武田軍はなぜ敗れた?長篠の戦いをもっと知るための5つのポイント

長篠の戦いといえば、教科書にも載る有名な合戦ですが、実はその詳細は知らない、なんてことないですか??なぜ起こったのか。勝った要因は鉄砲だけ??合戦に潜む、謎の陰の正体は・・・。長篠の戦いを360°眺め尽くす!!

戦術・戦法の革命 長篠の戦い

武田信玄没後、戦国最強と謳われた武田軍を率いて長篠城に攻め込んだ武田勝頼を、織田・徳川連合軍は見事に破りました。教科書に載るほど有名な長篠の戦いです。ではいったい何故、長篠の戦いはこんなにも有名なのか?それは、この戦いがその後の合戦の戦い方に、大きな革命をもたらしたからに他なりません!!


それが、火縄銃です。長篠の戦い以前にも用いられることはありましたが、火縄銃には大きな弱点もあり、中々主だって用いられることはありませんでした。

そもそも織田信長の領地である尾張の兵はかなり弱いことで有名でした。そんな尾張兵で天下を取るためには、何か大きな秘策が必要だったわけです。そして、信長が練りに練った火縄銃を用いた秘策が、この長篠の戦いで大爆発したわけです!

ポイント① 長篠の戦いにおける武田軍と真田信綱

実はこの合戦の両軍の人数は、武田軍1万5000人VS織田・徳川連合軍3万人でした。数で見ると圧倒的に織田軍有利です。しかも信長が火縄銃を用意していることは、勝頼も知っていました。

だというのに、何故正面から突撃していったのか?それはこの当時の勝頼の立場を知ればよくわかります。

この合戦の2年前、上京中だった勝頼の父・武田信玄が突然病没。勝頼はまだ跡を継いだばかりでした。

その後、長篠に攻め入る前にいくつかの城を順調に落とし、勝頼は自信満々に!さらに、まだ家臣の心を掴みきっていなかった勝頼は、多少不利であっても敵の大将を前にして退くことができなかったんです。そして、なんといっても武田軍には、戦国最強の騎馬隊がありましたので、その力を信じすぎたのでしょうか。

そんな武田軍の中で、一番信長の本陣近くまで攻め入ることができたのが真田信綱でした。

あの真田幸村の叔父に当たる人物です。信綱は非常に剛勇な武将で、鉄砲をかいくぐり、馬防柵を越えようと攻め入りましたが、あと少しのところで羽柴秀吉・柴田勝家らに討ち取られてしまいました・・・。武田軍の中ではまだ若手の信綱でしたが、その実力はかなりのものだったようです。

ポイント② 長篠の戦い 織田家の新戦法「三段撃ち」

実は、火縄銃自体は長篠の戦い以前から使用されることはありました。では何故長篠の戦い以降、この火縄銃が戦を大きく変えたといえるのか・・・。それは信長が編み出した「三段打ち」と呼ばれる戦術です!

当時の火縄銃は、一度撃てば次の弾を込めるまでに非常に時間がかかっていました。信長はその弱点を克服するため、3人一組を作らせ、一人目が打ち、二人目が待機、そして三人目が弾を込める・・・。これで延々と銃を撃ち続けることができるようになったなのです!

と、ここで。信長が何故こんなに火縄銃にこだわったのか・・・。わかりますか?

信長の領地、尾張の兵は・・・・・・めちゃくちゃ弱かったんです!!!!!信長はこの兵の弱さを補うために銃にこだわったんです。

銃を持てば誰でも簡単に人を殺すことができますよね。さらに、相手と離れられる、というのは戦国最強、武田の騎馬兵に対しての恐怖心をかなり和らげることにつながったというわけです。

ポイント③ 長篠の戦いと六芒星の謎とは?

長篠の戦いを描いた屏風は、いくつかあります。その中に、織田信長の近くに謎の人物が描かれている屏風絵があります。その人物の羽織の背中には六芒星が描かれているんです。

六芒星とは三角が二つ重なった、6つの角を持つ星のマークなわけですが、このマークを家紋にしている武将は・・・・・・はい、いません。じゃあ、こいつ誰??この人物が長篠の戦いにおいて、彼らが信長本人のすぐ近くにいる・・・、ということは、彼らは信長にとって非常に重要な人物であったといえます。

ここで少し、織田家のルーツを見てみましょう。織田家の始祖「親真」という人物は、忌部氏の出身だったと言われています。忌部氏というのは、ヤマト王権時代に力を持っていた物部氏ユダヤ家キリスト教徒の一族と親族関係になって、できた一族です。主に祭祀を執り行う家系でした。この忌部氏の家紋が、長篠の戦いで描かれている人物の背中にあった、六芒星なのです。

ではなぜ、武士でもなく、祭祀を執り行う忌部氏の人物が、長篠の戦いの最中、織田信長のすぐ近くにいたのでしょうか?

当時の合戦において、占い的なことはよく行われていました。動き出す日にちや場所を、占いによって決めるということがあったのです。

もちろん武将達もいろんな作戦や考えを練りに練って、多くの家臣と話し合いを重ねて戦の準備を進めていきます。ですが、これは現代で言うゲームなどではなく、自分の命をかけた戦いなのです。負ければ死ぬ。勝っても、全員が生き残るとは限りません。そんな中で、占いに頼ってしまうというのも、当然の流れでしょう。

 

ですので、忌部氏も織田信長をそういう方面で支えていたのではないでしょうか。さらに織田信長と言えばキリスト教を受け入れたことでも有名ですよね?先ほど、忌部氏は物部氏ユダヤ系キリスト教徒の一族の家系だと言いました。そんな感じで、信長と忌部氏は持ちつ持たれつ、といった関係だったのかもしれません。

ポイント④ 長篠の戦い 最強の足軽・鳥居強右衛門とは?

