真田幸村(信繁)の最後が意外?日本一の英雄の生き様に感動必至!

安土桃山時代から江戸時代初期、俗にいう「戦国時代」を熱く駆け抜けた武将・真田幸村(本名:真田信繫)。後世にまで語り継がれる彼の生涯とは?その鮮烈な赤の軌跡を辿っていこう。

真田幸村最後の戦場はどこ?

1567(または1560)年──真田幸村、誕生

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幸村の生年については、未だ明らかにされていない。没年齢を49歳としてそこから逆算で1567年とする説もあれば、没年齢を46歳として計算して1560年とする説もある。

戦国武将にとって年齢をサバ読まれる事が喜ばしいかどうかは分からないが、これだけ活躍したにも関わらず年齢がぼんやりとしか伝わっていないのは、少なからずショックなのではないだろうか?

1575年──長篠の戦い

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武田軍VS織田・徳川連合軍の戦い。異国の文化を好んだ信長が、海外産の鉄砲をたくさん用意してみたり、鉄砲隊の守備のため戦場に馬防柵を作ってみたりという、当時の日本では前例のないハジけた戦法で武田騎馬隊を圧倒した。

この戦いにより、幸村の父に当たる昌幸の兄らが戦死したため、三男である昌幸が真田の家督を継いだ

1582年──武田家の滅亡(3月)

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織田・徳川の連合軍により、武田家が滅亡する(甲州征伐)。武田信玄の急死や、その2年後に発生した長篠の戦いによる甚大な被害で武田領内動揺しており、また家督を継いだ武田勝頼ではその状況をまとめる事ができず、戦いの最中に有力な家臣たちが次々と離反降伏逃亡を図った。

その後、信長より「甲斐武田の有力者は滅ぼせ(^^)」と追討令が出され、次々と処断されていったものの、家康は「流石にやりすぎじゃね?(´・ω・`)」と武田の一部遺臣たちを匿っていたと言われている。

真田氏は、幸村の祖父にあたる幸隆の頃から武田家に帰属していたが、これをきっかけに織田へと下る

1582年──本能寺の変(6月)

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天下統一を目前にして、織田信長が家臣である明智光秀に裏切られ自害。説明も要らないほど有名な事件であるが、真相は解明されていない。ちなみに、「敵は本能寺にあり!」というセリフも有名だが、実際に明智光秀が発言した言葉ではないらしい。歴史に付き物な、ドラマチックな脚色だと思われる。

信長が死去した事により、旧・織田領の所有権を巡る争いが各地で勃発。武田領を巡っては、北条、上杉、徳川の三つ巴となった(天正壬午の乱)。その後、真田氏は上杉家に帰属し、自立

1585年──第一次上田合戦

真田軍VS徳川軍の戦い。昌幸の作らせた上田城に敵が攻め込むも、巧みな籠城戦法地の利を生かした戦術により撃退する。徳川方の戦死者が1300人を超えたのに対し、真田側の犠牲はわずか40人程度だったという。

圧倒的な兵力差にも臆する事無く、むしろ嘲笑うかのような見事な戦ぶりを披露した父・昌幸の背中を見て、幸村は何を思ったのだろうか。尊敬の念を強めるとともに、「自分もいつか父のように・・・!」と、熱い気持ちを宿らせたのかもしれない。

1600年──関ヶ原の戦い(6月)

豊臣秀吉死後、それまで盤石だった豊臣政権が分裂。発言権や影響力を強める徳川家康に対して、「あいつ調子乗ってね?」と反対勢力が結束し、石田三成を中心に西軍として挙兵する。

幸村昌幸は、これに西軍として参戦。上田にて徳川方と交戦する(第二次上田合戦)。ここでも昌幸の知略が光り、押し寄せる大軍を上田城で迎撃撃退して見せた。一方で幸村も、東軍として上田攻めに参陣していた信之との戦いを避け、なおかつ信之の東軍での立場を守るために城1つを明け渡すなどの機転を利かせた。戦況を読む力が育ってきていたのだろう。

1600年── 九度山に幽閉(9月)

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関ヶ原の戦い西軍の敗北によって幕を閉じ、西軍の将として参戦していた幸村昌幸らは紀伊国の九度山への流罪が言い渡された。本来ならば死罪であるが、信之や本田忠勝の取り成しで流罪に留まる。ちなみに「九度山」はあくまで地名であり、山があるわけではない。

