真田幸村の名言15選!日本一の兵は格言も日本一?

有名な武将、真田幸村ですが、名将は数多くの名言を残していた!

真田幸村の名言は今もなお語り継がれる金言ばかり!

真田幸村という武将をご存知でしょうか?元の名は真田信繁といい、江戸時代に書かれた書物に真田幸村という通称が乗っていてそれからその名前で有名になりました。

真田幸村安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した大名かつ武将です。有名な話としては豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢なストーリーがありますね。

江戸幕府や諸大名の史料を見てみるとこの話は「日本一の兵(つわもの)」を物語るストーリーとして記録されています。そんな日本一の兵は現代も生きる数多くの名言を残していました。今回はそんな真田幸村が残した名言の数々を見ていきましょう。

1.「関東勢百万も候へ、男は1人もいなく候」

これは「関東には数多の兵士がいるが、男と呼べるのは一人たりともいない」という意味の名言です。この言葉が発せられたのは慶長20年に勃発した誉田の戦いでのことになります。

伊達政宗率いる大軍に道を阻まれ撤退せざるを得なかった自軍の殿を務め、無事に味方の撤退を成し遂げたというエピソードが裏にはあります。

勇猛果敢幸村らしさ溢れる男らしい名言ですね。殿という失敗をすれば軍勢全てが危機にさらされると言う背水の陣の覚悟で臨まなければならない役割を買って出るところも武将らしいと言えるでしょう。

2.「定めなき浮世にて滄浪へば、一日先は知らざる事に候」

これは「今は乱世だから明日自分がどうなるかわからない」という意味合いになります。この言葉は真田幸村にとって最後の戦いとなる大坂夏の陣の直前に義兄である小山田茂誠(おやまだしげまさ)に送った手紙に記されていたものです。

この時、幸村が味方している豊臣方が戦況的に劣勢であったことからこの先の戦いは厳しい戦いになるということを冷静な判断のもとに下していたといえます。

武将として常に冷静さを保ち、戦況を見据えていた武将の鏡とも言える存在ですね。たとえ不利な戦況下に立たされても怯えたり逃げたりするのではなく、しっかりと先を見据えるとはさすがですね。

3.「恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか」

これは有名なので一度は聞いたことあるという方もいるのではないでしょうか。「受けた恩よりも、お金や身分などの欲に溺れる者は果たして人と呼べるのか」ということを言っています。

かの有名な「関ヶ原の戦い」真田家西軍につくかか東軍につくかの決断を迫られます。真田幸村は兼ねてから豊臣秀吉に可愛がられていてそのことについて感謝していたのですが、東軍は莫大な報酬で幸村を誘ってきます。そんな時に真田幸村が秀吉には返す恩があるとして誘いを断った時に発された名言です。

ここでも幸村は律儀に豊臣秀吉との恩義を貫き通し、自身の世話をしてくれた豊臣についていくあたりが真田幸村らしいですね。

4.「人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ、勇士の本意なるべし」

こちらも同じく関ヶ原の戦いを前にして発された言葉です。真田一族関ヶ原の戦い西軍東軍に分かれてしまうのですが、戦いを前にして一族は犬伏の密議というものを開いて家族の行く末を話し合います。

信幸が「もしも、西軍が敗北して二人の命が危機にさらされることになっても処刑されないように尽力しよう」と言った後に幸村がこの名言を放ちます。意味としては「命を捨てても目的を達成しなければならない時がやってきたなら潔く玉砕することこそが真の勇士というものだ」ということになります。

命をも惜しまずに覚悟を決めて戦いに挑んでいたからこそ先の戦いなどで背水の陣の覚悟で戦うことができたり、恐れなく敵陣に飛び込むことができたんでしょうね。幸村の並々ならぬ覚悟がうかがえる名言ですね。

5.「十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」

こちらも大坂夏の陣を目前にして生まれた名言です。徳川家康幸村の武勇を恐れ、10万石という条件のもと味方に寝返るように促しますが、幸村にきっぱりと断られます。

そこで家康はさらに条件を釣り上げて、信濃一国を渡すとまでいいますが最終的には幸村にこう断られてしまいます。意味としては、「10万石では寝返らないけれど、信濃一国であれば寝返るとでもお思いになったのですか」という意味になります。

たとえ一国というほどの大きな報酬をちらつかされても絶対に恩義を優先する幸村のかっこよさがうかがえる一言ですね。筆者ならこれだけの報酬を提示されたら飛びついてしまいそうです。。。

6.「いざとなれば損得を度外視できるその根性、世の中に、それを持つ人間ほど怖い相手はない」

こちらは大阪冬の陣の後に徳川方から再度寝返るように打診されていた時に生まれた言葉です。安土桃山時代を含めた戦国時代には武将同士での裏切り打算による行動が当然のように行われていたのですが、そんな時代でも幸村はを重んじていたそうです。

たとえ周りがどうであれ、自分自身を貫く。そんな自分をしっかりと持った幸村ならではの一言ですね。自分のがしっかりあるというのはかっこいいことですね。

7.「部下ほど難しい存在はない」

勇猛果敢で義を重んじる真田幸村が常日頃から特に気にかけていたのは部下との人間関係です。どんなに優れた主人や家臣であっても人間関係というものは非常に難しくて常に緊張しながら部下に接さなければならないと幸村は信じていました。

幸村知将と呼ばれただけあって部下を見る目はとても鋭いもので、常に細心の配慮をしていました。それだけ部下に気を使っていたからこそ幸村についてきてくれたのかもしれませんね。

