三原じゅん子の経歴が唯一無比!昔やっていた職業とは?

売れっ子の女優・タレントとしてメディアを賑わせていた彼女が国会議員へ。その転身までの、波乱万丈とも言える道程を辿ってみました!

三原じゅん子の経歴が壮絶!

有名テレビドラマで女優ブレイクするも、現在は参議院議員



三原じゅん子(デビュー時は順子。以下、文中はじゅん子で統一)は、1964年9月13日に東京都で生まれました(板橋区出身)。小学校2年生の時に東京放映テレビに入団して、演技を基礎から学びます。ツッパリ役が多く、派手な印象を与えていましたが演技力は“本物”でした。筆者とは同世代で、彼女の作品をリアルでほぼカバーしているのでホントですよ。

その後は女優と並行して歌手活動も始め、芸能界での地位を固めて行きました。本格的にカーレースもやっています。「まぁ、このまま行けば芸能界で安泰だろう」と大方のファンが思った矢先、三原じゅん子は介護施設の経営に携わりました。そして、現在は参議院議員として国政に参加しています。

一体、何が彼女を突き動かすのでしょうか?そのバイタリティの根源にあるモノは?

ここでは、彼女のデビューから現在に至るまでの足跡を辿ってみます。ミドル世代が背筋を伸ばすも良し、若い世代が指針とするのもいいでしょう。筆者はもちろん、前者です。

元・女優時代

社会派、スポ根、ツッパリ、Vシネ……多岐に活躍!



三原じゅん子は劇団に所属していた関係で、芸能界歴が長いのが特徴です。入団まもなく「青い鳥」で初舞台を踏みました。彼女の芝居を印象付けしたのは定期公演の「強制収容所の少女」(1975年)で、のちに「1億人の妹」のキャッチ・コピーでアイドルとしてブレイクする大場久美子とのW主演をこなします。

そして今度は、女子バレーボールを題材にしたテレビドラマ「燃えろアタック」(1979年テレビ朝日。主演・荒木由美子(現・湯原昌幸夫人))、「3年B組金八先生」(同TBS)に立て続けに出演して“女優”としての存在感を示しました。「燃えろアタック」は名作「サインはV」をライト感覚で描いた作品で、三原じゅん子は当時、「個人的にバレーの特訓をしたおかげで、出番が増えた(笑)」と回想していたのを覚えています。筆者は、この時から「外見の派手さの陰で、結構頑張ってるんだな」と認識したのでした。

加えて、この時とほぼ同時期にオン・エアされた「3年B組~」の第1シリーズで、彼女は女優としての地位を確立したと言ってもいいでしょう(写真は1980年、テレビ朝日「電子戦隊デンジマン」)。



このテレビドラマでは、ツッパリの女子生徒・山田麗子(筆者注:同名義で作詞を手がけたり、愛着ある様子)を好演。ひとりの生徒を数人で袋叩きするシーンで吐いた「顔は止めときな、ボディボディ」は、今だに三原じゅん子の代名詞的なセリフとして、テレビドラマファンやウォッチャーの間では語り継がれている程です。

その一方では「GOGO!!チアガール」(写真。1980年、TBS)のような明るい学園ドラマや映画「父よ母よ」(1980年、監督・木下恵介)のような人間ドラマにも出演。劇団時代から培ってきた演技力に磨きをかけて行ったのです。

その後の活躍は、まだ記憶に新しいとは思いますがVシネマや2時間ドラマにも多数出演して“芸能界”での位置を確かなモノとしていったのです。役「水戸黄門」のような国民的時代劇や任侠モノのVシネマの情婦等々“三原じゅん子の世界”を形成する事に成功していたかに見えていたのですが……。

彼女は2010年に介護施設経営のために、芸能生活に別れを告げます(2011年、例外として「3年B組金八先生ファイナル」に卒業生役で出演)。筆者個人としては「極道の妻たち」の21世紀バージョンを演れるのは彼女だけだと、今だに思っております。それ程惜しい引退(活動停止)でした。

歌手としても一線級、紅白歌合戦出場も!



女優としての活動のほかに、三原じゅん子の芸能活動として忘れてはならないのは“歌手”としての顔です。デビュー曲「セクシー・ナイト」(1980年),は30万枚のセールスを記録して一躍、年末の新人賞レースの一角に食い込んできたのです。折しも1980年は山口百恵が引退した年です。歌手としての後釜争いも、し烈を極めたのは言うにおよびませんよね。

中でも三原じゅん子は、それまで山口百恵が務めていたCASIOのデジタル腕時計(時代を感じますネ)のCMソング・キャラクターの座を射止めています。「春からデジタル~♪」って、ハスキーな声で歌っていました。賞レース自体は同期に田原俊彦、松田聖子、河合奈保子と顔ぶれがハンパじゃない事から、無冠でしたけど歌も器用にこなしていた印象があります。

それでもコンスタントにシングルをリリースを続けた結果としてNHK紅白歌合戦にも出場しました。時代は横浜銀蝿ブームで、そのThe Crazy Rider横浜銀蝿Racing Special(正式グループ名)と前述の山田麗子が作詞、グループのベーシストのTAKUが作曲した「だって・フォーリングラブ・突然」(1982年)がスマッシュ・ヒット。その路線を踏襲した「ホンキでLove me Good!!(作詞・作曲/TAKU)で、国民番組で歌手としての顔もアピールしたのでした。

その他にも「じゃじゃ馬ならし」(1984年)等、名曲を残しながら女優業引退(停止)とともに、歌手活動も停止しました。こちらもまた、惜しいです(写真は1986年発売の企画盤的なCD「レディーストランス愛死天流!」)。

元・カーレーサー時代

女性芸能人ではピカイチだった“ドラテク”!

