徳川慶喜に学ぶ!人生楽しく過ごすための貯金額

徳川家康から数えて第15代目の征夷大将軍:徳川慶喜。江戸幕府最後の将軍となった余生は、幸せな人生だったのか、それとも悲惨な最後だったのか?征夷大将軍引退後の人生を追う!

徳川家最後の将軍、イケメン慶喜誕生!

御三家の存在



徳川家には、将軍の地位を受け継ぐ資格を持っていた一族がいました。まず徳川将軍家、そして補佐する役割を備えた「御三家」が存在します。尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家の三家です。

この御三家の役割として主にあげられるのは、将軍家の補佐。日本をまとめようとする江戸幕府、大切な機関です。その大きな役目を補佐するには、同じ一族で運営したほうが安心。といったところでしょう。

そして、この御三家にはもう一つ大切な存在意味があります。「将軍家が途絶えた時には、跡継ぎを御三家から養子を出す。」というもの。この時代には、子孫を残すという事は大切な仕事の一つでした。

そして実際に、将軍家が跡継ぎを残せない事態も起こっています。この制度を確立していた徳川家康の危機管理は、バッチリ機能していたんですね

七郎麻呂と呼ばれていたお坊ちゃん

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1837年9月、江戸で誕生した慶喜小さい頃は、松平七郎麻呂と呼ばれていました父は水戸藩第9代藩主:徳川斉昭母は正室:吉子女王。父の「小さい頃から、江戸の華美な風俗になれるのは良くない!」という教育方針の元、生後7ヶ月で江戸から、水戸へ移ります。

父:斉昭は「烈公」と言われ、とても荒々しい気性で女好きでした。礼儀作法に厳しく、寝相が悪かった慶喜の両サイドに、剃刀を立てて寝かせていたといいます。こんなことをされては、熟睡できませんよね。

黒船来航時には、「偉人と国交を結ぶなんてとんでもないことだ!焼き払え!」と猛烈に反対し、開国を進める井伊直弼と対立します。後には、跡継ぎ問題でも直弼と対立しています。よっぽど馬が合わなかったのでしょう。

パパ斉昭は精力強すぎ?!女好きの家系

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斉昭は、生粋の女好きとしても有名でした。兄嫁の女中で、上臈御年寄という役職の女性に手を付けてしまいます。上臈御年寄は生涯“お清”を守る、聖女で無くてはいけません。そんな女性に手を出すなんて、怖いものなしですね。

大奥ではセクハラ発言も多く、女性蔑視的な扱いもしていたようです。毎年のように、どこかで子供が生まれていて、計37人の子供をもうけています。側室とイチャイチャしながらも、奥さんとの仲も円満でした。

大奥での評判は悪いけれども、奥さんや側室とは仲良くしている。特別な人には優しかったのでしょうか?ツンデレホストのような人物だったのでしょうか?それともテクニックか…?ちょっと気になります。

子供の鏡!出来過ぎた幼少時代

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そんな斉昭を父に持った慶喜は、どんな人生を送ったのでしょうか?慶喜は小さい頃から、秀才で聡明と言われていました。武芸や学問に勤しみ、特に手裏剣の腕は達人の域に達したといいます。

10歳の頃には幕府の命令で、一橋家を継ぐことになりました。ここで名前を、七郎麻呂から慶喜と改めます。当時の将軍は、第12代徳川家慶。家慶は、慶喜のことを大変気に入っており、“慶”の字は家慶から与えられたものでした。

一橋家を継いで6年。可愛がってくれた家慶が死去します。第13代を継いだのは、病弱だった家定。ここで「第14代将軍跡継ぎ問題」が勃発します。まだ家定が生きている時に、死後のことを話題にされるのは、複雑な気持ちだったでしょう。今の天皇家も同じ気持ちなのでしょうか?

南紀派VS一橋派

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さあ、第14代将軍跡継ぎ問題会議開始です!次期候補として名が挙がっているのは、紀伊徳川家から徳川慶福さん。病弱な身体ながら、良い将軍であろうとしていた姿は、家臣の心を打ったといいます。この徳川慶福さんを推すのは、井伊直弼を始めとする南紀派

一方、一橋家から一橋慶喜さんが候補に挙がっています。こちらには慶喜の父である斉昭や、島津斉彬などの一橋派が付いています。皆さん強者で面倒くさい人ばかりですね(笑)

結果的には、ご存知の通り南紀派選出の徳川慶福さんが第14代に決定。この際に慶福という名を家茂に改めたそうです。

徳川慶福の逸話

ある日慶福は、戸川安清という書道の達人から、習字の授業を受けていました。慶福は、授業中であるにもかかわらず、墨をするための水で遊び始めます。そして「あとは明日にしよう」と言って部屋を出てしまいました

