『桜田門外の変』に都市伝説あり!徳川幕府の終焉を引き寄せた?

『桜田門外の変』と聞いて、どんなことをイメージしますか?〝幕末〟、〝井伊直弼〟、〝安政の大獄〟といったワードが思い浮かぶかもしれません。時を遡って、桜田門外の変について、検証してみましょう!!

桜田門外の場所がどこだかわかりますか?

桜田門といえば!

「桜田門」は、現在の皇居(その前は江戸城)の内堀に造られた門の一つです。昭和36年には、国の重要文化財に指定されています。

皇居の周りを走る市民ランナーにとって、桜田門はなじみ深い場所です。彼らにとって、1周約5キロの皇居は、都心で確保できる貴重なランニングコースですが、コースの途中で桜田門をくぐることになるので、約30分のランニングでは見慣れた風景のひとつです。

また、桜田門」と言ったら「警視庁」の隠語にも使われます。なぜそう言われているのかというと、現在の警視庁(東京都千代田区霞が関2丁目1番1号)が、桜田門の目の前にあるからです。警視庁の最寄り駅は、地下鉄丸の内線,地下鉄千代田線,地下鉄日比谷線の「霞ヶ関」駅A2番出口または、地下鉄有楽町線「桜田門」駅4番出口です。

日本史のおさらい ~桜田門外の変とは?~

幕末の“ど真ん中”というタイミング!?

#井伊直弼 #ブロンズ像

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中学校の歴史の授業で、「幕末に、桜田門外で井伊直弼が殺された。井伊直弼は江戸幕府の大老で、安政の大獄をやった人と教わった記憶があるのではないでしょうか。そして、井伊直弼には、『悪役』のイメージがついているのではないかと思います。

確かに、幕末に江戸幕府の大老・井伊直弼は、桜田門外の変で暗殺されましたが、なぜ桜田門外の変が起こったのか、その当時の背景も含め、改めておさらいしてみたいと思います。

桜田門外の変は、1860年3月24日(安政7年3月3日)に起こりました。1853(嘉永6)年のぺリ-による黒船来航が『幕末の始まり』で、1867(慶応3)の大政奉還を『幕末の終わり』とすると、『幕末』といわれる時代は約14年続いたことになりますが、桜田門外の変はそんな幕末のちょうどど真ん中で起こりました。

大老・井伊直弼の抱えた2つの大問題!!

1858(安政5)年4月、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼には、①第13代将軍・徳川家定の次の将軍を誰にするか②日米修好通商条約の締結という2つの難問に直面していました。

次期将軍について、家定のいとこで当時12歳の紀州藩主・徳川慶福を推す会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤らを中心とした南紀派と、一橋慶喜を推す実父・水戸前藩主の徳川斉昭、福井藩主・松平春嶽らを中心とした一橋派が争い、慶福が次期将軍となりました。

日米修好通商条約について、直弼は「勅許(天皇の許可)を得るまで調印を延期するように」と指示しましたが、「直弼が強引に締結した」というイメージになっています。当時の幕府は、そもそも「鎖国」は朝廷と無関係に幕府が始めたのだから、鎖国をやめる意味の条約締結に勅許は必要ないとういものでした。

井伊直弼はなぜ殺されたのか!?

粛清という名の『安政の大獄』

一橋派の斉昭、春嶽が幕政から退けられたことで、攘夷派の公家たちが騒ぎ出し、一橋慶喜を買っていた孝明天皇も、幕府の対応に不満を漏らし、これが思わぬ事件に繋がります。

孝明天皇が水戸藩に勅書を渡したとされる、『戊午(ぼご)の密勅』事件です。天皇が幕府を通り越し直接大名に命令を下したという前代未聞の出来事に、幕府は大いに狼狽え、このことが『幕府に反対する者をことごとく粛清する』という安政の大獄の引き金になりました。

幕府は、勅書は水戸藩の陰謀とし、水戸藩前藩主・斉昭は永蟄居(終身謹慎)、藩主・慶篤(兄)と一橋慶喜(弟)は謹慎、老中を切腹、関係者を斬首、島流しに処しました。その他にも尊皇攘夷や一橋派の大名、公卿、活動家ら100人以上を粛清しましたが、最も有名なのは、松下村塾・吉田松陰の斬首でしょう。

