西南戦戦争の真実 ラストサムライと呼ばれた漢たち

トム・クルーズさんと渡辺謙さんが、武士道を通じて「本物の侍」を描いたハリウッド映画「ラストサムライ」。漢達の生きざまが美しく描かれていました。そのモデルとなった西南戦争とはどんな戦だったのでしょうか?

なぜ西南戦争は起こったのか?

西南戦争を簡単に解説

#ラストサムライ

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1877年、現在の熊本・大分・宮崎・鹿児島県で起こった日本国内最後の内戦。維新後に発足した明治政府にとって、古臭い武士は邪魔な存在でした。近代国家を目指そうとする明治政府VS我を通そうとする武士の戦い。それが西南戦争です。

まず、武士身分を守ろうとして立ち上がったのは西郷隆盛。西郷側についた戦力は約3万人だったのに対し、新政府軍は7万人ほど。西郷軍・新政府軍ともに約7,000人ずつの死者を出す、という悲惨な戦いでした。

最後は西郷隆盛の切腹によって、西南戦争は新政府の勝利に終わり、漢達の終焉に幕が下ります

日本政府に牙を剝いた不平士族

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近代化を進める新政府。1876年3月に「廃刀令」を全国に発布します。今まで士族という身分の人達は、刀を腰に差し「俺は刀を持てる身分なんだぞ!」と、目に見える形で表してきました。一種の身分証明ですね。その帯刀を政府は禁じたのです。

同年9月には「金禄公債書発行条令」を発布。今まで武士達は俸禄という形で、明治政府から給料をもらっていました。しかし、新政府にはお金がありません。ここで「武士って必要?給料あげる必要あるの?」と、新政府は武士への給料ストップ!を実行しました。

身分証明の刀はダメ。給料ももらえない。新政府からは「今時、武士って(笑)」という扱いを受けます。この事態に、プライドが高い武士達は立ち上がり「不平士族」と呼ばれる集まりになっていきました。

中心人物となった西郷隆盛

新政府は鹿児島で製造・保管されていた武器が不平士族に奪われてしまうことが、何より恐怖でした。そこで、武器や弾薬を大阪に移そうと秘密裏に動き出します

しかし、いち早くこの情報をキャッチした不平士族達は、この武器を奪還することに成功! 不満がたまっていた不平士族達は、この成功を喜んだことでしょう。これから起こる“争いの口実”を作ってしまったことにも気付かずに…

また、同時期に「西郷隆盛暗殺計画」が持ち上がっていることが分かります。オレ達の親分を亡きものとしようとしている新政府。オレ達からプライドを奪った新政府。オレ達を金欠に追い込んだ新政府…。

新政府軍VS西郷軍

もう新政府には恨みしかありません。「侍の意地とプライドをかけ、オレ達を“貧乏な裸の王様”にした新政府をぶっ潰そう!!」と、拳を振り上げます。このシーンは、寺島進さんが演じたら面白そうですね。「どういうことだ!殺っちまおうぜ!」なんて言われたら、抑えられる自信がありません。(笑)

ここで我らが大将:西郷隆盛は「まあまあ、待ちなって。ちょっと新政府に話してみるよ。」と、沸き立つ仲間を抑えます。明治維新の立役者であり、日本で最初の陸軍大将であった西郷隆盛は、新政府との武力衝突は避けたかったのです。

交渉に向かおうとする西郷隆盛。それを見て新政府は、「不平士族達の大将がやってきた!これは反乱だ!」と騒ぎたて、西南戦争勃発となりました。

熊本城や田原坂は激戦地となった!

築城名人と呼ばれる加藤清正が作った名城:熊本城。1877年の西南戦争勃発時には、新政府によって占拠されていました。西郷軍は熊本城を強襲して、短期間に攻め落とそうとします。新政府軍から奪還した武器や弾薬が強い味方になっていました。

その様子を見ていた新政府軍は、肉弾戦より籠城戦を選びます。なんといっても、加藤清正が築城した城。守りを強固にすれば勝てる見込みは十分にありました。この時から3日間、全力で襲ってくる西郷軍から城を守り切ります

西郷軍は、イライラが募ります。「武器は充分、兵力も上。なぜ、熊本城は落ちないんだ!」西郷軍は兵糧攻めに作戦を切り替えました。長期に渡り城を取り囲むのです。「新政府軍は大勢が中に籠城している。食料が尽きるのも早いだろう。」

残された西郷軍

兵糧攻めとはいえ、ただ城を取り囲みお茶を飲んでいたわけではありません。不平士族達は、いろいろなところで小競り合いを始めています。イライラをぶつけるように砲弾攻撃で戦っていました。

この小競り合いでは、数百人規模の犠牲が出ていました。そんな時、別方向から新政府軍の応援が進行していることが知らされます。西郷軍は別部隊を派遣することになりました。熊本城には3,000人を残し、進行中の新政府軍を攻撃するため北へ向かいます。

熊本城内では「今ならイケるんじゃね?」とソワソワし始めます。残された西郷軍は、少なくなった人数に不安を抱き始め、城内の不穏な動きに焦りだします。

新政府軍ではなく、清正公に負けたのだ

#加藤清正 #熊本 #🙏💓

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とうとう西郷軍は、熊本城の包囲を解き後退を始めました。この時のことを西郷隆盛は後に「わしは新政府軍ではなく、加藤清正公に負けたのだ。」と言い残しています。それほど攻めにくい城だったのでしょう。

一方、北上を始めた西郷軍は、熊本県熊本市北区にある田原坂方面へ向かいます。新政府軍の応援部隊とは、ここで出会いました。この地域は、熊本城方面へ大砲を運べる唯一のルートです。新政府軍にここを突破されては、熊本城に残っている西郷軍の脅威になります。