男らしい一面とはまた違って真田幸村繊細な一面を鑑みることができる名言ですね。しかし、人間関係というのはいつの時代も難しいもので、それは今も変わりませんね。

8.「夢をつかんだやつより、夢を追っているやつの方が時に力を発揮する」

真田幸村はこの金言において、夢を叶えた人への賞賛を送りつつ、日々夢に向かって努力しなさいという風な戒めを説いています。

幸村は夢を叶えることも大事だけれど、叶えたらゴールではなくまた次の新しい目標を立て再びそれに向かって努力を続けるということが大切だと考えていたそうです。確かに継続的な努力がないと人は現状以上には成長できませんもんね。

確かに夢を叶えて現状に満足しているだけではそこから何も成長できませんからね。この金言は意を得ていると思います。ただ、夢をすでに叶えた人に対しても賞賛を送るあたりに幸村の優しさが伺えますね。

9.「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただ一つのみ」

大阪夏の陣真田幸村徳川家康の本陣へと突撃する際の一言です。この時の突撃はかなり激しいもので、家康2度も自害を覚悟したというように言われています。あの天下の家康を追い詰めるほどの才能が幸村にはあったんですね。

このことがきっかけで幸村が率いた真田隊「日本一の兵」と称されるようになりました。

いかにも最後の戦の前の名言って感じですね。最後の「狙うは徳川家康の首ただ一つのみ」というところも自身に満ち溢れていてとてもかっこいいですね。

10.「日本の半分をもらっても寝返るつもりはない」

これは5番のシチュエーションで発された言葉ですね。信濃一国と引き換えに部下にならないかと交渉されるも、「たとえ日本の半分をもらっても寝返るつもりはない」とかなり強めに突き放します。一国どころか、日本の半分をもらっても決して寝返らないという幸村の強い決心が伺えますね。

それだけ幸村秀吉への忠誠心が深かったということですね。一旦結んだ約束の責任をここまで押し通すとは尊敬してもしきれないですね。

11.「この幸村、ただ、命を長らえているだけの処を召し出され武士としての面目を立てて頂いた身。このご恩、土地や金子などに到底変えられない」

大阪冬の陣では最終的に徳川方大阪城の堀を埋めてしまい、かの有名な真田丸もなくなってしまいます。そして、徳川方は真田幸村の叔父、信尹を通じて10万石の条件で寝返りを打診します。

上にも書いたように幸村はこの申し出をきっぱりと断り、こその場でこの名言を放ったと言います。

幸村としては最後は武士らしい死に様が良かったのでしょうね。その場所を作ってくれた豊臣への恩義は非常に大きかったのだと思います。

12.「真田は日本一の兵 いにしへよりの物語にもこれなき由」

もともと最初は誰が真田幸村のことを日本一の兵と言い始めたのか?最初は薩摩藩初代藩主島津忠恒(しまづただつね)という人物だと言われています。その島津忠恒が書いた手紙に大阪の陣で大阪側に味方し大きな成果を納めた真田幸村のことが、日本一の兵と記されています。

この名言は「真田は日本一の武士であり、古くより伝わる物語の中でもそれに匹敵するものはいない」ということを言っています。

相変わらず自身に満ち溢れた幸村らしい言葉ですね。自分自身にここまで自身があったからこそのたくさんの成果なのかもしれませんね。

13.「必ず再び合戦になる。私たち親子は一両年中に討ち死にするでしょう」

こちらは4番と同じく関ヶ原の戦いの前の犬伏の密議での一言です。親子での関係を気にしながらもいざとなったら豊臣秀吉との恩義を取り、家族をも捨てるという覚悟が現れている一言です。もしもそういう状況になっても変わらず秀吉への恩義を貫くというような決心が見られます。

戦の中では家族や身内への情などは禁物とも言いますが、実際そう言ったシチュエーションになった際にすぐに行動に移せるのが幸村のすごいところですよね。普通の人ならば到底できないことをさらっとやってのけるあたり、さすがです。

14.「攻撃こそ最大の防御」



同時代で有名な武将、武田信玄も真田幸村と同様に勇猛果敢な戦いへの姿勢で有名ですが、幸村はこんな名言を残しています。攻撃の手を休めなければそれこそが最大の防御になり得るということを説いています。

幸村自身、大坂の陣関ヶ原の戦いで死をも恐れぬ戦い方をしていたのでこと一言には強い説得力がありますね。攻撃の手を休めなかったからこそ勝利を掴むことができたんですね。防御も必要ではあるがそれ以上に攻撃が重要だということですね。なかなか攻めた金言だという印象を受けました。

15.「人は、自分を篤く思ってくれている人と生死を共にしたいもの」



真田幸村は家族、家臣や地元の志願者を連れ九度山を出ている。このとき、無事に大阪城までたどり着くのはとてつもなく難しい状況だったと言われるが志願したものの中には幸村を止めるものはいなかったといいます。

その状況に対して幸村負けるであろう戦であっても自分についてきてくれる部下たちと最後は死にたいものだという意味を込めていった一言です。

これだけの魅力を兼ね備えた幸村ならではの部下からの慕われ方ですね。この時に幸村の下についていた者も同じくを覚悟していたことでしょう。それだけの家臣に囲まれて彼はさぞかし幸せな人生の最後を迎えたのではないでしょうか。

まとめ



今回真田幸村の15個の名言を紹介してきましたが、どれも私利私欲ではなくといったものを重んじていていかにも武士道を貫いているというような印象を受けましたね。

そんな幸村の男らしい、また武将らしい側面が人々の人気を引きつけて止まない理由なのではないでしょうか。彼の残した名言からは多くのことが学べます。生き方の参考にしてみてはいかがでしょうか。

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