関ヶ原の戦いの真実!4つのポイントで日本最大の合戦を知る

太閤秀吉の死後に起きた日本史上最大の合戦。正義の人・石田三成と老獪・狸おやじと揶揄された東海一の弓取り徳川家康が相対します。日本中の名だたる武将たちが、己の未来を賭けたこの戦。激熱なポイントを4つご紹介!

関ヶ原の戦いはどんな戦だった?

どうしてそんな戦が起こったのか?その引き金となった出来事とは?

出典:https://ja.wikipedia.org

関ヶ原の戦いは、信長・秀吉が活躍した安土桃山時代の終わり、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国、今の岐阜県南部にて東軍vs西軍に分れ行われた天下分け目の大戦です。

発端となったのは豊臣内部で起きた権力争いが発端です。豊臣政権下において加藤清正ら「武断派」と呼ばれるグループと、石田三成を筆頭の内政担当「文治派」と呼ばれる秀吉側近のグループが対立したのです。

例えるなら、体育会系男子理数系男子がいがみ合っている構図ですかね。秀吉が生きている時は表面化しなかっただけで、いつ爆発してもおかしくはない危うい状況だったのでしょう。

一代の英雄・秀吉墜つ。台頭する関東の覇者家康の暗躍!


秀吉は溺愛する息子・秀頼の今後のために大大名徳川家康の力を削ろうと考えます。五大老、五奉行制度は強大な力を誇示する家康を抑え込むための作った政策と言えるでしょう。

慶長3年(1598年)8月18日伏見城にて秀吉は亡くなります。待ってましたとばかりに家康は動き出し、各地の大名を自分の陣営へと取り込んでいきます

抑え込むために作った五大老・五奉行制度は機能せず、誰も家康を止めることができません。悔しがる石田三成。悪いときに悪いことが重なり、長年三成に恨らんでいた武断派の加藤清正らが三成を襲撃します。

事前に襲撃計画を察知した三成は、命からがら自己の屋敷へと逃げ込みます。外には怒り狂う武断派の面々。三成はしかたなく徳川家康に仲裁役を頼みこみ、佐和山城(今の滋賀県)へと隠居することとなります。

日頃からの人間関係の大事さをつくづく感じますね。

五大老景勝!家康に喧嘩を売る!

家康を勢いを止めるため五大老が一人・上杉景勝が立ち上がります。家康の悪行を連ねた「直江状」を送り糾弾します。憤怒した家康は行動を起こし、自ら大軍を率いて上杉がいる会津へと進軍します

一方、佐和山城で隠居していた三成も、この機を逃さず挙兵。西国大名らを糾合し、ここに家康討伐軍を結集します。いよいよ舞台は最終局面・関ケ原へと突き進んでいきます。

ポイント① 関ヶ原の戦いはどれくらいの人数が参戦した?

東軍の兵数を詳しくご紹介!

東軍の総勢は約75000人。徳川勢の内訳として大将・徳川家康・約30000人、そして家康の四男、松平忠吉3000人、徳川四天王・井伊直政3600人、愛槍「蜻蛉切」で有名をはせる豪勇・本多忠勝500人

東軍の残りの兵力は豊臣恩顧の大名が担っています。賤ヶ岳の七本槍の一人、福島正則6000人、奥さんに細川ガラシャをもつ名家・細川忠興5000人、官兵衛の息子・黒田長政5400人、秀吉の正室ねねの義弟・浅野幸長6500人

姫路宰相池田輝政4500人、身長190センチの大男、築城の天才・藤堂高虎2500人、もう一人の賤ヶ岳の七本槍・加藤嘉明3000人、非業の死を遂げた豊臣秀次の元筆頭家老・田中吉政3000人などなど。

別働隊として2代将軍徳川秀忠は38000人を率いていましたが、上田城を守る真田父子に足止めされ、天下分け目・関ヶ原の戦いに間に合いません。後で父家康にこっぴどく怒られて模様です。

西軍の兵数をご紹介!

