村田兆治の豪腕が唸る!座右の銘「人生先発完投」は伊達じゃない!

“マサカリ投法”を駆使して、ひとり無人の野を行くが如くマウンドに立ち続けたロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)のエース・村田兆治。野球に賭けた、その凄絶な生き様の一端を、ここで紹介します。

村田兆治はストイックなまでの「野球人」

プロの大先輩の姿を見て“背筋を伸ばす!”

三冠王にして知将・野村克也(敬称略、以下同。南海-西武)や安打製造機・張本 勲、(東映-日拓-読売-ロッテ)、長距離砲・長池徳治(阪急)などなど個性的な強打者揃いのパ・リーグにあって、常に真っ向勝負しのぎを削ってきた投手が村田兆治(東京オリオンズ-ロッテ)です。

村田兆治は1949年11月27日に広島県豊田郡本郷町(現・三原市)で生まれ、育ちました。小学校5年生の時に父に連れられて行った広島市民球場でのナイターを観て感動して以来、「将来はプロ野球選手になる」事しか考えられなかったそうです。この原体験があったからこそ、後の大投手が誕生したと言ってもいいでしょう。

しかし、入団当初から村田が“練習の虫”だったわけではありませんでした。入団初年のある朝、夜遊び帰りの村田は、先輩投手の小山正明がロードワークに出かける姿を目にします。その日の練習の休憩時間に謝りに行ったところ「お前ほどの素質がありながら、練習しないのは寂しくないか?」と言われたそうです。

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周囲に聞いたところ小山は、ベテランになってもなお厳しい練習を自分に課していると知ります。それからの彼は、人が変わったかのように自分を磨いていきました。

マサカリ投法やフォークボールなど、これらは村田兆治の努力の賜物なのです。「勝つためには、どうしたらいいのか?」を常に考え、それを実践してきた大投手。それが、村田兆治なのです。

ちなみに、この小山投手は現役時代「フォークボールの小山」と言われるほどの、フォークボールの使い手として有名でした。しかし、その球種自体を村田兆治が教わったという記述はありません。筆者が考えるに、その時分は球種云々というよりも、コントロールを定める事とマサカリ投法を時分のモノとして使えるようにする事の方が優先課題だったと思われます。

村田兆治の“マサカリ投法”はプロ4年目から

高校時代から速球は有名だった!



高校球児たちが憧れる舞台“甲子園”春のセンバツと夏の選手権を合わせると、計5回のチャンスが在学中には与えられる事になります。当然、村田兆治もここを目指していたわけですが、一度の出場を果たす事なく高校生活を終えます。自身の福山電波工業高校(現・近畿大学附属広島高校)はもとより、広島商業、尾道商業、広陵高など強豪がひしめく激戦区だったのです。

この激戦区にあって「電波工に凄い投手がいるらしい」と、既に2年生時にウワサになっていたのが、後のプロ球界を代表するエース・村田でした。スピードガンのなかった時代の事なので、すべては推測に過ぎないのですが、この時すでに「152~153kmは出ていた」と逸話が残るほどだとか。

プロでの活躍を知る限り、マユツバばかりではないと思います。その証拠に、甲子園経験がないにもかかわらず東京オリオンズにドラフト1位指名されたのですから。やはり、プロのスカウトは素質を見抜いていたんですね。

プロの世界で生き抜くために身につけた独自のフォーム

広島地区では鳴らした村田兆治の右腕もプロ1年め(1968年)には振るわずに、3試合登板(投球回数は70イニング)し、勝ち星なしの1敗という成績に終わります。球団がロッテになった2年めからは6勝8敗、3年め5勝6敗と、徐々にではありますが、頭角をあらわしてきました。

その理由としては、先述した小山正明や成田文男、木樽正明、金田留広(アンダースロー)といった一級品の投手が、村田の手本となり投球術やインサイドワークを生で学べたのも大きかったと思います。レベルの高い投手陣の中で揉まれた事によって、プロの世界でも通用する投手に成長して行ったのではないでしょうか。筆者は小山の現役時代こそ見ていませんが、それ以降のロッテ投手陣はスタンドから見ています。今、思い浮かべると結構凄い顔ぶれですね。得をした気分です(笑)。

そして4年めの1971年、当時の監督・金田正一のアドバイスで大幅な投球フォームの改造に取り組みました。それが、“マサカリ投法”の原型です(筋力・体力の変化に合わせて改良を加えていった)。大きく振りかぶってから、上体と右腕を沈めて(写真)一気に真上から投げ降ろす一連の動作は迫力そのものです。「速い」というよりも「重い」という表現(実際にスピードもあった)がピッタリでした。

この年、村田は12勝8敗と2桁勝利を達成、以降はローテーションの一角を担いチームを牽引していきます。しかし、ここで満足しないところが、「プロ中のプロ」たる由縁です。

伝家の宝刀「フォークボール」の落差は?

「来る!」と解っていても打てない必殺球!

マサカリ投法と並ぶ村田兆治の大きな武器が、フォークボールです。長い指の特性を十分に生かし、なおかつ右手中指と人差し指を徹底的に鍛え(指と指の間にナイフで切れ目をつけた等々、逸話多数)て1976年頃から実戦で使用しだしたこの球は、140km近いスピードを有したうえに、ボールが30cm以上は“ストン”と落ちるわけです。空振りした打者がバランスを崩して片膝をついたり、ヘルメットを飛ばすシーンを何度も目撃しました。まさに身を削って完成させた必殺球と言っていいでしょう。

南海(現・ソフトバンク)のプレーイングマネージャーだった野村克也が「投球時のクセでフォークが来るのがわかっていながら、それでも打てない」とボヤいていたものでした。それ程凄いボールだったのです。筆者がバックネット裏から見た最初の「生フォークボール」は、加藤 初(太平洋、現・西武-読売)でした。野球少年の小学生の目には衝撃でしたが、村田の時はもっと驚いたのを覚えています。

以来、野茂英雄(近鉄-ドジャース-メッツ-タイガースほか)や伊良部秀輝(ロッテ-メッツ)、佐々木主浩(横浜-マリナーズ-横浜)とMLBクラスのフォークも肉眼で見てきましたが、速さ・重さ(見た目です)・落差ともに村田兆治以上のモノにはお目にかかっておりません。

暴投数は勲章のようなもの!?