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女優や歌手としての活動と並行して三原じゅん子が熱を入れていたのが、カーレースです。ここで特筆したいのは、その活動が「クルマ好き芸能人」の域を超えている事です。カーレースのライセンス(国際B級)を取得して、プロのレーサーたちと文字通りのデッド・ヒートを繰り返していました。

彼女がステアリングを握っていたのは、TS/GTS、ツーリングカー選手権、GT選手権です。大雑把に説明すると、レギュレーションのギリギリまでチューンしたしたエンジンを載せたシャーシに、市販車形状のボディ(こちらも軽量化・空力対策済)を被せて走るモンスター・マシンでテクニックを競い合うレースです。

三原じゅん子は、こうしたレースの世界に1991年~1997年まで身を置き、31戦中で最高9位、24時間耐久レースでは最高15位を記録しています(スプリントの9位は1995年3月25日N1カテゴリ、24H耐久15位は1996年7月27日NICOS CUP十勝24時間レースにて。写真は耐久レース中の夜間ピット・インのイメージ)。

レースに参戦してしまう「ハンパない」彼女の生き様が、浮き彫りになってきた経歴ですよね。その行動力たるや、計り知れませんね。

元・介護施設経営者時代

広く社会に目を向け始める

出典:https://pixabay.com

2010年は三原じゅん子にとって、大きな節目の年となりました。芸能関係の仕事を全面停止(“引退”という言葉は本人は使用せず)します。本人曰く「かけもちで出来る仕事じゃない」との事でした。今、考えればその仕事とはふたつあり、その内のひとつが介護施設の運営です(2011年のテレビドラマ「3年B組金八先生ファイナル」は、自分を育てたドラマという事で卒業生・山田麗子役として出演した)。

三原は自分の父親が母に介護される姿を15年間見ており、同じ境遇の人たちの役に立ちたいと考えていました。自身が2008年に子宮頸がんを発症して、支え合う仲間の存在を強く意識しだしたのかも知れません。そうして開所したのが「だんらんの家 三鷹」(東京都)です。宿泊施設はあるものの、通所介護が中心だとか。

「今まで好き勝手して生きてきましたけど、これからは少しでも人の役に立ちたい」と所信を述べていました。この時、三原はまだ45歳。頭の下がる思いです。

現・参議院議員

言いたい事は国会でも物申す!

2010年の大きな節目の二つめは、三原じゅん子が国政への参加をみずから名乗りを挙げて、7月に行われた参議院議員通常選挙に自由民主党から比例区に立候補した事です。結果は約17万票を個人名で獲得して党内5位で初当選を果たしました。

議員を志したきっかけのひとつとして、彼女は自分がガンに冒されて「死」という問題に直面した時に、「ガンを撲滅させる事はできないか?」と真剣に考えたと言います。また、この時に支えてくれた仲間の励ましが「政界進出のきっかけになった」とも。介護施設の問題の時とリンクしてきますが、みずからの病気の体験が彼女のヤル気・頑張りの源になっていたような気がします。

それも、ともすればマイナス思考になりがちな“自分の体・子宮頚ガン”という問題。これを、持ち前のポジティブさとバイタリティで前に向かって行って国会議員になってしまうなんて「彼女らしい」といえば、これ程「らしい」事はないのではないでしょうか。

神奈川選挙区に変わっても精一杯やるだけ

三原じゅん子の所属する自由民主党は、2016年の参議院議員通常選挙で三原を比例区から転出させて神奈川選挙区の候補へ擁立する事に決めます。党本部と神奈川県連での意見の食い違いはありましたが、同年7月の選挙で彼女はトップ当選しました。これまでの三原の活動を新選挙区でも認められたと同時に、今後を期待されたという事です。

まだ代議士生活は長くはないですが、主だった彼女の活動としては2013年自民党女性局長2016年参議院厚生労働委員長等が挙げられます。今後も「ハンパない」三原じゅん子は、国民のためにガムシャラに精一杯の事をやってくれるに違いありません。

まとめ

バイタリティの塊のような女性

ここでは三原じゅん子の生きてきた道のりを早足で紹介してきました。そのために、同世代の筆者が見てきた「リアルじゅん子目線」を存分に書ききれなかったのが、気がかりです。例えば、女優編では彼女はミュージカルにも出演していてジョン・トラボルタとオリビア・ニュートンジョンで演った映画「グリース」の舞台版(1988年)にも出てたりなんかしてて、ダンスも上手いんですよ。

そうかと思えば映画「あゝ野麦峠 新緑編」(1982年)みたいな文芸作品もキッチリと演じていたりするんです。演技がしっかりしているのと、(これは筆者の想像ですが)和服が似合う点から、高橋英樹や五木ひろし、松平健らの舞台公演にも呼ばれてたりもしてたんですよ。芸事の基本は、若い頃からできていたんですね。

政界においても、先述した役職のほかにも自民党オートバイ議員連盟事務総長を務めたりと、慣れない世界でも常に全力疾走しています。見た目は華やかですが、努力家であり頑張り屋というのが実体なのではないでしょうか。でなければ、これだけの経歴で成功を収める事はできないです。彼女には、まだまだ無限の可能性を見る事ができますネ。