桶狭間の戦いでわかる!やっぱり織田信長はすごかった!

若い頃は大うつけと呼ばれていた信長の存在を一躍飛躍させた「桶狭間の戦い」!その戦いの全貌を解説します!

有名な「桶狭間の戦い」って何年に起こったの?

今年の新作大万燈。美しい。 #刈谷 #万燈祭 #桶狭間の戦い #織田信長 #今川義元

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永禄3年5月19日(1560年6月12日織田信長今川義元の首を取り、天下統一への第一歩を踏み出しました。これが有名な「桶狭間の戦い」です。織田家と今川家の戦として一番よく知られている戦いですね。
しかし、織田家と今川家は「桶狭間の戦い」以前にも大きな戦いをしています。信長の父・信秀と義元の戦い「小豆坂の戦い」です。天文11年(1542年)と17年(1548年)の2度に渡って繰り広げられたこの戦では織田家は総崩れし大敗しています。
その後、信秀が亡くなり信長に世代交代した織田家は徐々に力を上げて行きました。そして「桶狭間の戦い」で見事、義元を討ち取り織田家と今川家の長い因縁の戦いに終止符が打たれたのです。

「桶狭間の戦い」の主戦場はどこなのか?名古屋市と豊明市が論争!

「桶狭間の戦い」の主戦場がどこなのか「ここ!」と明確に定められていません。実はこの主戦場の場所を巡って現在の愛知県名古屋市緑区と豊明市との間で長い論争が繰り広げられているのです。

豊岡市が主張する「桶狭間古戦場伝説地」

愛知県豊岡市には昭和12年に国指定史跡とされた「桶狭間古戦場伝説地」があります。そこには今川義元のお墓がある他、今川方の戦死者を弔う「戦人塚」、義元の馬を繋いだとされる「ねずの木」などがあります。

名古屋市緑区が主張する「桶狭間古戦場公園」

一方名古屋市緑区には「桶狭間古戦場公園」があります。こちらにも義元の墓碑があり、「ねずの木」もあります。名古屋市緑区には「桶狭間」とついた地名は9つあり、史跡、神社、公園なども名称の一部に「桶狭間」をつけた場所が多くあります。
名古屋市緑区の「桶狭間」という地名の発祥は室町時代からで「桶狭間の戦い」はその名称から名古屋市緑区と豊明市の間で行われた事は間違い無いようです。しかし義元がどこで首を取られたのか、その最期の場所についてはまだまだ文献不足で確証はありません。
名古屋市と豊明市、どちらも「我が市だ!」と譲らないために義元のお墓も「ねずの木」も2つある訳です。いつか決着のつく時が来るのでしょうか。でも、どちらが真実なのか自分なりに考えられるところが歴史の面白いところでもありますよね。

桶狭間の戦いとは?わかりやすく解説!

「桶狭間の戦い」が始まる頃、織田信長はまだ尾張一国のみを支配するだけの小さな存在に過ぎませんでした。一方、今川義元は駿河、近江、三河の三国を治める大大名。今川は更なる勢力拡大の為に尾張に攻め込みました。
今川軍と織田軍の力の差は歴然でした。兵の数も同盟国の数も比べるに値しないものでした。勝負の結果は目に見えて明らかで、戦開始の時点では義元が圧倒的に有利でした。義元にとって信長は駆け出しのひよっ子に過ぎなかったのでしょうね。
実際の戦況の初盤は予想通り今川軍が優勢でした。織田軍は次々に砦を落とされ、本拠地である清洲城に籠城するか否かの判断を迫られるまでになっていました。しかし信長は籠城を選択しませんでした。

今川家と織田家には先代からの因縁があります。今川義元が織田家をこのまま見過ごすはずがない、籠城で時間を稼いでも兵糧攻めに遭い滅びるだけだと思ったのかもしれませんね。
織田軍の本隊が今川討伐に向かっている間にもどんどん織田軍の砦は落とされ、重臣たちが討たれていました。そして13時頃、運命を分ける豪雨が降り始めたのです!この豪雨に乗じて信長は今川の本隊に奇襲をかけました。
丁度この時、今川義元は優勢な戦況に気を良くして休息していたところだったのです。そこへ突然豪雨が降ったかと思うと敵がなだれ込んできて今川軍はびっくりしたでしょうね!今川軍の体勢が立て直される間もなく義元は討ち取られてしまいました。

少人数の信長軍が圧勝!その驚きの人数差と信長の強運と戦略!

「桶狭間の戦い」は小さな国の大名が有力な大大名に打ち勝ったという下克上そのものです。どうして小さな国の大名だった織田信長が力の強い大大名の今川義元に勝つことができたのでしょうか?
人数では圧倒的に今川軍が有利です!今川軍が約2万5千に対して織田軍が約5千だったと言われています。約5倍の差があったって事ですね!大きな数すぎて想像つかないですね。もっと規模を縮小して考えてみましょう。
単純に考えると、織田軍は1人で5人を相手にしなければいけなくて、今川軍は5人で1人を相手すれば良いって事ですね。こう考えると自分が兵士の身になってみれば切羽詰まった感が全然違いますね。

勝利の鍵の1つは天候にあり!

これだけ兵力の差がありながら信長が勝利できた要因の一つ「天候」に恵まれたこと。奇襲を仕掛けたとされる時間は13時頃。つまり真昼間だったのです!夜中や明け方の奇襲はよく耳にしますが、昼間の奇襲というのは珍しいですね。
しかし明るいはずの昼間の視界は豪雨によって阻まれました。今川軍は視界の悪い中、忍び寄ってくる織田軍にいち早く気付くことができなかったのです。信長は天候までも味方につける「強運」に恵まれたのでした!

