衝撃の事実!石田三成の家紋は大一大万大吉じゃなかった?

悲劇の戦国武将“石田三成”といえば『大一大万大吉』ですよね!!そして、大一大万大吉は三成の家紋だと思っている方が多いかもしれません。そこで、大一大万大吉と三成の家紋について、整理してみました。

石田三成といえば大一大万大吉!

『大一大万大吉』とは?



石田三成の合戦シーンで、大一大万大吉』の旗を目にしたことありますか?『大一大万大吉』は、「だいいちだいまんだいきち」と読みます。最初の「大」の字が、「天下」を、2文字目の「一」が「一人の人間」を、3文字目と4文字目の「大万」が、「万人、多くの人々」のことで、最後の「大吉」が、「幸福=安泰、平和」のことです。

要約すると、「一人が万人のために、万人が一人のために力を尽くせば、世の中は吉(幸福)となり、太平の世(平和な社会)が生まれる」という意味です。

鎌倉時代の武将で、源頼朝の命で木曽義仲を打ち取った石田次郎為久が、最初に使用したといわれています。石田次郎為久が石田三成の祖先だったのではないかという説がありますが、定かではありません。同じ石田なので、石田三成がシンパシーを感じだのかもしれません。

大一大万大吉は家紋じゃない!?

家紋じゃないなら何でしょう?

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『大一大万大吉』が石田三成のトレードマークのように思われているようですが、『大一大万大吉』は石田家の家紋ではありません。関ヶ原の戦いで、大将である石田三成がいる場所に掲げられた拠旗と戦場で掲げた旗印に、『大一大万大吉』を染め抜いいていたと言われています。

合戦では、戦が終わった後で勝った総大将が頑張った武将たちに褒美を与えるために、どの軍が貢献したかをウオッチする役目の者がいました。旗印は、合戦で戦う武将が自軍の目印として掲げていたタテ形ののぼり旗ですが、そののぼり旗が多く目につくと、合戦で頑張っていると見なされて、貢献度が高まりました。

旗印の役割

当時の武将たちの旗印は、想いを込めた言葉やデザインでした。いまなら、会社のCIやスローガンでしょうか。たとえば、CMで流れていて、耳に残る企業スローガンってありますよね。

トヨタの“Drive your dreams”、キャノンの“make it possible with canon”、日立の“Inspire the Next”などは、海外の人にもアピールできる、素晴らしフレーズだと思います。NIKEの“JUST DO IT”も、単純明快でかっこいいですね。

日本語の企業スローガンで、ヤマハの“感動を・ともに・創る”、SUNTORYの“水とともに生きる”、ミツカンの“やがて、命に変わるもの。”などは、事業内容が想像でき、企業の目指すものが判ります。それが、石田三成の場合は、『大一大万大吉』であったということです。

戦国武将の旗印はどれも個性的

織田信長の旗印は『永楽通宝でした。中国明朝時代のコインです。日本では室町時代に日明貿易で入ってきて、江戸時代初期まで使われていました。織田信長は楽市・楽座を導入し、経済活性化を図った人なので、貨幣流通に関心があったからでしょうか。

豊臣秀吉は、位が上がるたびに旗印を変えていたようですが、朝廷から関白の位を賜った際に、天皇家にのみ使用を許される『桐紋』を家紋として賜り、旗印も『桐紋』にしたようです。『桐紋』は、現在でも日本政府の紋章として使われています。

徳川家康の旗印は、『厭離穢土欣求浄土』が有名です。これは、平安時代に編まれた仏教書の一文です。苦悩の多い穢(けが)れたこの世を厭(いと)い離れたいと願い、心から欣(よろこ)んで平和な極楽浄土を欣(ねが)い求めて、それを成すという意味です。

大一大万大吉に込められた意味

三成の人柄が明らかに!



大一大万大吉という言葉は、石田三成という人をよく表している言葉だなと感じます。ただ、ひたすらに相手のことを思い、同じような気持ちの人がまたひとり、またひとりと増え、どんどん思いやりの輪が広がっていけば、争いはなくなり、穏やかな世の中になると。

そのことが、結果的に世界平和につながっていくと思いますが、下剋上が当たり前という戦国の乱世の時代に、すがすがしいまでに私利私欲が入り込む隙のない、目珍しい言葉ではないかと感じます。

しかも、あろうことか、戦国のど真ん中にいるハズの石田三成が、恥かしげもなく「大一大万大吉」という理想を掲げるという意外性に、驚きを禁じ得ません。逆に、どれだけ、ピュアな気持ちの持ち主だったのだろうかと、興味が沸いてきます。

果たされなかった三成の理想

「大一大万大吉」という壮大な理想を掲げ、日本史上最大の合戦である関ヶ原の戦いに、中心的人物として挑んだ石田三成。東軍総大将の徳川家康との天下分け目の大合戦の詳細は、多士済々の研究者や作家、著名な監督が手掛けているので、ここでの説明は敢えて控えます。

関ヶ原の戦いの結果、石田三成は捕らえられ、大阪、堺市中引き回し後、徳川家康の命により、京都の六条河原で斬首されました。享年41歳。首は三条河原に晒され、生前親交のあった沢庵宗彭が住職を務めた大徳寺に葬られました。

敗戦の将・石田三成が果たせなかった、「大一大万大吉」の理想は、皮肉なことに敵将の徳川家康に受け継がれる形になります。徳川家康から始まった江戸時代は、戦のない太平の世の時代で、文化芸術が特権階級だけでなく大衆にまで広がり、発展した時代でした。

