80年代にデビューし90年代のセンタープレーヤー全盛時代にNO.1に君臨し続けたのがアキーム・オラジュワンである。必殺のドリームシェイクを武器にNBA連覇を成し遂げた、アメリカンドリームを体現した男が歩んだ道のりをくまなく紹介していく!
目次
運命を変えた友人!アメリカンドリームの始まり
¡Juegazo!
Un día como hoy en 1990, Hakeem Olajuwon logró 29 puntos, 18 rebotes, 11 blocks, 9 asistencias y 5 steals. #NBA #FBF #Rockets50 pic.twitter.com/oYtm7C9YtD— All Sport News (@All_SportNews) 2017年3月3日
アキーム・オラジュワンは現役当時213㎝115.5㎏、主にヒューストン・ロケッツで長くプレーした。ポジションはセンターでそのプレイスタイルから”Dream”の愛称で親しまれた。背番号34番はヒューストン・ロケッツの永久欠番となっている。
オラジュワンの出身地はナイジェリアで、彼が15歳になるまではサッカーのゴールキーパーやハンドボールをプレーしていたそうだ。ナイジェリアでハンドボールの全国大会に出場していたオラジュワンは身長がすでに2mを超えていたそうである。
そのオラジュワンを彼の同級生がバスケットボールの試合に誘ったのがきっかけでバスケットボールと出会い、後にナイジェリア代表に選ばれるまでになったのだ。その同級生の一言がなければNBA最高のセンターは存在しなかったかもしれないのである。
Highest ranked Nigerian player of all-time Nduka Odizor to grace NCC Tennis League semishttps://t.co/O9qDyfeGTf pic.twitter.com/nu1wjN15j0
— The Guardian Nigeria (@GuardianNigeria) 2016年12月2日
そしてもう一人オラジュワンの運命を大きく変える友人が現れる。それが元プロテニスプレーヤーでオラジュワンの幼馴染だったエンドゥカ・オディゾールだ。オディゾールはテニス不毛の地を言われたナイジェリアに後々大きな足跡を残した人物である。
彼に薦められてオラジュワンはバスケットボールの国、アメリカへ移住してくるのである。オラジュワンはオディゾールが在籍するバスケ名門校ヒューストン大学に入学するのである。そこでチームメートとなるのが後のスーパースターとなるクライド”ザ・グライド”ドレクスラーなのだ。
オラジュワンの運命は二人の友人によって、導かれるようにバスケットボールの世界と本場アメリカへとその進路を変えたのだ。偶然なのか必然なのかはわからないがこうして世界はオラジュワンという才能を知ることになるのである。
練習生で終わってたまるか!一躍大学のスター選手に
https://youtu.be/8l5N2eKdvL4晴れてアメリカのヒューストン大に入学したオラジュワンだが当時無名の彼は練習生としての入学となり、1年生時には試合に出ることができなかった。そして選手登録した2年生の時からオラジュワンは頭角を現し始める。
チームメートのドレクスラーらと共に派手なダンクで見るものを魅了するファイ・スラマ・ジャマ(Phi Slamma Jamma)として大変な人気を博しアメリカカレッジバスケットボール最大のトーナメントNCAAトーナメントで常にベスト4入り(Final4)を果たしたのだ。
練習生から始まった大学での日々はオラジュワンを確実に強い選手として成長させ83年にはトーナメント最優秀選手に選ばれるまでになったのだ。そして4年間を終了したのち、オラジュワンはNBAドラフトにアーリーエントリーすることを宣言、いよいよその活躍の舞台をNBAに移していくのである。
必殺のドリームシェイク!遂に掴んだ栄光の時
個人的にNBA史上最高のセンターだと思うアキーム・オラジュワン。 pic.twitter.com/PFJ5DVcqwq
— プロショップ スポテック (@proshopsportec) 2014年3月31日
ルーキーイヤーから活躍し2年目にはNBAファイナルを経験、順風満帆にキャリアを積んでいくオラジュワン。リーグでも有数のビッグマンとして確実に認知されてはいたものの、チームは強豪というには物足りない成績しか残せず、80年代が過ぎていった。
90年代を迎えて自信をトレードしようと考えていたロケッツに対して不信感を募らせるなどくすぶっていたオラジュワンだが92年日本での開幕戦へ向かう飛行機の車内で球団と完全に和解、オラジュワンはのびのびとプレーしこの頃にはリーグでもトップクラスの選手に成長を果たす。
この頃からオラジュワンはそう簡単に止められる選手ではなくなっていた。一試合で25得点を挙げ10本を超えるリバウンドを取り4本近いブロックでゴールを守る。ビッグセンター全盛の時代でもトップ選手だったと筆者は思っている。
https://youtu.be/9J-WJ5739Tgそしてキャリアの全盛を迎えたオラジュワン。彼を止められない理由、それは彼独特のムーブであり必殺の”Dream Shake(ドリームシェイク)”があったからである。まるで夢でも見ているかのようなオラジュワンの動作とフェイクの連続に誰もついていけなかったのだ。