出典:https://ja.wikipedia.org

合戦において注目されるのは、馬に乗り派手な甲冑を身にまとった武将達です。ですが、そんな武将達は合戦に参加している人たち全体の中で、ごくわずか。実際に戦っている兵士のほとんどは「足軽」と呼ばれる一般兵。この名もなき足軽達が命を散らせて戦うのが合戦なんです。

そんな中でもこの長篠の戦いではとても勇敢に戦い、命を散らせていった足軽の記録が残っています。それが、「鳥居強右衛門」という人物です。

彼は武田に攻め込まれた長篠城を守っていた、奥平家の兵士で、当然この時も城の中で戦っていました。しかし城兵はわずか500。対して武田軍はなんと1万50000。まあ勝てるわけありません。

そこでなんとか徳川、そして織田に援軍を求めたいところですが、城の周りは武田軍一色。脱出するのも命がけです。ですがここで手を上げたのが鳥居強右衛門

彼は泳ぎが得意で、城の近くの川に潜り武田の目をかいくぐり、なんとか徳川、織田のいる城へたどり着きます。そこで援軍3万8000が明日にも出発する、という情報を手に入れました。舞い上がった強右衛門はそのまますぐに長篠城へ引き返しました。

ちなみに、長篠城を出発したのが14日の夜中。そこから岡崎城へは65km。その道を、ひた走り、15日の午後には岡崎城に到着。そしてそのまままた戻り、16日の早朝には城の近くまで戻って来ました。この人の体力は一体どうなってんのか・・・。

城の近くまで戻った強右衛門は残念ながら武田軍に見つかり、とらえられてしまいます。そこで援軍の存在を知った勝頼は、強右衛門に「援軍は来ないから諦めろ」と、長篠城の中にいる者達に言え、と命令します。

しかし強右衛門は「援軍はあと少しで来る。それまでの辛抱だ!」と城の者達に叫び、そのまま殺されてしまいました。結局、援軍の存在を知り、強右衛門の死を無駄にはしない!と士気が上がった長篠城は、その後援軍が到着するまで長篠城を守り抜きました。

信長はこの強右衛門の壮絶な死を知り、彼を称えて立派なお墓を作らせた、と残っています。

ポイント⑤ 長篠の戦いの舞台は何県?

ひとくちに長篠の戦いと言っても、武田軍が城を取り囲み、城内の兵士達が必死に抵抗した長篠城での戦いと、織田・徳川連合軍と武田軍がぶつかり合った設楽原(したらhがはら)での戦いに分けられます。有名な、織田信長が鉄砲を使って武田の騎馬隊を打ち破ったのは、長篠ではなく、西に3km離れた設楽原での戦いです。

信長はこの設楽原に流れる連吾川に沿って、馬防柵を築きその後ろに布陣しました。連吾川を堀のように使い、武田の騎馬隊の足を止めたのです。一方で長篠城は、豊川と宇連川の合流地にある断崖に作られた、天然の要塞でした。武田軍が1万5000で攻めたにもかかわらず、苦戦したというのが理解できます。このように当時は、自然をいかに自分の戦術に組み込むかと言うことが、非常に重要でした。

有名な武将を例に挙げると、策士として知られる、真田昌幸(真田幸村の父)は徹底的に地形を調べ上げ、地の利をすべて生かして城を作り、戦うことに非常に長けていました。

長篠城、そして設楽原があるのは現在の愛知県新城市です。設楽原は古戦場になっており、当時の馬防柵が再現されていたり(織田軍と徳川軍では構造が違うので、訪れた際はぜひ見てほしい)、いたるところに史跡があります。それらは駅でいうと、5駅にまたがって広がっているので、すべてを巡るのは中々時間がかかります。当時はそれを馬や自らの足で移動していたのですから、大変さがよくわかります・・・。

このように、実際に現地に訪れてみて初めて感じることや、当時の面影を発見したときは、きっと心躍るはず。ぜひ訪れてみてください。

織田信長、天下統一へ

長篠の戦いの後、多くの家臣を失ってしまった勝頼は、なんとか武田軍を立て直そうとしますが、さらに多くの家臣の離脱により、それすらも困難になってしまいます。結局、長篠の戦いから7年後の1582年、天目山にて息子とともに自害武田家は滅亡してしまいました。

一方信長は、桶狭間で劇的な奇襲で今川を倒し、この長篠の戦いでは信長に対抗する最大勢力と言われていた武田を破り、天下への道を着実に歩んでいくこととなります。織田信長という武将は、合戦に至るまでの準備に非常に重きを置く武将でした。いつ、どこで、どのように戦うのか。考えに考え、徹底的に準備をしていきます。

さらにその考えの奇抜さ、ことを実行する行動力、そしてその奇抜な考えや行動に多くの人を巻き込むカリスマ性・・・。それこそが織田信長という武将の武器だったといえるでしょう。

教科書には表面の、さらに上辺の部分しか載ってはいません。ですが、この長篠の戦いだけでも、こんなにも多くの情報が埋もれていましたよね。調べれば調べるほどに興味が湧く、戦国という時代は本当に面白い時代です。