田中マルクス闘莉王が2度のグランパス退団で味わった屈辱と新たな希望とは?

ブラジル・サンパウロ育ち田中マルクス闘莉王は日本国籍をとった日本代表選手。南アフリカワールドカップでベスト16に入った懐かしき若きサムライのの一人である。代表から離れ名古屋グランパスで活躍していたが、二度の解雇にあっている。引退を噂されたがこの解雇が彼をまたやる気にさせるきっかけになった。その訳とは一体何だったのだろう。

田中マルクス闘莉王、京都サンガに移籍して早速勝利に貢献!

引退はまだまだ!闘莉王はまだ終わっちゃいない。

現在35歳の田中マルクス闘莉王は2017年から京都サンガでプレーしている。名古屋グランンパスと同じJリーグ創世記からある歴史のあるチームだ。グランパスのJ2降格が決まってしまった2016年に、闘莉王はグランパスを去ることを決めたのだった。

引退も囁かれていたが彼がJ2京都サンガでプレーを続ける理由は何だろう。京都とっては闘莉王のような一流選手の獲得は大成功だった。3月12日の試合で彼が怪我のために欠場したのはその大きな証明だっただろう。京都の守備は完全に崩壊しており、試合に負けてしまったのだ。

その前の週の3月4日の白星ゴールが大きな話題となっただけにその悔しさは大きい。開幕からホームで連戦となった京都サポーターの活気は、この日の闘莉王の活躍を確かに予感していた。後半残りわずか、オリスがヘディングで落としたボールを闘莉王が右足でゴールを決めた。彼はさっそく京都を初白星に輝かせてくれたのだった。

闘莉王はやっぱりチームになくてはならない存在。

試合に出なかったのは白星ゴールを決めた後に右足を怪我したからだ。名古屋グランパスでも闘莉王の復帰が勝利に導いていてくれたように、やはり彼がチームにいるだけで勝敗が変わる。新しく変わった布部監督のアグレッシブなサッカーを体現しているのは闘莉王しかいない。12日のゴールはその証明である。

彼の経験値についてこれる選手はまだ新装開店した京都サンガでは期待できない。選手が悪いのではなく、まだまとまりができていないのが問題だ。そんなチームを牽引していくのは間違いなく闘莉王しかいない。加入初日の山形戦で激しくぶつかったファアルはそんな彼の意気込みを感じさせるファウルだった。

かつてワールドカップで起こした巨人ドログバへの激しいファアルを一瞬思い出した。結果は得点の上にPKを献上してしまったが、彼のサッカー人生はまだまだこれからだという生命力を感じさせてくれた。わずか8歳年上の若い監督もそんな彼の意気込みに感動したに違いなかっただろう。

2田中マルクス闘莉王2度の退団。名古屋グランパスで何があった?

グランパス退団の理由はなんだったのか?

浦和の黄金時代を築いた立役者の一人であり、MVPにも輝いた闘莉王。しかし浦和レッズの選手入れ替えによって浦和では退団を迫られてしまったこれは闘莉王にあたたな闘志を燃やさせたきっかけになったのだろう。彼の第二の人生はここから始まったと言って良い。

浦和の次に入った名古屋グランパス、2010年の活躍ぶりは本当にすごかった。「リーグ優勝できなければ、名古屋にきた意味がない」の言葉通り見事グランパスを初優勝に導いた。この時期の闘莉王はまさに絶頂期、FIFAワールドカップでは岡田監督の戦術通り、カウンターサッカーの立役者として活躍し、世界に名を轟かせることもできた。

しかしそんな名古屋グランパスとも、更新契約で揉め始めたのが翌年2011年。減給しておいて慰留を求めた名古屋との見解不一致騒動が起きたのだ。名古屋サポーターに愛された闘莉王だったがすでに古株、新しい選手の登場に尻込みしたのか、退団を決めたのは闘莉王の方だった。

一時ブラジルへ帰国

一回目のグランパスとの交渉決裂によって一時ブラジルに帰っていた田中マルクス闘莉王。この時の減給はなんと一億円もダウンだった。確かにグランパスでは古株であり、成績も後半はまちまちだったこともある。しかし6年間もお世話になったチームにいきなりこんな扱いはあまりにかわいそうだ。

これは紛れもなくグランパスの体制の変化によるものだった。新任になった小倉監督は選手層を入れ替えて経費を計算し直した。闘莉王の年俸はあまりにも高すぎると判断したのだろう。仕方のないことだが、ブラジルに帰りたがった彼の気持ちを察するのはそう難くない。

帰国後しばらく無所属が続いたが、半年して再びグランパスに戻ってきた。多分また名古屋を愛していたからだろう。チームのJ1残留維持に貢献したがまたもクラブとの決裂が起こってしまった。今度の理由は彼自身がチームの降格を決定付けたと責任を感じてしまったからだった。

中学時代はサッカーをやっていなかった?その意外な生い立ちとは?