そばにいた側近たちは「慶福様らしくない。どうしたんだ?」と不思議がっていると、戸川先生が泣いています。側近たちは「慶福さまの振舞いが情けなくて泣いているのだろう。」と思っていましたが、戸川先生から真実を告げられます。

戸川先生というのは70歳を超える老齢。授業中、年のせいで“お漏らし”をしてしまった。授業中に粗相をしたとなると、厳罰は免れないだろう。「どうしよう…。」と思っていたところ、慶福さまがわざと水をかけて、お漏らしを隠し「明日にしよう」と言ったことで、明日も出仕することを促してくれた。と、戸川先生は感謝して泣いていたのです。慶福は、心優しく臨機応変に立ち振る舞える切れ者でした

将軍就任後怒涛の大政奉還!

1866年。第14代徳川家茂の死後、将軍の座に着いたのは徳川慶喜でした。慶喜本人は、「大変そうだから、将軍職には付きたくないな。」と父:斉昭に手紙を送っています。数々の将軍の死を見てきた慶喜。こう思ってもしょうがありませんよね。

そして翌年1867年に大政奉還。この間には、ものすごいドタバタ劇がありました。長州征伐横須賀製鉄所の設立、軍制改革など混乱の中江戸幕府を運営してきました。その混乱を諸外国は狙ってきました。

イギリスやフランスの支配下に入ることを恐れた慶喜は、「日本国内で、争いをしている場合ではない!」と、大政奉還を行い、新政府対幕府の争いを避けました。結局、争い自体は収まらず戊辰戦争が起こってしまったのは、誤算だったでしょう。

多彩な趣味に生きる男、徳川慶喜!その費用は?

一番時間をかけた写真撮影

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慶喜は、たくさんの趣味の中でも写真撮影には、のめりこんでいたようです。出不精だったにもかかわらず、被写体を探す時には、あちこち足を運んでいました。1893年頃には徳田幸吉から撮影の指導を受け、朝日新聞社から写真集が出版されています。

写真の腕前もどんどん上達し、セミプロと評価している写真家もいるようです。被写体にはこだわりが無いのか、人物・風景などいろいろなものを撮影していますね。江戸時代末期に活躍していたのは、ほとんどダゲレオタイプというカメラが主流です。このカメラは銅板に直接感光する方式なので、まさに一球入魂という焼き増しができない写真が出来上がります。

そして、湿式写真方式へと進化していきます。ダゲレオ式の露出時間が約2分、この間は瞬きも許されません。湿式では約20秒と短くなり、この方式で撮影する写真館が増えていきました。

カメラマンの血は生き続ける

当時は「魂が抜き取られる!」といった都市伝説なども噂され、写真は一般庶民には、なじみがなかったようです。さらに、1回の撮影料は現在の価値で約6~8万円。当時、坂本龍馬は上野写真館で5回も撮影をした記録が残っているので、撮影代だけで約30~40万円。焼き増しは1枚約1万円!

高値を払って、新しいもの好きをアピールしていたんですね(笑) 慶喜もこれに負けじと、自分が被写体になったり、カメラマンになったりと写真撮影を楽しんでいたようです。

現在活躍中のカメラマン徳川慶朝さんは、徳川慶喜のひ孫だそうです。徳川家伝来の遺跡なども撮影しているそうですよ。血は争えませんね。

サイクリングや狩猟、油絵だってお手の物!

趣味の一つに、自転車があげられます。大政奉還後、静岡に移り住んだ慶喜は「運動のために洋服を着用して、自転車を乗り回す」と静岡大務新聞に取り上げられています。その頃の自転車はとても効果で、1台300円。しかも息子二人の分も購入したので、3台で900円の大金を支払いました。1台120万円として360万円。高価な趣味ですね

油絵も好きで、慶喜が描いた日本の風景画が、静岡市の久能山東照宮に保存されています。狩猟をする時には、護衛に清水の次郎長一家が付いていたそうです。豪華な一団ですね。静岡では「ケイキ様」と呼ばれて、親しまれていたそうですよ。

今も残る、徳川埋蔵金の謎

多彩な趣味に生きた慶喜ですが、どこから資金を調達していたのでしょうか?公の経済状態では、徳川宗家から「御定金」として定期的に送金があったようです。1897年には、手形で「1,300円送金」と、記録が残っています。

そして、華士族の廃止の際に交付された金禄公債も手にしていました。これだけでも、お金には困らなかったようですね。潤沢な資産、可愛い子供や側室、趣味に費やせる時間。贅沢な余生を過ごしたことでしょう。

ですが、大政奉還時にちょっと気になる出来事が起こっていました。今や「徳川埋蔵金」の名前で有名になった、幕府の御用金紛失事件です。

推定200兆円!