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村田兆治の持ち玉としては、マサカリ投法から繰り出されるストレートを主体として、カーブ、スライダー、フォークボールが挙げられます。フォークボールの凄さは前述しましたが、加えて村田の登板時はノーサインだったというのがド肝を抜かれます。ロッテの正捕手で長年コンビを組んだ袴田英利の苦労たるや、当人しかはかり知る事はできないでしょう。

「村田さんは眼が悪かったのでサインを見間違える事もあったし、気に入らないサインだと無視して投げてくる」との事。逆に言うと、投球を自身で組み立てていたんですね。ノーサインで、あのフォークボールの落差に付いていくのは至難の業だったと思いますよ。暴投数148は日本記録ですが、これはフォークのキレの良さの証しでもあり、また勲章のようなものなのです。

肘の手術から「サンデー兆治」として復活!

当時はタブー視されていた手術



これまで幾多の修羅場をくぐって来ては、自分に厳しいトレーニングを課してきた村田兆治でしたが、1982年に右肘を故障してしまいます。あらゆる治療や座禅、滝行までしましたが、効果はあらわれませんでした。そこで、村田は1983年に渡米してフランク・ジョーブ博士執刀の、肘の手術(トミー・ジョン手術)を受ける事を決心します。

それまでは「肘にメスを入れたら回復はない」というのがスポーツ界での常識だったので、これは大英断と言っても過言ではないでしょう。それだけ、復活にかける“覚悟・意気込み”が、並々ならぬ程だったというのがうかがえましょう。そして手術は成功し、約2年のリハビリを終えて村田はマウンドに還って来ました。

復活した年の1985年には、開幕から11連勝を含む17勝5敗でカムバック賞を受賞しました。中6日のローテーションで毎週日曜日に登板するために「サンデー兆治」と呼ばれるようになったのは、この年からです。蛇足ながら術前と術後を川崎球場で見ていますが、球速は年齢的な影響があり衰えてはいましたが、フォークボールのキレは健在でした。観ていて、純粋に嬉しかったです。

村田兆治は引退後も球速130km台をキープ

現役引退後も欠かさないトレーニング



肘の手術から復活して6年、村田兆治は惜しまれつつ現役を引退しました。通算成績は217勝177敗33セーブ。最多勝利が1回(1981年、19勝8敗)、最多奪三振が4回(1976年、1977年、1979年、1981年)、そして通算暴投数148の記録(日本2位は石井一久(ヤクルト-ドジャース-メッツほか)の115。日米通算では137)も保持しています。

引退後にOB戦などを開くと、往年の名選手たちのファンサービス的な色あいが自然と強くなります。しかし、ここでも村田兆治は真剣勝負です。130km台のストレートと20cmはあろうかと思われる落差のフォークボールでバッタバッタと三振の山を築いていきます。マウンド上で手を抜かないのが、村田のシブいところですね。

引退してもなお毎日のようにスポーツジムに通い、腕立て伏せ500回、腹筋1000回、背筋1000回、ダンベルを右手中指と人差し指に挟んで(フォークボールの握り)の上下運動などを繰り返していると聞きました。だからこそ還暦を過ぎてもなお、ああいうピッチングが可能なのでしょう。ちなみに63歳で135km(ロッテ対日ハム始球式)、66歳で131km(ロッテ対楽天始球式)を出しています。

始球式で驚異的な数字を出すたびに、決まって記者が「これなら、リリーフで行けるんじゃないですか?」と聞きますが、村田も決まって「完投するのは、無理だから(止めとくよ)」と答えるそうです。自分にとってのピッチングのこだわりが「先発完投」なんですね。生涯604試合に登板して、先発完投を184試合成し遂げた男の言葉は球質と同じく“重い”ですね。

座右の銘「人生先発完投」は伊達じゃないという事です。痺れます!

いまも野球少年たちに“夢”を届ける村田兆治!

“プロの凄さ”を体で知ってもらうために…

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「広島市民球場で観たプロ野球のナイターに感動して」プロを目指した村田兆治。引退後は逆の立場となって、“プロの凄さ”や“プロ野球の素晴らしさ”を伝える活動に熱を入れています。テレビや雑誌などで小学生と対戦する企画があれば、村田は全力で勝負します。当初は「大人気ない」と揶揄されたりもしましたが、彼の野球に対する真摯な姿勢を目の当たりにして、近年では賛同する自治体も出てきました。

そのひとつが、2005年にプロ野球OB仲間で結成した「対馬まさかりドリームス」です。このチームを率いて全国の離島をまわり、少年たちに野球を教のが目的で、なかでも人気なのが他チームのスラッガーと村田との真剣勝負です。村田の投げる“生きた球”と相対する事で「プロの力を身をもって知ってもらう」このコーナーは、どこへ行っても人気です。2007年からは全国離島交流中学生野球大会を開いています。

現役は引退したものの「人生のマウンド」は、まだまだ完投というわけにはいかず、村田兆治のマサカリは錆びるヒマはありません。

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