1611年昌幸が死去。10年に渡る流人生活で心身が衰弱し、病死した。翌1612年に幸村は出家している。老後は田舎でのんびり・・・とはいかず、それぞれが武将として複雑な思いを抱えていたようだ。

1614年──大坂冬の陣

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徳川家康豊臣残党を滅ぼすために仕掛けたとされる戦い。「君臣豊楽」「国家安康」という、鐘に刻まれた銘文が問題になった方広寺鐘銘事件が発端である。ただのクレーマーに見えなくもない。

この時、幸村豊臣方として召集を受け九度山を脱出、大阪城へ入城する。同年12月、籠城策を採った豊臣方に対して徳川軍20万もの兵力で包囲し、ジリジリと接近していった。しかしその接近時に真田の出城にて迎撃され、返り討ちに遭っている(真田丸の戦い)。昌幸より受け継いだ真田の魂が、またも徳川軍を退けたのである。

1615年──大坂夏の陣

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戦国最後の大戦とされるこの戦において、幸村は毛利らとともに道明寺・誉田合戦に参陣。伊達政宗率いる伊達の先方隊の進軍を押し止めた

翌日、幸村は毛利、明石、大野らとともに最後の作戦を決行する。それは、左右から射撃戦と突撃を繰り返して徳川本陣を孤立させた上で、別動隊が急襲をかけるというものだった。作戦は予定通りには進まなかったものの、真田隊鬼気迫る勢いに圧倒され、家康2度も自害を覚悟したという。しかしそれでも家康の首を取る事は叶わず、この戦いにて真田幸村死去した。

天才の奇策!真田幸村の作戦が家康を追い詰める!

武田・真田の誇りを纏って

大坂夏の陣へ参列した真田勢は、全員が「赤備え」の出立ちだった。鎧、兜、旗にいたるまで、全身が赤1色で統一されていたのである。もちろんかなり目立つわけだが、幸村は伊達や酔狂で赤に身を包んだのではない。

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この赤備えは父・昌幸の代から真田氏の中で導入されており、さらに起源を遡れば、もともとは真田氏が仕えていた武田家で使用されていたものだった。戦国乱世の時代、赤といえば誰もが勇猛果敢な甲斐武田軍をイメージさせられた。それから、武田へ忠誠を誓った昌幸が真田でも取り入れたものと思われる。

戦国最後の大一番。すでに敗色の気が漂う豊臣陣営へ加勢するにあたり、幸村は、恩賞や名誉のためではなく、徳川家康に一矢報いて、真田の武名を天下に知らしめてやろう!と考えていたのではないかと言われている。

実際に、「寝返ってくんない?」という旨の誘いを数度に渡り徳川から持ち掛けられているが、「舐めてんのか」と悉く突っぱねていたようだ。武田・真田の象徴とも言える赤備えを身に纏い、討ち死にも覚悟の上で、天下人たる家康へと挑んだのである。

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ちなみに、関ヶ原の戦いで徳川方につき、徳川での立場を確立していた幸村の兄・信之は、のため夏の陣には参列していない。しかし、これだけ大きな戦であれば、その報せくらいは耳に入っていたのではないかと思う。

弟である幸村が、かつての自分も纏っていた赤備えの出立ちで徳川の大軍へと挑んだ事を知った信之は、果たして何を思ったのだろうか。兄として無茶な決死行を止めさせたいと思ったかもしれないし、父である昌幸の背中を重ねて涙を流したかもしれない。時代に分かたれた兄弟が今生で再会する事はなく、それぞれの心情を想像すると胸が痛むばかりである。

最後の作戦

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幸村最後の戦いの舞台は、天王寺口。大阪城の堀が埋め立てられ、城としての防衛機能を失っていたため、豊臣方は「何とかして直接本陣に殴り込もうぜ」と作戦を立てた。大軍を用いて本陣付近を分厚く固める徳川に対し、その守りを少しずつ誘き出して減らしてゆき、手薄になった本陣へ別動隊が奇襲をかける、というものである。この作戦において、幸村は毛利らとともに敵を減らす役回りだった。

先に結果を言ってしまえば、この作戦は1つも機能してはいない。左翼として構えていた毛利隊に向けて敵の先鋒である本多隊が射撃を開始し、毛利隊が作戦開始の合図より前に応戦してしまったのだ。そもそも数で劣っている上に先手を取られたとあっては、仕方のない判断だったとも言えるだろう。