運だけじゃない!勝機は信長の戦略にあり!

初詣なう

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信長は後に天下統一のあと一歩という所まで行き着いた人物ですから、もちろん、勝利したのは運だけではありません!ここでは言い伝えられている「桶狭間の戦い」での信長の戦略をご紹介しましょう!

信長は当時今川軍についていた松平元康(後の徳川家康)が大高城に大量の兵量を送り込んでいるとの情報を掴み、義元が大高城に向かうと読んでそのルートを予測していました。

そこで信長はそのルート上で織田軍が最も有利となる場所に農民を装ったスパイを配置したのです!配置されたスパイは通りかかった義元の本隊に餅や酒を振舞いもてなしました。
戦況が優勢なことも手伝って、義元は気が緩んでいたのでしょう。まんまと信長の戦略にひっかかり、後で奇襲があるとも知らずにその場で休息をとることになったのです!これが信長の戦略「おもてなし作戦」です。

義元は愚将で信長は名将?義元と信長の人物像をまとめてみた

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今川義元は公家の出、ということも手伝ってかやや軟弱なイメージが付いているようです。確かにぽっちゃりしていて額に丸い点のような眉毛が付いている姿は刀を振り回している姿よりも蹴鞠を蹴ってるイメージの方が強いですよね。
実際はというと、前線に自らが指揮を執って戦うことはほとんどなかった様です。戦に関しては素人だったのかもしれませんね。しかし同盟工作には長けており、婚姻関係を結ぶなどして甲斐、相模、駿河との甲相駿三国同盟を成立させています。
そして、実は今川義元は政治面ではとても優秀であったと高く評価されているのです。例えば「今川仮名目録」の追加によって今川氏を国内を独自に統一する権力を有する戦国大名に発展させ、「寄親・寄子制度」を定めて親子関係を模した固い主従関係を築きました。
義元は内政によって自国を固め、同盟によって勢力を拡大して力をつけていった、とても有能なやり手の大名だった訳です。蹴鞠を蹴って優雅に遊んでいるイメージからは随分とかけ離れていますね。

一方の織田信長はどんな人物だったのでしょうか?信長は「比叡山の焼き討ち」で女子供も容赦無く焼き払い、残忍で神をも恐れぬ恐ろしい人物。というイメージもあるかと思います。ゲームでも創作漫画や小説でも度々狂気じみた人物として描かれることもありますよね。
確かに家臣の意見はほとんど聞かず、ワンマンで傲慢な一面があった様です。しかし一方では身体に障害を持っているために乞食となっていた男を見付けて哀れに思い支援してあげるなど、庶民に対しては優しい一面もあります。
また、女好きの夫・秀吉に頭を悩ませていた妻のねねに励ましの手紙を書き、秀吉を激しく叱咤したというエピソードもありますし、女性に優しいフェミニストな男性だったようですね!
「比叡山の焼き討ち」はそもそも僧侶でありながら酒に溺れ、女遊びするなど腐敗しきった仏道に対しての怒りが要因でした。まとめてみると信長は正義感の強い頑固な紳士!といったところでしょうか!

信長を語る上で外せない、桶狭間の戦いと長篠の戦いの舞台裏

信長の有名な戦いといえば外せないのは「桶狭間の戦い」の他に「長篠の戦い」があります。「長篠の戦い」は天正3年5月21日(1575年6月29日)織田・徳川連合軍対武田軍の戦いです。
この戦いが信長を語る上で欠かせないのはこの「長篠の戦い」での信長の戦略があまりにも奇抜で見事なものだった事が理由の1つです。一体どんな戦略だったのか、早速ご紹介します!
「桶狭間の戦い」でも昼間の奇襲という奇抜な戦略を「おもてなし作戦」で見事に成功させた信長ですが、「長篠の戦い」では「鉄砲三段撃ち」という戦法を用いて武田の強力な騎馬隊に対抗しました!

当時使われていたのは火縄銃。鉄砲につけられて火縄に火をつけ、それがジリジリと燃えて行き、ついに火薬に火がついて発砲されるという仕組みの銃です。一発発砲するのに約30秒必要でした。

そこで信長は鉄砲隊を三列に並べ、点火のタイミングをズラして連続で発砲出来る戦法を編み出したのです!この戦で準備された鉄砲の数は約3000丁と言われています。当時としては異例の数でした。

強運のついた戦略の達人!「信長」はやっぱり魅力的だった

現代でもドラマや映画、小説、漫画、ゲームソフトなど幅広い商材の主役として人気織田信長。運をも味方につけ、たった一国の大名から天下統一まで後一歩という所までのし上がりました。
しかし最後は残念ながらその強運が尽きてしまったのか、明智光秀の裏切りに遭い、本能寺の変で無念の最期を遂げましたね。でもどの史料にも遺体を確認した史実が残っておらず死因は謎のままです。
奇抜な発想で練られた戦略は相手軍をさぞ驚かせたであろう、と興味を引かれますね。そして残虐で冷淡で恐ろしい人物だったと言われる一方、慈悲深く人情味に溢れた人物だとも評されたその二面性のある人物像。に包まれた本能寺の変での最期。

信長はとてもミステリアスで、その存在自体にドラマがあります。私たちの想像力を駆り立て「実はこうだったんじゃないか?」「いやいや、こうだろう」と色んな夢を持たせてくれるんですね!
例えば小栗旬主演の「信長協奏曲」では信長が2人居ましたね!またゲームの戦国無双では苛烈で冷酷な「第六天魔王」の信長を設定に取り上げています!信長のミステリアスな部分がこう言った沢山の新しい物語を創り出しているんですね!

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