石田三成の家紋①九曜紋の意味

九曜紋とは

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「九曜紋」は、中央の大きな円の周りを8つの小さな円が囲むデザインの家紋です。鎌倉幕府の有力御家人で、千葉を治めた千葉氏の家紋が元といわれています。千葉氏ゆかりの千葉神社の九曜紋は、他の九曜紋とは別格で、周りの小さな円が9つの十曜紋です。同様に、千葉家の分家は8つの小さな円の九曜紋のようです。

九曜紋の中央の大きな円は、北極星を意味します。千葉神社が北極星と北斗七星を信仰しているからです。周りの小さな円には、3つの説があり、1つ目は、太陽・月・北斗七星などの天体とする説

2つ目は、日曜星・月曜星・火曜星・水曜星・木曜星・金曜星・土曜星・計都星・羅喉星 と易学の9つの星とする説。3つ目は、占いの九星気学の一白水星・二黒土星・三碧木星・四緑木星・五黄土星・六白金星・七赤金星などの9つの星とする説です。

石田家と九曜紋

九曜紋」は、千葉氏の末裔やゆかりの家で使われていましたが、千葉氏の親族が、東北や九州に進出していくに従って、広がっていきます。千葉氏の流をくむ福島の相馬氏、熊本の細川氏の家紋も九曜紋でした

なぜ、石田三成の家が九曜紋を家紋にしていたのかはわかりませんが、石田家が代々九曜紋を家紋としていたことや、石田三成も使っていたことは、歴史資料からも確認できるので、石田三成の家紋であったことはほぼ間違いないと思います。

石田三成の時代の戦国武将には、他にも九曜紋を使っている武将がいたようです。そのため、石田三成は、合戦の場で自軍の目印として他の武将と差別化を図るために、家紋の九曜紋とは別の旗印『大一大万大吉』を使っていたのかもしれません。

石田三成の家紋②下がり藤の意味

下がり藤の由来

出典:https://ja.wikipedia.org

「下がり藤」とは、藤の花と葉を円形にデザインした家紋のことです。初めて「下がり藤」を使ったのは、中臣鎌足と言われています。中臣鎌足は、飛鳥時代に大化の改新を行った人物で、当時の天智天皇からの信頼が厚く、亡くなる直前に「藤原」姓を賜り「藤原鎌足」と改姓した「藤原氏の祖です。

「藤原氏」は、公家の名門として栄え、多くの人材を宮中に送り込む一大勢力でしたが、その血筋が各地に存在するようです。また、藤は日差しを好む繁殖力旺盛な植物なので、藤原氏の隆盛や藤の旺盛な生命力から、「下がり藤」にはその家が未来永劫まで繁栄することを願ってという意味が込められているのでしょう。

藤原氏の血筋を引く家が下がり藤の家紋を使っているだけではなく、どうやら藤原氏にあやかろうと下がり藤の家紋を使った家も多くあるようです。

下がり藤を使っている有名人

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石田三成は、「藤原三成」と名乗っていた時期があるようですが、藤原氏の血筋を引いていたかは不明です。藤原氏に憧れて、藤原姓を拝借した可能性も否めません。石田三成が藤原と名乗っていた時期の家紋は、藤原氏の下がり藤にしていたようです。

他にも、下がり藤の戦国武将に、軍事・黒田官兵衛の家臣、後藤又兵衞がいます。昭和以降の有名人では、三波春夫、黒柳徹子、美空ひばり、津川雅彦などの家紋も下がり藤です。

「ゴホン!といえば、龍角散」のキャッチフレーズで有名な株式会社龍角散も、下がり藤です。創業家で現在も代表を務める藤井家の家紋である下がり藤を、龍角散のパッケージにもプリントしています!!藤井家は、初代秋田藩主・佐竹氏の御典医(殿の主治医)でした。奇しくも石田三成と佐竹義宣は強い友情で結ばれていました。

石田三成という男

悪人?それとも善人?

出典:https://ja.wikipedia.org

石田三成を処刑して国を治めた徳川幕府は、石田三成を徹底的に悪者に仕立てあげました。戦で勝った者が負けた者を悪人にして記録を残すことはよくあることですが、そのため後世の人が捻じ曲がった歴史認識を持つという困ったことが起こります。

そんな徳川の世に、変わり者の徳川の人がいました!?水戸黄門としても有名な水戸光圀です。徳川家康の孫にあたる人ですが、石田三成の事を褒めていたという記録が残っています。家臣として主君である豊臣家のために尽した姿勢を、君臣共に心得るべき」と讃えていたと。

徳川が全否定している石田三成のことを、褒めることができるとは、さすが生類憐みの令を出した徳川綱吉に、犬の毛皮を送った人だけのことはあります。江戸時代の記録では、石田三成はことごとく抹殺されたも同然の扱いですからね。

後世に語り継がれるべき男

出典:https://ja.wikipedia.org

いかがだったでしょうか。石田三成を漢字一文字で表すと「」ではないかと思います。「義」とは、正しい道、道理にかなったこと、人道に従うこと、利害をすてて条理に従う、公共のために尽くす気持といった意味があります。

頭脳明晰で高い理想を掲げ、「こうであらねばならない」、「こうあるべきだ」という思いが強かったと思われる石田三成は、理想を追い求めるあまり、まわりの人から受け入れられない孤高の人だったのかもしれません。

石田三成のように仕事のデキる男を部下に持つと、上司も組織もやりやすいですね。ただし、石田三成のような人は、あくまで補佐役であって、やはり大将の器ではなかったのではないかと思います。最近では、石田三成は悪人ではなかったとして、客観的に研究する傾向にあるようなので、それはそれで悦ばしい限りです。

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