『承久の乱』は前代未聞!仕掛け人に驚愕し結果にドン引きの日本史上初の戦

鎌倉時代にあった『承久の乱』のこと、憶えていますか?実は、“日本史上最大の事件”ともいわれる驚きの出来事なのです!?源頼朝以外にも語ることのある鎌倉時代について、少しお話しいたします!!

『承久の乱』のこと憶えてますか?

鎌倉時代についておさらい

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鎌倉時代の開始を「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」とゴロ合わせで憶えているでしょうが、現在の小中学校の教科書では、「鎌倉幕府が開かれたのは1185年。1192年は源頼朝が征夷大将軍になった年」と教えています。いい箱(1185)作ろう鎌倉幕府」が新定番なんです!!

平清盛が築いた『武士の世』は、ある意味で源頼朝に引き継がれたと思っています。そして、源頼朝が朝廷から「征夷大将軍」に任命された1192年から江戸幕府が終わる1867年までの675年間は、政権のトップは武士であり、幕府政権の長たる者は将軍でした。つまり、源頼朝が武家政権の創始者ということです。

鎌倉幕府は、1185年から1333年に後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すまでの148年間のことです。鎌倉幕府は、初代・将軍の源頼朝から3代目までは『』。4代目で初代・執権職の北条時政から最後の第16代執権・守時までが、『北条です。

源頼朝がまさかの急死!

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源頼朝によって、未整備だった武士の制度が制度化された側面があります。代表的な政策のひとつが御家人制度です。これは、鎌倉殿(将軍)とその家来である御家人との間の御恩と奉公」の約束です。御恩は、鎌倉殿が御家人に領地を与える、官職に推薦するなどです。奉公は、合戦で鎌倉殿のために戦う、鎌倉幕府や朝廷のために役務提供するなどです。

また、源頼朝の政権当時はまだ、京の朝廷と鎌倉武士(幕府)の二重政府のような状態ではありましたが、守護地頭制度を導入していたことは、承久の乱後に生きてきます。守護は、国の警備を担当する役所で、今で言う警察です。地頭は、全国の公領や荘園の管理をするためにおかれた役職です。

そんな、偉業を成し遂げた源頼朝は、征夷大将軍任命から僅か7年で急逝します。死因は落馬が原因ですが、謎です。

『承久の乱』勃発は何が原因?

源の血が途絶える!?

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源頼朝の急死により、長男の源頼家が第2代将軍を継ぎました。しかし、頼家は将軍職を1年足らずではく奪され、出家の挙句、母・政子の実家である北条氏に嫡男はじめ4人の男児が殺されています。頼家も23歳の若さで暗殺されました。

第3代将軍は、源頼家の弟であり、源頼朝の四男の源実朝が継ぎました。しかし、実朝が征夷大将軍になったのは、たった12歳の時でした。鶴岡八幡宮への参拝の時、兄・頼家の遺児で出家していた公暁に襲われ落命(享年28歳)します。

頼朝の妾の子はことごとく出家し、実朝に男児がいなかったことから、鎌倉幕府の創始者・源頼朝の血を引く後継ぎが途絶える事態となりました。そこで台頭してきたのが、源頼朝の妻・北条政子の実家の『北条』ですが、第2代将軍・源頼家、第3代将軍.源実朝の暗殺に、北条が絡んでいますから、恐ろしい話です。

後鳥羽上皇の焦りが災い?

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北条氏は源に代わり鎌倉幕府を執権という立場で率いましたが、北条政子の弟・北条時政の時に、承久の乱が勃発しました。仕掛けたのは、後鳥羽上皇でした。百人一首の歌人で新古今和歌集を纏める才に溢れ、公家には珍しく武芸にも秀でた人でしたが、ワンマンな野心家だったようです。

後鳥羽上皇は、歴代天皇が継承する「三種の神器」が揃わない中で天皇になったため、公家たちから冷ややかに見られ、コンプレックスがあったようです。異母兄で平氏の血を引く安徳天皇が壇ノ浦の戦いで、三種の神器と共に海に身を投げ絶命した際、宝剣を紛失したためでした。

政も鎌倉武士に取り上げられそうな時に、源の血が絶える」というニュースに、後鳥羽上皇は「チャンス到来」と起死回生を図ったのでしょうか。突如「北条時政追討」の宣旨を全国に発布しました。

【北条政子】の尼将軍パワー恐るべし!!