容赦ない水戸藩への処分の末に

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幕末の尊王攘夷論は、水戸学が基本なので、水戸藩はゴリゴリの攘夷派です。攘夷=「夷人(外国人)を攘(はら)う」なので、鎖国支持ですから、開国には反対です。そこに、降って湧いたような『戊午(ぼご)の密勅』。
 
これを、幕政に反発する水戸藩を懲らしめる絶好のチャンスととらえ、安政の大獄に踏み切ったのでしょうか。井伊直弼の水戸藩への処分は、非常に厳しいものでした。そういうことをすると、反対分子がそれ以上のパワーをかけて攻撃してくることは世の常で、イソップ寓話の『北風と太陽』の太陽にはなれなかったのかなと思ってしまいますが、甘いでしょうか。

結局、井伊直弼は自分が指揮した安政の大獄が元で、水戸藩の浪士たちの手によって暗殺されてしまいます。

“桜田門外の変”- Xデ

1860年3月24日(安政7年3月3日)、この日は明け方から天気は季節外れの雪が降っていました。いつも通り朝8時に江戸城への登城(出勤)を告げる太鼓が鳴り、近くの江戸屋敷に住む幕閣たちが、駕籠(かご)に乗って出勤してきます。距離は短いですが、ミニ大名行列になるので、見物人もいました。

9時頃、井伊直弼一行が出発し、桜田門に差しかかった時、事件は起きました。まず、元水戸藩士・森五六郎が井伊への直訴を装い行列先頭に近づき、彦根藩士が取り押えようと近づいたところを、いきなり刀で斬りつけ、相手の額が割れて倒れました。驚いた護衛たちが前方に集まり、直弼の駕籠の守りが手薄になりました。

次に、元水戸藩士・黒沢忠三郎が直弼の駕籠に拳銃を打ち込んだのを合図に、見物客に紛れていた水戸浪士が一斉に列に近づき、次々と駕籠を串刺しにします。

有村次左衛門-井伊直弼の首を取った男

有村次左衛門は元薩摩藩士!?

18名の襲撃隊で唯一の元薩摩藩士・有村次左衛門が、直弼の駕籠の扉を開け、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、気合の雄叫びをあげながら首を撥ねました。有村は直弼の首を刀の先に突き立て、引き揚げようとしました。

襲撃隊に斬られて昏倒していた彦根藩士目付け役・小河原秀之丞が息を吹き返し、主君の首を取り返そうと有村の後頭部を斬り付けましたが、水戸浪士の加勢により、滅多刺しで瀕死に。有村もこの刀傷で深手を負いながらも、直弼の首を引きずってなお逃走し、和田倉門(東京駅中央口から皇居方向)前にあった近江三上藩主・若年寄の遠藤種等邸の前で自決しました。

周到に計画された『桜田門外の変』は、彦根藩江戸屋敷(現在の憲政記念館)と桜田門の間のほんの500mを移動する僅か数分の間に起こった井伊直弼暗殺事件でした。

薩摩藩の裏切り!?

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事の発端は、江戸で尊攘活動を行っている薩摩藩士(後に脱藩)の有村雄助、次左衛門の兄弟と、水戸藩士・高橋多一郎、金子孫二郎らとの出会いでした。彼らの交流が、「井伊直弼襲撃と薩摩藩兵上京」の計画」に発展します。

1860(安政7)年に入り、幕府から水戸藩への「密勅」返納の圧力が強まり、計画は具体化し、高橋は京で薩摩藩兵挙兵との調整・指揮を、金子は江戸で直弼襲撃計画の立案・指揮をそれぞれ担当しました。

桜田門外の変後、襲撃企画責任者の高橋が大坂まで薩摩軍を迎えに行くものの、約束どおり決起しない薩軍に絶望し自決。薩摩は水戸をそそのかしただけで、薩摩藩が京へ挙兵するという話を本気にした水戸藩士が井伊直弼襲撃を敢行したという結果になりました。金子は京で捕まり江戸で斬首。有村雄助も藩命で斬首となりました。

牛肉にまつわる桜田門外の変の都市伝説!?