珍しい経緯でサッカー選手に



ずっと関西のチームでプレーしている田中マルクス闘莉王はサンパウロの出身であるが、祖父は広島の人である。当然原爆の話を聞いて育ったに違いない。学業成績も優秀スポーツも万能という優等生だった彼は父から「自分の人生に責任を持つ人間に育って欲しいと」父から言われて育てられた。

そんな父親の教育で、昼間は会計事務所で仕事、夜は夜間学校という生活。そのために中学時代をサッカーをしないで過ごしてしまった。彼がサッカーを本格的に始めたのはようやく高校へ入ってからである。高校から始めてプロになった選手は日本ではまずいないから驚きだ。

日本の高校サッカーの監督にスカウトされて日本へ初めて来たのが16歳。それまでサッカーはもちろん多少はやっていたが、乗馬、バレーボール、水泳と、本当に様々なスポーツを経験してきた。彼を器用で頭のいい選手にしたのはこんな経験のためだろうか。高校を全国大会に出場させたのも彼のおかげだった。

世界スターのドログバを骨折させた真相は何?闘莉王は詫び状を送っていた!

あのドログバとの激しい接触に何があった?



2010年FIFAワールドカップの仮想カメルーン戦で田中マルクス闘莉王がドログバにファウルしたのは印象的だった。翌年の南アフリカワールドカップに向けた強化試合だったが、今大会でドログバはかなり注目されている選手だっただけに大きく話題になったのだ。

ドログバがボールを受けて進もうとした時に闘莉王が同じ勢いでジャンプしてボールを受けようとしたのがまずかった。あまり避けれなかったドログバの肩か腕に思いっきり膝を打ったのだ。あのスピードでやられたら骨折してもおかしくないレベルの接触だった。

もちろん闘莉王が故意でやったのではなかった。夢中になっていたために何処にぶつかったかすら気がつかなかったという。彼は申し訳なさからその後ちゃんと彼に詫び状を送っている。長身のアフリカ選手にあれだけ当たっていける闘莉王はやはり世界レベルのフィジカルを持っていると証明された試合であった。

ドログバ事件はその後の闘莉王の印象を変えた



2010FIFAワールドカップの面白さは闘莉王をはじめとするディフェンスが活躍した大会だったことだ。それは南アフリカという体格の違う選手たちに大いに健闘できたできたからである。ドログバのファウルだけでなく闘莉王の高圧的なディフェンスはカメルーンをはじめとする南アフリカの出場チームに大いに見せつけた。

4バックが機能したのも真ん中に中澤と闘莉王がいたからである。頭を使いながら相手をオフサイドに誘い込むポジション取りができるのは闘莉王という賢い選手が中心となって守っていたからに違いない。フィジカルだけでなく頭でも相手を追い込んでいたのが彼のすごいところだ。

岡田監督のカウンター戦略はこのディフェンスを持って成功したと言って良い。そこに闘莉王の本当の功績がある。センターバックとしての功績を轟かせたのは日本だけでなく世界にも届いていおり、相手チームの監督や選手は試合後に揃って闘莉王の活躍を褒め称えた。

田中マルクス闘莉王の結婚相手は金髪美女。いったいどんな人?

意外に知られていいない闘莉王のお嫁さん

闘莉王は名古屋の二度の退団で度々ブラジルに帰りたがったが、その理由にはブラジル人の奥さんへの思いもあったからであろうか。第一子を出産したばかりの妻アリエルさんは名古屋退団時に「相当怒ってるね、説得どころじゃない」そうメディアに告げていたが印象深い。

奥さんとは2016年三月に結婚したばかりである。退団ご一時ブルジルで一家の所有するというガソリンスタンドの経営をしながらブラジルの一部リーグの契約交渉を進めていたという闘莉王。妻と子の生活を考えての怒りもあったのだと思う。

グラマラスな奥さんもブラジルの人らしく、明るく積極性が強いため、きっとグランパスのこんな扱いにJリーグに不満を持ってしまったかもしれなかったが、闘莉王自身の反省と京都サンガ復帰でとても安心した。家族とともに日本で気持ちよく生活していただきたいと思う。