴的なのは、正規の武士身分ではない足軽の大活躍だ。西軍も東軍も兵力不足に悩み、大量に足軽を雇い入れ戦力としたわけ。西軍だと御厨子某が後方撹乱で足軽ゲリラ戦をして名を上げた

西軍がピンチに! ところがそこへ!

「西軍」に加わっていたのは、敵細川氏とその同盟勢力の台頭にやべぇ!と思っていた地方勢力。だけど割と成り行きで参加した人も多かったみたいで、統率に不安があった。頑張れ宗全入道! 

激戦が続く中、細川勝元は足利義政に頼んで将軍の牙旗をもらい、「正義はこっちにあるぜ!」と勢いを増し、西軍は大ピンチに陥る。ところが、そこにさっそうと駆けつけたのが周防(現・山口県東部)の大内正弘と伊予(現・愛媛県)の河野通春!

彼らは水陸二手に分かれ、1万の軍勢と2千艘の水軍で駆けつけた! 水軍っていうと、舟で鴨川をさかのぼったってことか? いわゆる海賊衆っていうらしいけど、想像するととてつもなくかっこいい! 

拮抗する二大勢力

この援軍で西軍は元気を取り戻し、5分5分となって、こう着状態になったんだ。とはいえ、激戦は続き、一進一退。10月3日の相国寺の戦いではとんでもない死傷者が出たけど、勝敗は決まらなかった。

同じ日、朝廷では山名宗全を討ち取れ! ってな命令を出していて、さらに12月5日には、正親町三条公治・葉室教忠・光忠父子・阿野李遠・清水谷実久などの西軍派公家の官爵はく奪が決定されたりしてるけど、彼らは富子と対立関係にあった一族や縁者で、義視を支持していた人たち。

西軍の中でも富子の暗躍ハンパねぇ! ところが実に妙なことがある。富子がかついでいた息子義尚は西軍だが、富子自身は、この乱の間中、東軍側にいたっていうこと。はい? どういうことでしょうか? 意味わからない。

富子の本性とは?

囚われの身だったのだろうか? いやいや、将軍の正室なわけだから、もっと自由だったはず。実際、東西両軍の大名にお金を次々と貸付け、米の投機もして、個人資産60億円もあったっていうから、金にモノを言わせて、好き放題だったのかもね。

さて、東軍のことについて触れる前に、ちょいネタを一つ。京都で今も有名な西陣織。この西陣っていうのは、まさに宗全の陣、「西軍」があったところなんだよ! 京都は凄い。歴史がずっと繋がってる。また行ってみたいぜ!

応仁の乱・東軍は物量で攻める!

「東軍」。その兵力16万!

時の将軍足利義政の弟・義視を支持するその総大将は細川勝元。武将であり守護大名だ。実はこの人、応仁の乱で敵対した山名宗全とは、はじめは不仲じゃなかったんだよね。この辺が面白いわけ、ぐちゃぐちゃでね。

どういうことかというと、当時、細川家は一族全てで9ケ国の守護。一方の山名家は8ヶ国の守護。勝元は相手と争うのは得策じゃないと思ったから、宗全の養女を正室に迎えたりして、協調路線だった。

ところが、いろんな内紛があって、宗全の勢力が大きくなってくると、逆に対抗心が出てきた。自分の方が上だと思って、下の奴と協力してやるくらいの気分だったのが、追い越されそうになってプライドが許さなくなったとか、今でもそういう話はよく聞くから、人間の本心って室町時代と変わらないんだねぇ。

東軍の他の武将は?



細川勝元さん、禅宗を信仰して、龍安寺や竜興寺を建立。医術書を書いたり、和歌・絵画に優れた文化人だった。まあ、超エリートだよね。彼の下には重臣がいて、香川景明・香西元資・奈良元安・安富盛長の4人は細川四天王と呼ばれたみたい。

細川四天王の他に、東軍でメインとなった人物は斯波義敏・畠山政長。そして何度も出てくる足利義視。この義視さん、実はいい人だったんじゃないかと思う。元々仏僧だったわけだし、応仁の乱の当初、両軍に和睦を呼び掛けたりしたっていうしね。

義視さん、最初は東軍にいたんだけど、途中で西軍に行ってしまうわけ。それにはわけがあって、乱が起きる前、義尚の乳父だった伊勢貞親という幕府政所執事がいたんだけど、この人が強烈に義視さんを排斥しようとした。

伊勢貞親が状況を変えた!

