淀君(茶々)の出生の秘密!謎が多いプリンセスの実体を暴く!!

日本の歴史上の女性で3本の指に入るほど、謎の多い女性「茶々」。その中でも、信じられないような出生の秘密があります。その謎について徹底的に調べてみました。

戦国一の悪女と名高い茶々

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戦国時代でもっとも名高い悪女と言ったら「茶々」でしょう。あの豊臣家を滅ぼした張本人ですから!秀吉亡きあと、正室である「寧々」を差し置いて豊臣家を牛耳り、あれこれと画策した女性です。

跡とりの秀頼はまだ6歳だったため、代わり茶々が実権を握ったのですね。徳川家康の秀頼上洛を拒んだことが、大阪の陣の決定的要因とされていますが、母としての感情が全てに勝った結果でしょうね。

豊臣側の士気を高めるためにと秀頼の出陣を意見されても、絶対に応じなかった。かなりヒステリーであったといわれる茶々が、息子のこととなるとさらに判断を鈍らせてしまったといえるでしょう。

浅井三代記に茶々の出生記録がない!

「浅井三代記」とは、1491~1573年の間の浅井亮政・久政・長政の三代の興亡についてかかれています。かなり細かいことまで書かれていて、例えば、正月にはこんな食べ物を食べ、こんな飲み物が飲まれたとまで記されています。

しかし、茶々が出生したという記録がないのです。茶々は織田信長の妹・お市が長政に嫁ぎ、最初に生まれた子供です。このような重大な出来事がなぜ「浅井三代記」に記されていないのかとても疑問です。

なにか記載できない理由でもあるのでしょうか?茶々出生には、なにか謎がありそうです。

茶々はお市の連れ子だった?

浅井長政公とお市の方の像(虎姫駅前) #浅井長政 #お市 #小谷城 #nagamasaazai #oichi

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浅井三姉妹は、長女・茶々、次女・初、三女・江です。普通なら長女に”初”と付けるものの、なぜか次女に”初”の名前が付いているのです。これはつまり、茶々は浅井長政の初めての子ではなく、お市の連れ子だったのではないか?というのです。

お市は、戦国一の美女といわれるほど美貌の持ち主として知られていました。にもかかわらず、浅井家に輿入れしたのが21歳の時。当時の大名家ではあまりない高齢での結婚なのです。

一度誰かと結婚し、離婚後に浅井家に嫁いだ可能性もあります。当時は政略結婚だったため、その時の都合で結婚したり、離婚したりしていましたが、お市が他の家へ嫁いだという記録が全くないので、その説の可能性は薄そうです。

茶々の生まれた時、浅井長政は信長をまだ知らない?



浅井長政が「尾張の守に会ってみたい。」といったことは有名な話です。信長が尾張の守にとなったのは1566年7月~1568年8月の間です。どんなに早くても長政と信長が会ったのは1566年ということになります。

しかし、茶々が生まれたのは1566年という説が有力です。つまり、お市が浅井家に輿入れする前に茶々は生まれていたということになります。それではいったい茶々の父親は誰なのでしょう

お市は信長の愛人!?禁断の関係に迫る…

清洲城。愛知県民のくせに生まれて初めて来ました。 #清洲城#野面積み#織田信長

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お市は、織田信長の妹ではなく従妹ではないかといわれています。信長の叔父に信康という人がいて、その人の娘が浅井へ嫁いだとされている系図が残されているのです。

そして、従妹であるお市は信長の愛人だったでは?という説があるのです。お市が浅井家に嫁いでからも、信長が浅井家を訪ねた時に、奇妙な行動をとっているのです。

信長とお市は奥の間でふたりきりで親密にしていた、というのです。まさか、そこで不貞行為を行っていたとは思えませんが、御女中さんなどは人目を忍んでいったい何をしているのだろうかと不思議に思ったことでしょう。

両端を縛ったあずき

1570年、朝倉義景と信長の戦がはじまります、その時にお市は信長に両端を絞った小豆を渡しているのです。つまり、夫・浅井長政が信長を裏切り、朝倉と手を結んだということを知らせたのです。

これによって信長は京にもどり、二人の武将と闘わずに難を逃れたといわれてます。このことによって、お市は浅井家に送られたスパイだったのではないか?という説まで上がっているのです。