鎌倉武士たちの動揺・・・

後鳥羽上皇たちは、「朝敵になった鎌倉幕府に味方する武士は千人程度とそう多くないだろう。残りはみな朝廷に味方する。」と予想していました。鎌倉武士の結束の固さを指摘し、「万を超える軍勢が攻めてくることになる」と制止する側近もいましたが、逆に後鳥羽上皇から、退けられました。

組織運営上は勿論ですが、戦ならなおさら、反対意見も含め想定されるケースのメリット、デメリットを洗い出した上で情報分析し、結論を出した方がよいと思いますが、この時はどうだったんでしょうね。

急転直下、北条時政が『朝敵』とみなされたため、「このまま鎌倉幕府に従っていたら、自分たちも朝敵にされるのではないか」、「朝廷についた方がいいのではないか」と、鎌倉武士たちに動揺が走りました。「おまえどうする?」、「おれ朝廷側につこうかな」などと。

政子マジックで鎌倉武士団結!?

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そこで、北条政子が武士たちを前に、歴史に残る演説をぶちました。鎌倉幕府の初代将軍から6代までをまとめた歴史書である『吾妻鏡』の記録を、現代語にしてみます。

「みな、心を一つにして聞きなさい。私の最期の言葉です。源頼朝が朝敵(木曽義仲、平氏)を倒し関東に幕府を開いてから、官位や収入が昔よりも上がり、暮らしが楽になったのは、源頼朝のお陰ではないですか。その恩は山よりも高く、海よりも深いはずなのに、その恩を忘れ、朝廷を騙して私たちを滅ぼそうとしている者がいます。」

「名声の欲しい者は、早くは藤原秀康、三浦胤義(朝廷側についた有力武士)らを討ち取り、三代将軍の恩に報いて欲しい。もしも、この中に朝廷側につこうという者がいるのなら、私を殺してから京へ行きなさい。」と、北条政子が涙ながらに武士たちに訴えました。

まさかの朝廷敗北!!

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この訴えが、忘れかけていた武士たちの記憶を呼び戻しました。鎌倉幕府以前は、朝廷のために働いても、「ご苦労様」の一言で片づけられ、なんの恩賞もなく裸足で京都から帰ってきたことをもあった武士たちの待遇が改善されたのは「源頼朝のお陰」だったなと。

朝廷から仕掛けられた戦を受けて立とうと、執権・北条義時を筆頭に軍議が開かれ、北条泰時、時房率いる東海道、武田信光率いる東山道(中山道)、北条朝時率いる北陸道と三方から京へ攻め入ることを決めましたが、なんと北条政子の最終決裁で決まったようなのです!?

『吾妻鏡』によると、北条方は総勢19万騎の軍勢に膨れ上がり、朝廷を攻めました。その結果、わずか1ヶ月たらずで朝廷は敗北。後鳥羽上皇は隠岐島へ島流しに。また、後鳥羽上皇の皇子たちも島流しやお取り潰しとなりました。

六波羅探題の役割って?