幸村や毛利勝永は中止を呼び掛けたが、射撃戦は激しくなるばかり。これを受けた幸村は、もはや作戦の遂行が不可能である事を悟ると同時に、己の武運がない事を嘆き、死を覚悟したという

しかし、ここで諦めて立ち止まらないのが、幸村日本一と呼ばれる所以である。

紅蓮の猛攻

豊臣勢としての作戦は断念せざるを得なかったものの、幸村の中で息吹く真田の魂は消えなかった。なんと幸村は、真田勢のみで徳川本陣への突撃を敢行したのである。

先に戦いを開始していた毛利勢の活躍も目を見張るものがあり、敵の先鋒・本多隊を壊滅させている。その後、双方それぞれに到着した増援部隊をも巻き込み、戦場は混乱に陥った。当初の作戦通りとは言えないが、徳川本陣の戦力を大幅に削ってみせたのだ。こうした周りの戦況を正確に読み取りながら、幸村率いる真田勢は家康の元へと突き進んで行った。その際、敵方である浅野隊が寝返ったというデマを流し、敵の混乱に拍車をかけたとも言われている。

5000にも満たない戦力を率いて、幸村は敵陣を駆けた。15000の大軍を突破し、合わせて10部隊以上と交戦しながら、ついに敵本陣へ到達。3度もの突撃を繰り返した。家康についていた旗本や徳川の重臣たちを打ち払い、馬印(大将や武将の位置を報せ、味方の士気を高めるための旗)をなぎ倒して進んだ。本陣を捨てて後退する最中、家康は「殺されるくらいなら腹切っていい?」と自害を口走ったという。赤の鎧を身に纏い、敵の血に染まった槍を携えて迫り来る幸村の姿は、天下人にさえ凄まじい恐怖を植え付けたに違いない。

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家康の馬印が倒されるのは、これで2度目になる。1度目は、武田信玄と相対した三方ヶ原の戦いだった。上記した通り武田家は真田氏が仕えていた武門なので、家康は再び武田家ゆかりの武将に煮え湯を飲まされる形となったのだ。三方ヶ原で信玄に敗れ、上田合戦で昌幸に手玉に取られ、今回の大坂夏の陣では幸村に命を脅かされた。戦場を切り裂く赤の軍勢は、まさに家康にとっての天敵なのである。この勇猛果敢な戦ぶりをもって、幸村は「日本一の兵」と称されるに至ったのだった。

武田から真田へ、昌幸から幸村へ。赤備えとともに受け継がれた熱い魂が、幸村を日本一の武将へと押し上げた。そして今、こうして彼の人生を辿り、歴史の重さを知る事もまた、「受け継がれる」という事に他ならない。身が引き締まる思いである。

英雄の最期!真田幸村はどうやって討たれた?

「手柄にせよ」

幸村率いる真田勢は、徳川本陣へ3度の襲撃を仕掛け、家康を追い詰めた。しかしやはり、兵力の圧倒的な差は覆せるものではない。豊臣勢の疲弊に伴って体勢を立て直した徳川軍に押し返され、幸村たちは撤退を余儀なくされる。

傷付き疲弊した体を癒すため、幸村は戦場近くの安居神社を訪れた。徳川軍の誇る分厚い人の壁を強引に突破し、連戦を重ね、その上で敵本陣へ3度も突撃したのだから、精根尽き果てていても何らおかしくはないだろう。この後、家康へさらなる攻撃を仕掛けるべきか、他の部隊と合流して大阪城へ撤退するべきか。身を休めながら、じっくり冷静に思案を巡らせる時間も兼ねていたのかもしれない。



だがそこで、幸村の前にとある武将が現れた。越前松平家の鉄砲組に属する西尾宗次徳川方の人間である。宗次はこの時、幸村を敵方の武将だと認識したものの、それが自陣の大将・徳川家康を苦しめた「真田幸村」だとは認識できていなかったとされている。

一介の家臣に過ぎない宗次と、一騎当千の戦ぶりを見せつけた幸村。互いに万全の状態で相見えれば、その勝敗は火を見るよりも明らかだっただろう。実際、ここで幸村が迷わず愛槍に手をかけていれば、この合戦もまた違う進展を見せていたのかもしれない。しかし、そうはならなかった。

手柄にせよ

そう言って、幸村は己の首を差し出したというのだ。その言葉を最後に、真田幸村は享年49歳(または46歳)でこの世を去った。この言葉の真意はどこにあるのだろうか?