1868年4月、江戸城が無血開城されました。その頃の明治政府は、幕府に残されている潤沢な御用金を、政府資金にしようと期待しています。いざ足を踏み入れ、金蔵を探索してみると中身は空っぽです。ここから政府の「埋蔵金探し」が始まりました。

当時の勘定奉行:小栗さん「知りませんよ。僕が奉行職を辞任した後、使っちゃったんじゃないですか?」と、証言します。当然、政府はこの言葉を信じません。

推定200兆円にも上る金額、使い切れる時間があったとも考えられませんよね。幕府再興のため、井伊直弼による命令の元、小栗が隠した。小栗の生まれ故郷である、群馬県赤城に埋まっている。と言われてきました。

都市伝説化した埋蔵金

日光東照宮の眠り猫‼

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この説に、巷の山師たちが飛びつきます。あっという間に、赤城山のあちこちに穴が開きました。それでも埋蔵金は見つかりません。そのうちいろいろな都市伝説が生まれてきました。

「かごめかごめ」に隠された暗号。日光東照宮のそばで、家康と一緒に眠っている。すでに見つかって、皇居の中で保管されている。など、様々な説があります。実際はどうでしょう。埋蔵金は本当にあるのでしょうか?

江戸幕府創立以来、改革が行われていて、後期から末期には慢性的な財政難に陥っていました。軍艦の造船や武器の補強、造船所の建設。加えて莫大にかかる人件費。慶喜の金使いの粗さを見ても、200兆円の資金が眠っているとは思えません。

徳川埋蔵金=宝探しの冒険。男のロマンとして、都市伝説化しているだけではないでしょうか?

貯金?なにそれ、おいしいの?

出典:https://pro.foto.ne.jp

では実際にどのくらいの資産があったのでしょうか?定期的に宗家から“仕送り”があったとはいえ、相当な散財ぶりです。埋蔵金を懐に隠したとも思えません。財政的には、厳しかったのではないでしょうか。

「貯金などできる状態ではなかった」が、正解のようです。引退生活を送ろう!と思ったときには、潤沢な資産がありました。東京と静岡に家を持ち、悠々自適な生活を楽しんでいますからね。しかし、その財産も新明治政府に財産まるっと取られてしまいます。将軍在任時の資産は将軍職解任時取られ、明治になってからは東京の屋敷の税金が払えなくなり手放しています。

慶喜は、お金に関して細かい父の姿を見ていました。役職についていたころは、襟を正し職務に尽くしていましたが、将軍職で無くなったとたんに“タガ”が外れてしまったのでしょう。皆さんも、お菓子やコミックを“大人買い”した経験はありませんか?

「貯金」という考えはなく、お金があればあるだけ使ってしまっていました。これが、慶喜の「人生楽しく過ごすための秘訣だったのかもしれません。

妻や子孫、その後の余生は?

1855年、一条美香子と結婚。1858年には女児を出産しますが、その子はすぐに亡くなってしまいます。慶喜の仕事の関係で、長い別居生活を送ることになりました。次に生活を共にするのは、なんと10年後!

自分で産んだ子供を亡くし、夫は仕事で不在。寂しい生活を送っていたところ、ようやく夫婦で暮らせる!と嬉しく思っていたところ、夫は側室との間に子供を作っていました。その後は、それなりに夫婦仲は修復したようですが、悲しい人生でしたね。

2人の側室を持った慶喜は、10男11女という子たくさんでした。父:斉昭には負けますが、計21人というのはすごい数です。その子供たちは、すべて妻:美香子の子として育てられたようです。

側室との関係は?泥沼?良好?

徳川慶喜公のお墓

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一色須賀は、慶喜の妻:美香子の女中になった後、側室になっています。新村信は、中根幸と共に維新後も慶喜につかえました。21人の子供は、信と幸の2人の側室から生まれています。

そして、江戸の町火消:新門辰五郎の娘、お芳も妾として慶喜に仕えていたことがあったそうです。新門辰五郎と言えば、江戸時時代を代表する侠客です。その娘を妾に持つなんて、慶喜も思い切ったことをしますよね。

側室同士の仲はどうだったのでしょうか?奇妙な話が転がっていたので、紹介しましょう。維新後も仕えた側室、信と幸は大変仲が良かったようです。夜の勤めも日替わりで交代し、就寝するときには3人で川の字になって寝ていたようです。ちょっと、慶喜の危ない性癖が見えたような…。

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