秀吉が茶々に固執した理由は…

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お市が柴田勝家とともに自害したのち、浅井家の三姉妹は豊臣秀吉に預けらました。そして秀吉は、その三姉妹の中から「茶々」を側室にするのです。そして、その前に江、初を嫁がせます。

二人の妹(特に江)は、父・浅井長政を殺した秀吉のことを恨んでいました。実際に手を下したのが秀吉だといわれていますよね。その恨みの秀吉が姉の茶々に気があることを知って反対しました。

そこで、邪魔になった二人を早々に嫁がせてしまったみたいです。三姉妹の中で茶々が一番お気に入りだった理由は、元来お市に気があったがその想いは叶わず、もっとも似ている茶々を側室にしたのではないかといわれています。

秀吉は、茶々が信長の子と知っていた?

しかし、それだけではないのです。茶々にこだわった理由は、織田信長の血を引く者だということを知っていたからだというのです。自分が信長の正式な後継者と示したかったからこそ、茶々に固執したというわけです。

下級階層出身の秀吉が、コンプレックスがあったのではないかということは、容易に想像することができます。だからこそ、まわりに自分を認めさせるお墨付きのようなものがたくさん欲しかったとしても仕方のないことでしょう。

側室が何人もいて、大名の娘さんばかりでしたがそれでもまだ足りなかったのでしょうかね?

秀吉が残した手紙で謎を暴く!

秀吉が筆まめだったことは有名です。特に、家族に対しての手紙は自分で書くことが常立ったようです。その手紙の中に、淀君が産んだ豊臣秀頼(拾)にあてたものがあります。

その手紙には「おひろいさま」と書かれています。自分の息子に対して、”お”・”さま”といった敬意を示す敬称で書かれているのです。なぜこのように丁寧な言葉を使ったのでしょうか?

それは、信長の血を引く息子であったために大事にしていたということなのです。自分のことを認めてくれた信長のことを、とても尊敬していたということはあまりにも有名ですからね。

秀頼は秀吉の実子ではない?

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秀頼は秀吉の実子ではないという説があります。何人もの側室がいたにもかかわらず、淀君だけに子ができるのはどう考えてもおかしいのではないでしょうか?京極龍子は、秀吉の側室になる前に結婚した相手との間に、3人の子をもうけましたが、秀吉との間にはいません。

他にも秀吉との間には子がいなかったにもかかわらず、伊達正宗の側室になると二人の子を産んでいる女性もいます。そして、秀頼は身長が190cm近くもあったといわれています。

実際に秀吉自身も、寧々に宛てた手紙で「あれは自分の息子ではない」といっています。それを知りながら秀頼を大事にしたのは、信長の血を引いた男子であったからだと考えることができます。

茶々の”かご”の引き戸に秘密が…

群馬県に元景寺というお寺があります。このお寺は大坂の陣の時に、徳川についた秋川氏が炎の中、助けを求めてきた淀君を連れ帰ったとされています。そして、その時の淀君の”大打ちかけ”と”かごの引き戸”が残されているんです。

興味深いのは”かごの引き戸”です。二つの家紋が記されているのですが、一つは豊臣家の紋、そしてもう一つは五つ葉木瓜の紋なのです。これは織田家の紋として有名です。

淀君と織田家は、母お市の実家であることです。淀君の父親が浅井長政であるなら、ここには浅井家の家紋があるのが普通ではないでしょうか?どう考えても、淀君と織田家の関係は濃厚であると思えます。

徳勝寺に茶々の位牌がない?

浅井家の菩提樹は徳勝寺(滋賀県)です。ここに浅井長政・亮政・久政、浅井三代の宝きょう印塔があります。そして、ここに初・江の位牌はあるのですが、茶々の位牌はないのです。

浅井家の長女であるのなら、二人の妹と一緒に位牌が並べられているはずだと思います。淀君に限らず、この当時の女性は結婚したり離婚したり、更には側室になったりと自分の意思と関係なく、あちらこちらの男性に嫁がされています。

近代でも取り違えなどがあるのだから、このころの子孫に関しては何があってもおかしくないと思えますね。淀という女性も時代に大いに翻弄されたといえるでしょう。

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