関ヶ原合戦で獅子奮迅の活躍を見せた武将らを紹介!西軍の将・石田三成6900人、秀吉に百万の兵を任せてみたい言わしめた・大谷吉継600人備前宰相宇喜多秀家17220人

キリシタン大名、三成の盟友・小西行長4000人、「鬼島津」の異名をもつ豪傑・島津義弘1588人

戦に参加せず、すごすご帰った武将らを紹介。中国の覇者の血族・毛利秀元15000人、「宰相殿の空弁当」毛利家の片翼・吉川広家3000人、大坂の陣でも活躍・長宗我部盛親6600人

交渉術の達人、異彩を放つ禅僧・安国寺恵瓊1800人、五奉行が一人・長束正家1500人

味方を裏切った武将らを紹介!関ヶ原の戦いにおけるある意味の功労者・小早川秀秋15000人。秀秋の裏切りに便乗した小物武将らを紹介。小川祐忠2100人、朽木元綱600人、脇坂安治990人などなど。

西軍は8万を超える大軍勢にもかかわらず、実際に戦ったのは石田三成ら豊臣恩顧の武将ら3万弱。それでは勝利もおぼつきませんよね。ある意味人を信じすぎた三成が哀れです。

ポイント② 関ヶ原の戦いで小早川はなぜ裏切ったのか?

悲運の武将小早川秀秋の経歴。

天正10年(1582年)、秀吉の正室ねねの兄・木下家定の五男として生を受けます。幼名は辰之助。後のひ弱さを考えると名前負けしてますよね。その後、義理の叔父にあたる秀吉の養子となり、ねねに育てられます。

天正17年(1589年)には丹波亀山城10万石を与えられ大名となり、4年後には、従三位・権中納言兼左衛門督というとても偉い位を与えられます。まさに我が世の春を謳歌している感じです。

人生を狂わせた関ヶ原の戦い

西軍についた秀秋は1万5000の大軍勢を率いて、関ヶ原の南西に位置する松尾山に陣を敷きます。関ヶ原の本戦が開始されたのは午前8時頃、秀秋は今だどちらに味方するか悩んでいたはずです。

西軍を野戦に引きずり出した時点で、家康有利に動くかと思われましたが、思いのほか西軍の諸将の奮戦に合い一進一退の膠着状態に突入。決めてを欠く中、家康は秀秋に西軍を裏切り相手側面を突くよう伝令を走らせます。

中々動こうとしない秀秋の陣へ鉄砲を撃ちかける家康。ついに秀秋は決断し西軍へと突撃します。それまで戦わず傍観を決めていた西軍の諸将たちも、つられるように攻撃をしかけます。

総崩れとなった西軍の兵士たちは次々と討ち取られ、三成は逃亡し盟友大谷吉継は切腹し果てます。たった一日で勝敗が決したのです

その後秀秋は三成の居城佐和山城を攻めるなど家康の心証をよくするために奮闘します。裏切り者のレッテルは払しょくするために・・・・。

小早川秀秋は裏切ったポイント

東軍の武将・黒田長政の調略により、秀秋側近・稲葉正成らを取りこまれ、東軍につくよう説得されていたでしょうね。まだ人生経験の乏しい秀秋には拒絶するだけの信念はなかったでしょう。

決定打となったのが、秀秋が幼少から世話になっている北政所(ねね)家康推しだったことでしょうか。秀頼の生母・淀殿との確執から北政所は東軍に味方したとも言われていますね。

旦那である秀吉が死んだ後も、女同士の陰湿な戦いは続行中だったのでしょうか。

その後の秀秋について

関ヶ原の戦いから2年後に秀秋は21歳の若さで亡くなります。一説には大谷吉継が関ヶ原の戦いにおいて自害する際、裏切り者秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言い放ち自害したということです。

吉継の呪いにより秀秋は狂乱の内に死去したという噂が流れます。実際はアルコール依存症により内臓疾患で死亡したということです。秀秋の死んだ後、小早川家は断絶します

ポイント③ 関ヶ原の戦いの島津軍がワイルドすぎる

島津の退き口

島津家内部では反豊臣派の兄義久親豊臣派義弘との間で確執があった模様です。そのためか関ヶ原の戦いにおいて義弘が揃えられた兵数は1500人足らずの少数しか集められていません。

関ヶ原の戦いが始まります。義弘は参陣していますが兵を動かそうとはしません。一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋の寝返りにより西軍は総崩れ、島津軍の周囲は敵だらけとなります。

退路を断たれた義弘は絶望しその場で切腹しようとしますが、甥の豊久の説得を受け翻意し、正面に見える伊勢街道から撤退することを決意します。敵陣中央突破という無謀な作戦が決行されます。

前方にいる福島軍を抜きに掛かる島津軍。このとき大将正則は鬼気迫る島津軍とやり合うことを避け、無理な追走を家臣に禁じたと言われています。次々と立ちはだかる敵軍を薙ぎ払いながら前進する島津軍。

