【島原の乱】 原城を最恐の心霊スポットに変えた事件とは!?

日本各地に心霊スポットと言われる場所は数多くありますが、これだけ多くの恐怖や恨みが残っている場所はそうないでしょう。37,000人ともいわれている死者が出た、島原の乱とはいったいどんな事件なのでしょうか?

【島原の乱】場所は九州、キリシタンが暮らす土地

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九州の西北にある長崎県の島原半島。そして、ここから早崎海峡をはさんで熊本県にある天草諸島が、島原の乱に関わる人たちの暮らす場所でした。地図で見ると、本当に一部の地域ですよね。今は島原の乱と言われていますが、島原・天草一揆ともいわれています。

元々この土地を治めていたのは、キリシタン大名として有名な小西行長有馬晴信。領民も大名にならい、次々とキリスト教へ改宗していきました。ここでの生活は、農業・漁業・商業・手工業など多岐にわたる仕事がありましたが、自然を相手にする仕事が主なために収入は一定しません。決まった年貢が収められなかった時もありました。

新しい大名はわからずや?



そんな時には、無理に取り立てを行う大名ではありません。この土地の人々は「このご時世にしては、救われている」と肌で感じていたでしょう。豊かな生活ではありませんでしたが、強い信仰心と心強い大名に守られて暮らしていました。

穏やかな生活をしていたある日、東の地で「関ヶ原の戦い」が開戦されます。我らの親方様は、石田三成方に付きました。結果はご存知の通り徳川家康軍の勝利。親しんだ親方様に代わり、新しい大名がやってきました。島原には松倉勝家天草には寺沢堅高。この両大名が庶民の逆鱗に触れる引き金を引きます

島原の乱とは日本史上最大の一揆

今までキリシタン大名の元、苦しいが心穏やかな生活を送ってきた人々。新しい政策を聞いたときにはビックリしてしまします。キリスト教の禁止!年貢も今まで以上に収めろ!!と言ってきました。

「なぜ今までの生活をしてはいけないんだ?」前の親方様は、考慮してくれたのに!と、反感を持ちます。皆さんも、先生が変わったり上司が変わったりしたときに、同じような気持ちになったことはありませんか?人は慣れてしまうと、そこから脱却することが難しくなりますよね。

島原や天草の人々も同じ気持ちだったことでしょう。心の支えである神を取り上げられ、生活を見守ってくれた親方様もいません。今後のことを考えると、絶望の文字しか浮かびませんでした。

「もう我慢できねえ!」

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絶望の中でも、人々は生きていかなければいけません。「お腹が空いた」と泣く子供をなだめ、過酷な取り立てに耐えてきました。それでも大名からの請求は止まりません。年貢を納めきれない者には拷問処刑を行いました

キリスト教に関しても厳しい弾圧を行います。人々は、疲れ果てていました。でも、心中では不満や怒りで満たされています。とうとう一人の農民が「もう我慢できねえ!」と言い出します。

一人が立ち上がると、人々は次々に立ち上がります。「オラがしっかりせねば!」と七宝ちゃんのセリフを言い出すものもいます。これを聞きつけたのが、小西行長の元家臣:益田好次でした。

メンタリスト:ジェロニモ誕生!

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天草では、ある預言が信じられてきました。キリスト教を布教していた宣教師:ママコスという人が言った言葉です。「今から26年後に人々は、生活の危機に陥る。その時16歳になる天童が現れ、キリスト教を信仰している人々を救うだろう。」

この言葉を思い出した益田好次は、「うちの息子は、ちょうど16歳になるな。」とある作戦を思いつきます。この益田好次・四郎親子もキリシタンでした。キリスト教の洗礼を受けると洗礼名と言って、現世の名前とは別に神から名前を与えられます。四郎の洗礼名は“ジェロニモ”強そうな名前ですね。

この日から、好次の息子:益田四郎はメンタリストの道を歩むことになります。

神輿にのせられた四郎の奇跡

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四郎は小さい時から、成績優秀・眉目秀麗と言われてきました。ここに目を付けた父:好次は「うちの息子は、ママコスが預言した救世主だ!」と、触れ回ります。ここで、四郎について言われている奇跡を紹介しましょう。

・空を飛んでいる鳩を呼び寄せ、四郎の手の中で卵を産ませた。その卵の中には神の印が入っていた。

・海の上を歩いて渡ることができた。

・盲目の少女の目を触ると、視力が戻った。…など。の話があります。どこかで同じような話を聞いたことがありませんか?そう!聖書に出てくる「キリストの奇跡です。

この話を好次は利用したのではないでしょうか?そして、好次の陰に、小西行長の元家臣たちがいたことも忘れてはいけません。四郎を神輿にのせるため、噂を広めることに協力していました

一揆軍の出撃!!

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四郎のカリスマ性にひかれてきた群衆たちは、一致団結して立ち上がろうと決意します。まず手始めに、代官所にいた林兵左衛門を殺害しました。ここから島原の乱は始まります

島原藩は一揆軍を制圧しようと戦ったが、不満が爆発した一般庶民は強い!島原城に一時避難していましたが、一揆軍は城下を焼き払い攻撃!救世主を味方につけた一揆軍は、正義の名のもとに略奪行為なども行いました。

これを対岸から見ていた天草でも、一揆をおこし始めます。勢いづいた一揆軍は富岡城を責めますが、戦闘についてはアマチュアだったため、落城を断念して廃城になっていた原城に立てこもります

島原の乱によって原城は悲劇の舞台に!