一時、貞親さんは失脚していたんだけど、義政将軍が呼び戻して東軍に入れちゃったんだよね。そうなると、義視さんは居心地が悪い。完全に孤立しちゃった。そこで東軍を逃げ出して、結果西軍に加わった

貞親さんは義尚派だから、ここで東軍と西軍の支持する後継ぎ候補が逆転しちゃう現象が起きた! それでも騒乱は収まらず、逆に全国に広がっていったんだ。いったいなぜ戦っているかわからない人たちも多かっただろうね!

洛中での大きな戦闘は大体、応仁元年10月くらいの合戦までなんだけど、その後は洛外での戦闘が増加して、足軽たちの活躍で食糧運搬路の切断とか放火とか、そういうゲリラ的な活動が繰り返されたんだ。

応仁の乱、その後はどうなった…?

京都は焼け野原になっていた!

足軽が活躍したといったけど、実は足軽は盗賊や凶悪人を多く含んだ無法者集団に近かった。高い自立性があって、みょうちくりんな格好をして、放火や略奪をやり放題だったらしい。

時代の不満を発散させる要素もあったんだろうね、戦いが終わって京都市街はほぼ焼け野原となった。寺社や公家・武家邸はほとんど焼失。多くの貴重な歴史的資料が燃えちゃった。

焼けたのは主に上京。ここには寺社、公家、武家屋敷があった。焼け残った下京は商工業者の居住地区だったから、その後、京都の商業復興に繋がったわけだ。放火した足軽たちも、ちゃんと考えてたのかもしれないね。

応仁の乱って結局どうなった?

1473年3月、山名宗全が、5月には勝元が病死しちゃう。ダメ将軍だった足利義政は、日夜酒宴に明け暮れて、救済策をやらない。そして悪女日野富子は、相変わらず困窮した東西軍の守護に金銭を貸付け、米の投機で一人ぼろ儲け

同年12月には日野富子の推す義尚が九代将軍に決定した。これで両軍が戦う理由が薄くなった。そして1477年に西軍の中核だった大内政弘が周防に突然帰っちゃって、京都での11年に渡る大乱は終結したんだよね。

この大乱では、実に妙なことに、両軍の主だった武将はただの一人も戦死していなくて、京の都が焼け野原になっただけ。足軽たちはたくさん命を落としただろうね。しかし、この大乱で室町幕府って何だよ、意味ねーよ! ということになっちゃった。

ここから次の時代へ!

これまで抑えつけられていた権力から解き放たれ、各地で下剋上が頻発。そして群雄割拠する戦国時代へと突入していくのだ! その一方、さて、日野富子はどうなったのか? 将軍となった義尚は25歳で死亡しちゃうんだよね。

それにめげず義視と自分の妹の間に生まれた足利教材を将軍とするが、権力を持ち続ける富子と義視が敵対。そうなると、義政の甥の子足利義澄を強引に11代将軍に就けた。そしてその3年後、1496年に富子は死亡した。

この応仁の乱の原因として、義尚の後見人を宗全に頼んだことが理由とされてきたけど、最近の研究だと、『応仁記』の虚構かもしれない、って言われてる。富子が宗全に頼んだ証拠がないし、どちらかというと宗全は義尚が生まれる前は、義視と繋がっていたとみられるからだとか。

ということは、東軍西軍が支持していたのは何だったのか、よくわからない戦いということになる。大義はなかった。欲と権力にまみれた骨肉の争いってやつ? そういうものはやがて終りが来るということを歴史から学んじゃうね。

応仁の乱
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