藩主・井伊直弼の彦根藩は牛肉担当藩!?

井伊直弼が藩主を務める彦根藩は、陣太鼓の皮を将軍家に納める役についていました。今でもそうですが、皮を使う楽器は、当然ですが天然物は動物の皮です。例えば、三味線は猫や犬の皮、太鼓は牛や馬の皮が使われています。

そのため、陣太鼓の皮を作るためには、牛を育て屠殺(とさつ)して、皮を剥ぐことになります。彦根藩では残った牛肉を味噌漬けにして、毎年寒い時期に将軍家と御三家(尾張、紀州、水戸)に献上していました。今でいうと、『お歳暮』でしょうか。

その頃、「牛肉を食べると150日は穢(けが)れる」と言われていましたが、彦根藩は「赤斑牛の肉だけは食べても穢れない」と理屈をつけていました。当時の彦根藩の赤斑牛は「大津牛」として有名でしたが、どうやら松坂牛や近江牛の古い呼び名のようです。それなら、美味しいに違いないです!

~食べ物の恨みは恐ろしい~の巻

水戸藩主だった徳川斉昭は、「大津牛の味噌漬け」がお気に入りで、毎年彦根藩からのお届け物を楽しみにしていました。ところが、井伊直弼が藩主になってから、大津牛が届かなくなったのです。それで、水戸藩から彦根藩江戸藩邸にわざわざ使いを出して理由を尋ねたところ、「国元で牛の屠殺を禁止したので」と返事がありました。

諦めきれない斉昭は、「特別に水戸藩のために作って頂けないか?」と何度も彦根藩に申し入れましたが、拒否されました。そのため、桜田門外の変を牛肉の恨み」で水戸藩が彦根藩主を斬り殺したという噂が当時流れました。

誰が書いたかは判りませんが、「食べ物の/恨み恐ろし/雪の朝」、「大老が/牛の代わりに/首切られ」という落首(今でいう、落書きが、人の集まりやすいところに書かれていたという記録が残っています。

井伊直弼が徳川幕府の終焉を招いたのか?

幕末の終焉に向けてラストスパート!?

幕府の現役大老が暗殺された『桜田門外の変』で、幕府の権威は地に落ちたも同然でした。桜田門外の変後の1863年3月に薩摩藩の島津久光が兵を率いて京に向かい、4月に京に到着し朝廷との打ち合わせの後、6月に江戸に入り武力をちらつかせて、幕政改革を訴えます。

その結果、井伊直弼によって失脚させられた一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職にと表舞台に戻しました。元薩摩藩主・故島津斉彬の描いた布陣が整いましたが、既に幕府の力だけで国を治めることが難しい状況でした。

同(1863)年8月の薩英戦争、同年5月と翌年7月の下関戦争(長州VS英・仏・蘭・米)で薩長は惨敗し、欧米との力の差を見せつけられ、1865(慶応元)年には外圧に屈した形で、修好通商条約に天皇が勅許を出すに至りました。まさに、内憂外患です。

井伊直弼という男

いかがだったでしょうか。井伊直弼を漢字一文字で表現すると「真」ではないかと思います。「真」は、うそ・いつわり・かざりけがないことを意味します。直弼は、官僚として優秀な人だったのではないかと、拝察しています。

「安政の大獄」の徹底ぶりや彦根藩主としての「牛の屠殺禁止」などから、一旦やり始めたら途中でやめたりせず、納得するまでやり遂げる性格だったのではないかと思います。つまり、凝り性で融通の利かないタイプではないかと。直弼は茶の湯に熱心で、茶会の「一期一会」を愛していたようです。仕事が非常に難しい局面でも気分転換に、無心で抹茶を点てていたのでしょうか。

もしも、井伊直弼があの時外国と交流することを決断していなかったら、中国(当時の清)のアヘン戦争と同じように、日本は植民地になっていたかもしれません。

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