ドリームシェイクとはスピンムーブと呼ばれる動きとシュートフェイクやフェイドアウェイシュート組み合わせたオラジュワン独特のムーブである。そもそも7フッターを超えるオラジュワンだがそのフットワークは大変軽く、またボールハンドリングにも長けている選手だった。
さらにリーチも長くシュートタッチも滑らかだったため、シュートを打たせてはいけないマークマンはいつどこでシュートを打つか全くわからないオラジュワンのシュートフェイクにまんまと引っかかってしまうのである。
Who is the best international player in NBA history? Dirk Nowitzki? Hakeem Olajuwon? @TheStarters debate
WATCH: https://t.co/QAVg0tKrMB pic.twitter.com/3MWesumBLX
— NBA.com (@NBAcom) 2017年1月12日
オラジュワンの他には、当時サンアントニオ・スパーズのデイビッド・ロビンソン、オーランド・マジックのシャキール・オニール、さらにはニューヨーク・ニックスのパトリック・ユーイングなど名だたるセンタープレーヤーが割拠していた時代だが、誰も全く歯が立たなかったと言って過言ではないと思う。
特にデイビッド・ロビンソンなんかはレギュラーシーズンでもプレイオフでも完膚なきまでにやられていたし、あんなもの止められる選手は存在しない、とインタビューで答えてしまう程だった。当時の試合を見たことがあるが見ているこっちがかわいそうになるくらいボロボロにやられていたものだ。
Slam dunk! NBA Hall of Fame Player Hakeem Olajuwon @DR34M to open @RedMango franchise https://t.co/dGP7ls4niT pic.twitter.com/BuBvOQqrTk
— Monica Feid (@bizbuzzin) 2017年1月10日
1993‐94シーズンのNBAファイナルに進出したロケッツとオラジュワンは大学時代から因縁のあるパトリック・ユーイング率いるニューヨーク・ニックスと対戦。第7戦までもつれた試合を制し、見事NBAチャンピオンに輝いた。オラジュワンはファイナルMVPに輝いている。
そして翌シーズンは移籍期限間際に、大学時代のチームメートであるクライド“ザ・グライド”ドレクスラーが電撃的にロケッツに加入。レギュラーシーズン、NBAプレイオフともに苦戦したもののNBAファイナルに進出した。
相手は一大旋風を巻き起こしていたシャキール・オニール、アンファニー・ハーダウェイ擁するオーランド・マジックだった。マジック有利の前評判だったが、オラジュワンはオニールに『格の違い』を見せつけ翻弄、見事連覇を達成し2年連続ファイナルMVPに輝いたのだった!
オラジュワンのバッシュは聞いたことのあるあのメーカー
@RazaMMirza @espn I say the Hakim the dream @Spalding shoes as my sleeper pick! pic.twitter.com/sWM3oVZCPY
— Mina T. (@Mina__T) 2016年12月13日
90年代のNBAトッププレーヤーだったオラジュワン。彼が履くバッシュなんてとても人気が高そう…、なのだが彼が契約していたブランド、というか”メーカー”には当時筆者も大変驚いたことをしっかりと覚えている。
その名は『SPALDING』。中学生が学校に白基調の靴しか履いていけず、母親がサイズだけ聞いてデパートやショッピングモールのセールで買ってくる…そんなイメージのある意味日本でも有名なあのメーカーである!
バッシュを作るなんていうイメージが全くなかったし、しかも当時はハイテクシューズ全盛でナイキだコンバースだリーボックだと世間が認知していた時代だったので、本当に意外で、契約したのを知った時は『マジか!!』と思ったものである。
オラジュワンへ弟子入り?引退後の今なお放つ多大な影響力(まとめ)
https://youtu.be/oNWFk_oU8zAオラジュワンはNBAチャンピオンになった後もNO.1センターとして君臨するが、怪我や不整脈に悩まされ個人成績は低下。大学時代から過ごしたヒューストンを去り、トロント・ラプターズで1シーズンプレイした後に引退を表明した。
オラジュワンの付けた背番号34番はヒューストン・ロケッツの永久欠番となった。そしてある時スタープレーヤーであったコービー・ブライアントからポストアップした時の支配力を高めたいとコーチを依頼されたことをきっかけに、現在は現役選手を対象にしたスキルトレーナーとしての顔を持っている。
オラジュワンが優勝した時はちょうどジョーダンが野球をしていた時代。そのとき子供だったスター選手たちにとってドリームシェイクのインパクトは絶大だったに違いないのだ。ドリームシェイクの極意を学びたいと、ドワイト・ハワードやレブロン・ジェームスなどの選手がオフシーズンに連絡してくるというのだから、その影響力は大きいのである。
売り上げランキング: 73,804