本当に心身ともに疲弊しきっており、もはや戦う力も残っていなかったのか。あるいは、武田が滅び、父親を亡くし、守るべき君主のいなくなったこの時代において、家康に一矢報いる事に成功し、思い遺す事もなくなっていたのか。憶測ならばいくらでもできるが、真相は分からない。近年の研究により新たな事実がいくつも浮かび上がってきているものの、まだまだ謎は多いのである。 

真田幸村は本当に死んだのか?

亡命説

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一般的に、真田幸村最期の地は安居神社だとされている。しかし、実は幸村は生き延びたのではないか、という説もある。

京には、こんな童歌があった。

「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田が連れて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」

要約すると、「真田幸村大阪で討たれたのではなく豊臣秀頼を連れて薩摩へ落ち延びたのではないか」というものである。本当だとしたら、どういう状況だった事になるのだろうか。

これもまだ伝承の域を出ていないが、大坂の陣の時点で幸村には複数の影武者が存在していたという。つまり安居神社で首を取られたのは本人ではなく影武者。実際の幸村はというと、大阪城の抜け穴を通って戦地を脱出し、秀頼を守りながら薩摩へと落ち延びていた・・・らしい。

解明できない謎も多い歴史について、「信憑性」という言葉を使うのも釈然としない節はあるのだが、この俗説はどうなのだろう。影武者がいたとして、どこから入れ替わっていたというのだろうか?

大坂夏の陣における幸村の英雄譚、道明寺の戦いや天王寺口の戦いでの逸話も、本人でなかった可能性があるのだろうか?それとも、家康を追い詰めた後、撤退のために入れ替わったのだろうか?そうだとしたら何故、安居神社で大人しく首を差し出したのだろう。死んだ事にしておいた方が、本人が動きやすかったから?しかし家康は、幸村の事を恐怖の対象として見ており、倒すよりも懐柔する方向で動いていた。ならば生きたまま悠々と大阪城へ撤退しても問題なかったのでは・・・う~む。

頭が痛くなってきたので、邪推もとい考察するのはここまでにしようと思う。学者の皆様、研究頑張ってください。

真田幸村の魅力?

真田幸村は熱血漢?

戦国ブームの火付け役と言われる「戦国BASARA」シリーズの影響も手伝って、世間では「真田幸村熱血!」というイメージが強い。確かに熱い魂をもって戦に臨んではいたが、性格に関してはどうなのだろう。普段から熱い男だったのだろうか?

兄・信之の言葉によると、幸村は柔和で辛抱強く物静かで怒るような事もない、といった人柄だったらしい。少なくとも普段から「もっと熱くなれよ!」と周りを先導するような気性の持ち主ではなかったようだ。

しかしながら、幸村が芯の通った真っ直ぐな人間だった事は、彼の遺した様々な逸話から読み取る事ができる。

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一つ例を挙げるなら、大坂冬の陣の終息後の逸話である。豊臣勢力の弱体化を図る家康は、真田丸の戦いにおいて見事な戦ぶりを披露した幸村を懐柔しようと使者を出した。最初に「信州で十万石を与える」と持ち掛けられたが、幸村はこれを拒否。2度目は「信濃一国を与える」という破格のお値段を提示し説得しようとしたが、幸村はやはり拒否した。たとえ日本国中の半分を寄越すと言われても寝返りはしない、と、微塵も興味を示さなかったという。

信長亡き後、自立した真田家は豊臣傘下に入った。その際、幸村は豊臣家から非常に目をかけてもらっており、豊臣性も下賜されている。その恩を忘れず、関ヶ原の戦いから大坂の陣にかけ、最後まで豊臣勢として戦い抜いたのだ。忠義を重んじる心根の熱い人物だったと言えるだろう。

日本一の兵、真田幸村という武将

真田幸村

真田昌幸の息子、ではなく、真田幸村としてその武名が天下に轟いたのは、大坂冬の陣における真田丸の戦いからだった。武将としてはかなり遅咲きだが、見るものを一瞬にして魅了する赤は、全ての人の心に焼き付き、彼を「日本一」だと言わしめた。群雄ひしめく戦国時代の中でも、幸村ほど鮮烈な戦果を見せつけて散った武将はいない。

父親から受け継いだ誇りを胸に、何者をも恐れず突き進み、己の信念を貫いた男の生き様は、これからも人々に愛されながら語り継がれてゆく事だろう。

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