ついに家康の本陣に迫ったところで方向転換、伊勢街道をひたすら南下していきます。それを四天王が二人・井伊直政と本多忠勝そして家康の四男松平忠吉らが追撃します。

島津の反撃に合い追撃隊の大将だった井伊直政は重傷を負い松平忠吉も負傷してしまいます。それでも徳川軍は執拗に追撃し続けるのです。

捨て奸(すてがまり)

このとき島津軍は捨て奸と呼ばれる戦法をとります。何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをして、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという恐ろしい戦法を用います。

結果、多くの将兵たちが犠牲となりますが、そのおかげで大将義弘は無事に逃げ延びることに成功します。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ、島津の武勇を天下に広めることとなります。

「漂流者(ドリフターズ)」島津豊久

あまり描かれたことのなかった島津豊久を主人公にした稀有なマンガ作品です。荒唐無稽な部分も多々ありますが、冒頭部分の「島津の退き口」「捨て奸」を描いていて素直に楽しめます。

魔王織田信長、聖女ジャンヌダルクなど歴史好きにはたまらない偉人達が登場するファンタジー作品。興味のあるかたは一度ご覧ください。島津豊久と新選組副長・土方歳三とのバトルは必見です。

ポイント④ 関ヶ原の戦い中、伊達政宗は何をしていた?

伊達政宗のプロフィール

1567年9月5日、出羽国米沢城で生まれます。幼名梵天丸。大河ドラマ「独眼竜政宗」で「梵天丸もかくありたい」というセリフが当時流行語となりましたね、懐かしいです。

秀吉は叛旗をひるがえす関東の北条父子を攻めるため、小田原に大軍を送ります。小田原参陣において政宗と母義姫は対立。次男の小次郎を溺愛するあまり義姫は政宗を毒殺を実行します。

暗殺事件は露見し、政宗は弟小次郎を斬殺母義姫は実家の最上家へと逃走します。疱瘡(天然痘)で右目を失った政宗の醜い顔に義姫は嫌悪感を示し、自分と顔立ちが似ている弟小次郎を溺愛した結果だと言われています。

もしそれが本当なら政宗に救いがありませんね。

慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)

慶長5年(1600年)9月8日、西軍上杉勢は米沢と庄内の二方面から、最上領へ向けて侵攻を開始します。上杉軍の大将は重臣直江兼続、総兵力は2万5000人にも及んでいます。

最上勢は善戦しますが、兵力の差は大きくしだいに押し込まれていきます。最上氏は伊達政宗に救援要請します。伊達氏の重臣らは両氏を争わせて疲弊させ漁夫の利を獲ることを主張しますが、政宗はその策を退けます

「一つは家康のため、一つは山形城にいる母上のために最上を見捨てるわけにはいかない」と述べ、叔父・留守政景に兵3000を指揮させ救援へと向かわせるのです。

政宗はどんな仕打ちを受けようとも母を憎むことはできなかったのでしょうね。同月29日に、関ヶ原において石田三成率いる西軍が敗れたことが知らされます。

攻守が逆転します。逃げる西軍・上杉勢に攻め立てる東軍・最上伊達連合軍。上杉勢に奪われていた城を次々と奪い返し領地を回復していく最上勢です。

独眼竜政宗の攻城戦

上杉軍は敗れて米沢へと逃げ帰ります。流れに乗った政宗は自ら兵を率いて福島城攻略に取り掛かかりますが、福島城を攻め落とすことができません。上杉の別働隊にも補給線を断たれるなど、あえなく撤退となります。

関ヶ原の戦い前に家康から「100万石のお墨付き」といわれる約束状を取りつけていた政宗ですが、それもご破算となります。政宗が南部領内で発生した一揆を煽動したことがバレたからだと言われています。

政宗にとって関ヶ原の戦いは旨みの少ないものだったはずです。

兵どもが夢のあと 関ヶ原の戦いの跡地(まとめ)

今現在は関ヶ原はのどかな風景が広がっています。この地で徳川家康が勝利したことで256年という長い太平の世が築かれたのです。歴史にタラレバは禁句ですが、もし石田三成方が勝っていたらどうなっていたでしょう。

血で血を争う戦国の世に逆戻りしていたか、それとも三成の才覚で豊臣長期政権が誕生し安寧の世を作りあげていたでしょうか・・・妄想が止まりません。

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