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島原で立ち上がった一揆軍と、天草で発起した一揆軍が原城で合流総勢37,000人の大人数が籠城したと言われています。ここで、乱の発生を知った幕府が動き出しました。

一揆軍は団結して原城を守り続けます。一方、幕府側の討伐軍は寄せ集めの兵であったため、まとめ役の板倉重昌は討伐隊をまとめきれず、一揆軍を治めることができませんでした。二人目のまとめ役として老中の松平信綱も出陣しますが、討伐軍内の“内輪もめ”や“連携不足”もあってグダグダの戦場になってしまいます。

一般庶民相手に、4,000人の損害を出してしまった討伐軍。もう失敗はできません。ここで作戦を“兵糧攻め”に切り替えます

どうしようもなくなった庶民の生活

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食料の調達に苦しんだ一揆軍は、原城の断崖絶壁を海まで下りて、手軽に採れる海藻を調達しました。その時、一揆軍の死体を見聞した松平信綱は、胃の中に海藻しかないのを見て兵糧攻めの成功を確信します。

時は今!とばかりに討伐軍は総攻撃を開始します。食料も弾薬も尽きかけていた一揆軍は、あっけなく敗退。原城は落城してしまいました。ここで総大将になっていた救世主:四郎は打ち取られてしまいます

3ヶ月もの間、原城で籠城を続けた一揆軍。明るい未来を期待していたのでしょうか?この時代に一揆を起こすという事は、重罪にあたります。「どうしようなくなった」という心境で起こした反逆だったのでしょう。

島原の乱で処刑された人々の怨念

非情な首実検



原城内には、武器を持った男性陣の他にも、老人・女性・子供、たくさんの人々が籠城をしていました。討伐軍は、戦闘に参加していなかった人たちも併せて、皆殺しにしました

兵糧攻めによって「ひもじい思い」や、新大名への「恨み」、戦闘への「恐怖」いろいろな”思い”が原城内に渦巻いていました。この思いは現代に残り、原城を心霊スポットへ変えました。とても悲しい出来事ですね。

神輿に乗せられた四郎も若干17歳。どんな思いで首を討ち取られたのでしょう。幕府軍は、四郎の顔を知らなかったため、先に捕らえた四郎の母親に数々の首を見せます。その中の1つに母は反応し泣き崩れたため、その首を四郎の首と断定しました。

島原の乱で活躍?豊臣秀頼生存説に迫る!

* 今日もたくさんのお客さまにお越しいただいています!休日なのでご家族連れの方も多かったです(*^o^*) ⁑ 天草四郎って色んなエピソードがありますが、お客さまによく聞かれるのは『本当にイケメンだったの!?』ということ。確かに、当館で展示しているパネルを含め、天草四郎の肖像画は美少年に描かれることが多いですよね♡ #南島原から世界遺産を #南島原市#南島原#미나미시마바라 #南島原市有馬キリシタン遺産記念館 #有馬キリシタン遺産記念館 #天草四郎#天草四郎時貞 #キリシタン#キリシタン弾圧

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大坂夏の陣で大阪城と共に命を落とした“とされている豊臣秀頼公。生存説があるのをご存知でしょうか?真田幸村に連れられて、九州へ逃げ延びた。という都市伝説があります

慶長20年追い詰められた秀頼と淀殿は、側近と共に大阪城本丸で自害しました。大阪城は火の海に包まれ、城内はたくさんの武将の首がゴロゴロしており、どれが秀頼の首か見分けがつきません。

このことから、秀頼公生存説がささやかれ始めたのでしょう。同じような説は“織田信長”や“源義経”にも同様の噂があります。当時は、指紋やDNA鑑定などの技術はありません。顔で判断するしかなかったんですね。

大阪城には三光神社と繋がっている「真田の抜け穴」があると伝えられていました。この穴を使い、大阪城から幸村と秀頼は脱出しました。この時から、秀頼と幸村は一生を共にすることになります。

世間知らずのおぼっちゃま

真田巡り4 玉造稲荷神社 ここは、豊臣秀頼ゆかりの神社。#豊臣秀頼#玉造稲荷神社

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現在、秀頼公の墓と言われている場所は2か所あります。いずれも鹿児島市内にあることから、ここでも秀頼生存説を感じることができますね。

そして、ある時薩摩城下で奇妙な人物の噂が立ちます。「店で飲み食いしても勘定を払わない。」「後からお城へ請求すると、払ってくれる。」「若い男性で、身なりもいいが誰だろう?」と井戸端会議のネタになっていたといいます。

世間知らずのおぼっちゃま=逃げ延びた秀頼公ではないか?と、憶測を呼び「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」という歌も、わらべ歌として残っています。

島原の乱は真田の働き?

いまさらこちら。一気見📺 おもろい😀 #真田丸 #上田城行きたい

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この説では、秀頼は薩摩で結婚し子供を持ち、薩摩で一生を終えることになっています。一緒に逃げた真田幸村も、秀頼と一緒に薩摩で一生を終えたと伝えられていますよね。

そして、秀頼の子孫が、島原の乱を率いた天草四郎だと言われています。カリスマ性を生まれ持っていた事や、救世主としての“はく”を付けるため必要な情報操作だったのではないでしょうか?

実際に、豊臣秀頼と天草四郎が血縁だったのかは分かりません。しかし、一緒に逃げた真田幸村の墓と伝えられている場所も、薩摩に実在しています。大阪城脱出劇というのもロマンがあって素敵ですよね。

そして、この真田幸村の働きが無ければ、秀頼公を薩摩に連れてくることはできなかったし、秀頼公子孫の天草四郎が生まれることもなかったのです。

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