西南戦争最大の激戦「田原坂の戦い」の幕開けです。この戦いは1か月もの長期戦になりました。降り続く雨、襲い掛かる弾丸、気力も体力も奪われていきます。後に「雨は降る降る人馬は濡れる、超すに越されぬアラ田原坂」という民謡が歌われています。

最大の激戦地になった田原坂

現在、田原坂資料館には、西南戦争で使われた銃や大砲、弾痕の残る家などが展示品として残されています。その中で注目なのが「空中で正面衝突した弾丸」いかに激しい銃撃戦が行われていたかが分かりますね。

長い戦の最中に降り注いでいた雨は、新政府軍に味方しました。西郷軍が使っていた銃は、雨に濡れて使い物にならなくなってきます。しかも、木綿の着物にワラジ姿。体調を崩していく者も多かったようです。

そうして、田原坂の戦いに勝利した新政府軍は、最後の決戦が行われた城山まで西郷軍を追い込みます。ここで、多くの西郷軍は命を落とします。総大将となった西郷隆盛と共に…。

会津藩士が戊辰戦争の復讐のため参戦!

新政府軍に、警視隊の中から選抜された「抜刀隊」という部隊が存在します。この部隊には、戊辰戦争で賊軍とされた旧会津藩士などが多く在籍しています。この旧会津藩士は、戊辰戦争で朝敵という汚名を着せられたため、それを払拭することが目的だったと言われています。

「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら、西郷軍に切り込んでいった旧会津藩士。よっぽどの屈辱だったのでしょう。田原坂の戦いでは、攻撃の要として抜刀隊は活躍しましたが、戦闘に深入りしすぎたため相当の被害を出してしまいました。

ラストサムライとなった漢たち

映画「ラストサムライ」

日本の西南戦争をモチーフに、「武士道とは」を描かれた作品です。渡辺謙さんが演じた「勝元」は、西郷隆盛がモデルであることは疑う余地もないでしょう。

ラストシーンでは、戦に敗れたが奇跡的に生き残ったネイサン・オールグレン大尉が、若き明治天皇に対峙します。この役を演じたトム・クルーズにも拍手喝采です!日本文化に溶け込む難しさが良く出ていましたよね。

さて、天皇の前に勝元愛用の刀を差しだしたオールグレン大尉。「日本最後のサムライの死を、無駄にしてはなりません」と、天皇にその刀を手渡しました。天皇は、ラストサムライの勝元が「どのように死んだのかを教えてくれ」と、オールグレン大尉に問います。

するとオールグレン大尉は、少し微笑みながら、「死に様ではなく、彼の生き様をお教えしましょう」と語るのでした…。

日本に実在したリアル・ラストサムライの生き様

【桐野利秋】維新前は中村半次郎という名で「示現流」の達人でしたが、明治政府でも陸軍少将として活躍していたようです。 小説「人斬り半次郎(池波正太郎:著)」等で暗殺者としてのイメージが強いですが、実際は礼儀正しく心優しい男だったようですよ。

西南戦争では西郷軍の4番大隊指揮長として、総司令を兼ねました。西郷隆盛の最後を見届けた後、勇戦するも額を撃ち抜かれて戦死。享年40歳でした。

【別府晋介】桐野利秋とは従兄にあたり、実の兄弟のように仲が良かったそうです。西郷隆盛を熱く尊敬していた事でも有名でした。その西郷隆盛の介錯をしたのが、別府晋介です。自決を覚悟した西郷に、「お許しください」と叫び首を切り落としました。その後、西郷に続き自決。享年31歳という若さでした。

旧会津藩士からも紹介

【村田新八】上記2名と共に、西郷の最後を見届けた人物。小さい頃から西郷に従っていて、寺田屋騒動後には西郷と共に流罪になった経歴を持ちます。西南戦争では、シルクハットにフロックコートという格好で戦闘に参加していたようですね。西郷の最後を見届けた後、戦死。享年42歳。

【佐川官兵衛】こちらは新政府軍:旧会津藩士です。武勇に優れ薩長から「鬼の官兵衛」「鬼佐川」と恐れられていました。西南戦争では新政府軍の警視隊として従軍し、軍の略奪行為を厳しく戒め、地元民に慕われたという話も残っています。

熊本県阿蘇郡で被弾し、戦死。享年47歳。今も、南阿蘇には数十か所の「佐川官兵衛慰霊碑」が現存。弟:又四郎は、上記の村田新八によって斬られています。

城山に散った西郷隆盛

激しい戦の末、西郷たちは「故郷、鹿児島で死のう」と考えました。城山に着いた西郷たちは土嚢を積み上げ、陣地を作りあげます。そこへ新政府軍からの集中砲火が始まりました。

西郷と生き残りの仲間は、本陣の洞窟前に整列し「潔く前へ進んで死のう」と決意を固めます。城山からの下山途中、仲間は次々と敵の銃弾に倒れていきました。そして、とうとう西郷の体を一発の銃弾が貫きます!

股と腹に被弾した西郷は「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と、別府晋介に語り掛けます。ここで西郷の波乱万丈な人生に幕が下ろされました

西南戦とは、なんだったのか?



西南戦争は、士族の特権確保を手にすることが出来なかったばかりか、政府の財政をさらに悪化させ、一部の資本家が台頭し貧富の差を大きくしていきました。こんな世の中を西郷軍は望んでいたのでしょうか?

当初、西郷隆盛は反乱を起こしたくなかった。しかし、仲間たちの暴走を止められず、自分が先頭に立ち責任者の任を負う。人間の大きさと包容力で、とてつもなく高い評価を集めた西郷隆盛

勝海舟が西郷を想って歌った歌が残されています。「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな」この歌に、西郷の人生が集約されているのかもしれませんね

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