六波羅探題の位置付け

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承久の乱(1221年)後、鎌倉幕府は京都の六波羅(現在の京都府東山区の一部)にこれまでの京都守護を改め、六波羅探題という役職者を置くことにしました。六波羅探題は、朝廷や公家の監視に加え、これまで鎌倉幕府が手つかずの西側エリアの行政・裁判・軍事にあたりました。

六波羅探題は執権に次ぐ重要な役職で、まず承久の乱で後鳥羽上皇を倒した北条泰時・時房の二人が六波羅の北と南に任命されました。その後、将来有望な若手が選ばれ、いわば“登竜門”の役職となり、六波羅探題から帰還すると幕府の重職に就く流れが作られました。

目に見える昇進は、武士もサラリーマンも一緒で、『やる気』が出るのではないでしょうか。社内のロールモデルをみて、「俺も!」と頑張れると思いますが、上のイスが詰まっていると、『やる気』なくなりますよね。

朝廷の所領は没収・・・

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承久の乱の結果、幕府は近畿地方の国々をしらみつぶしに調査するために役人を派遣。朝廷や朝廷側についた武士の領土をすべて没しました。その数は3,000箇所に上ったとも言われています。

没収した領土は、承久の乱で功績のあった御家人たちに与えられました。六波羅探題のもと、西側の各所領に関東武士が地頭として着任し、目を光らせました。これまですべての所領は朝廷のものだったのですが、所領を治める地頭が年貢の采配も直接行うことになりました。

つまり、朝廷は承久の乱をきっかけに、完全に権力も財力も失ったことになります。逆に、鎌倉幕府は武士たちに役職を与え、収入面での待遇の改善も行いました。

『武士の世』の運用開始

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源頼朝が『武士の世』の制度化を図り、承久の乱後その制度が西側エリアにまで広がったと言えるでしょう。つまり、鎌倉幕府を中心に、組織のテイを成し、『武士の世』の運用が始まりました。

『武士の世』は、当時の文化にも影響を与えています。武士好みの素朴で力強いものが特徴です。発見され作品が国宝に指定され、海外の美術館でも所蔵されている仏師・(生没年不詳ながら、承久の乱前の生まれらしい)、運慶(承久の乱後の1224年生まれ)の特徴は、それまでの仏像と違い、力強い作風です。

また、日本三大随筆の一つと言われる吉田兼好の『徒然草』は、ひらがな中心に書かれています。公家の漢文に対し、文字を読めない武士もいたため、ひらがなが中心の和文が多くなっていきます。公家からは「品がない」と思われていたかもしれませんね。

『承久の乱』がもたらしたもの

武士が政権を執る『革命』!?

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現代の日本という国の国民性や政治風土から考えると、革命」とう言葉は馴染まないのかもしれませんが、承久の乱は、きっかけはともかく、「武士が朝廷と戦って勝利した最初の出来事」にあたりますから、これは革命だったのではないでしょうか。

後鳥羽上皇から朝敵の汚名をかけられても、武士たちがひるむことなく一致団結できたのは、当時の武士たちの父親世代が源頼朝らと共に築いてきた「武士の世を守り抜く」という想いだったのでしょうか。

時の政権である「朝廷」に振り回されることなく、真正面から挑み、「独立した武士の世」を勝ち取り、江戸時代まで続く武士の政権を実現したのが、源頼朝というそもそも高貴な公家の血を引く源氏ではなく、伊豆の一介の豪族にすぎなかった北条氏であったということにも、意味があります。やはり、「革命」!?

北条政子という女性

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いかがだったでしょうか。承久の乱を勝利に導いた蔭の将軍は、尼将軍こと北条政子その人ではないでしょうか。北条政子を漢字一文字で表現すると「」ではないかと思います。「治」は、乱れたものに手を加え、秩序をもたらすことを意味します。

北条政子を語る時、その嫉妬深さが必ず出てきます。当時の日本では、妾や外に子がいることは、高貴な身分や財力の象徴で、世継ぎを絶やさないための手段でもありました。それなのに、政子は頼朝の妾の家を焼き払い、別れさせたこともありました。

頼朝の妾達は怖がって、生まれた男児を出家させ、政子の子である頼家、実朝は変死したため、嫁き先の源氏が絶え、代わりに実家の北条氏が栄え、皮肉なことに鎌倉時代の次の室町幕府まで北条の血脈は受け継がれました。結局、北条政子はアゲマンだったのでしょうか?

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