【壬申の乱】元祖関ヶ原の合戦?古代日本最大の内乱を知る!

歴史は繰り返す!古代日本最大の内乱とされる「壬申の乱」。それは古代における天下分け目の決戦であり、主な戦場は何と関ヶ原周辺!勝者が変われば歴史が変わった日本史上重要な決戦に迫ります。

壬申の乱っていつ?何時代に起きたの?

壬申の乱とは?



壬申の乱は、西暦672年に起こった日本古代史上最大の内乱と言われる文献の少ない時代の謎多き戦いで、天智天皇の弟の大海人皇子(天武天皇)と天地天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)が天智天皇の亡き後の皇位をめぐって争った戦いです。

内乱で勝利した大海人皇子が天武天皇として翌年に即位し、律令体制の基礎を固めるなど、天武天皇の治世はその後の奈良時代以降の基礎となったため、日本史上重要な転換点となる戦いと位置付けられています。

壬申の乱の起きた時代

壬申の乱は西暦672年7月24日(和暦天武天皇元年6月24日)大海人皇子の吉野脱出から8月21日(和暦から7月23日)の大友皇子の死亡までの約一ヶ月を指します。干支で672年が壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることから壬申の乱と呼ばれます。

時代区分でいうと、古墳時代と奈良時代の間の飛鳥時代ですが、飛鳥時代の中でも大化の改新から平城京遷都までは特に白鳳時代とも呼ばれます。また壬申の乱を境目に、白鳳時代も前期後期と分けることができます。

壬申の乱はなぜ起きた?

壬申の乱はなぜ起きたのか?それは時代の流れやそれぞれの思惑が混ざり合い必然的に起きた戦いでした。4つのポイントで解説していきます。

1.皇位継承争い

いつの時代も地位や権力を巡り争いがありますが、この時代も有馬皇子の変や大津皇子の変など、皇位継承を巡って一族での血で血を洗うようなできごとがたくさんありました。

大海人皇子は天智天皇の実弟であり片腕として活躍し、豪族たちの信頼も厚い有力な皇位継承者でした。天智天皇が大友皇子を太政大臣に就けて後々天皇にしたいという空気を感じると、謀反の意思がないことを示すために出家し吉野に引きこもりました。

もし大友皇子がそのまま天皇になっていたら大海人皇子とその子供たちの命もどうなっていたかわかりません。「やられる前にやれ!」の気持ちを大海人皇子、大友皇子双方が持っていた可能性は十分にあります。

2. 天智政権への不満

大化の改新以降天智天皇は公地公民制や律令の制定、租庸調などの税制改革など様々な改革を推し進めようとしました。天智天皇の次の天皇は抵抗勢力にとって都合のいい人物であることを願っていたに違いありません。

また飛鳥から近江京への遷都も、豪族や民衆から不満が多かったと言われています。そして、663年の白村江の戦いの軍備の負担と、その敗戦により唐新羅が逆に攻めてくるかもしれないという脅威とそのための防衛の負担ということも政権へ不満材料として大きくありました。政権への不満が戦乱への火種となったかもしれません。

3.改革の推進

天智天皇の改革は抵抗勢力にとっては不満でしたが、もちろん改革推進派も多くいました。大海人皇子はその後の政策を見る限り、天智天皇の行っていた改革をさらに前進させているため改革推進派であったと考えられます。

大友皇子は改革に対してどう思っていたかは実質的な統治期間がなかったためわかりません。しかし、大海人皇子が天皇位に就いた場合改革を進めていくことが明らかな状況で、抵抗勢力である旧来の畿内豪族にとって大友皇子を旗頭にしていくしかありませんでした。

また政治経験や大化の改新のような政変の経験も少ない若者として、抵抗勢力にとっては扱いやすいと思われた可能性もあります。このように改革派と抵抗勢力の戦いという構図も見えてきます。

4.女性関係~歴史が動く陰に女性あり!?~

天智天皇と大海人皇子は当代一の歌姫と言われた額田王を巡って三角関係だったという説もあります。額田王は大海人皇子の妻で十市皇女も生んでいる人物ですが、天智天皇が目をつけて自分の娘を嫁にやる代わりに額田王をよこせということを大海人皇子に言ったとか・・・。

結局殺されたくなかったので、額田王を天智天皇に渡したと言われています。さらに、十市皇女は大友皇子の妻になるのですが、十市皇女は異母兄の高市皇子と恋仲であったというから、また話がややこしくなります。彼ら親子兄弟によるドロドロの関係を昼ドラ化したら面白いかもしれませんね。

大海人皇子軍と大友皇子軍

以上のように様々な要因が複雑に絡み合い両軍ともに戦争の準備を進めていきました。大海人皇子軍は、元々近い関係にあった美濃などの地方豪族の軍を主力部隊とし素早く要所を押さえ、また大伴吹負など畿内の軍勢も味方になり、そして栗隈王など大友皇子軍に手を貸さないという間接的な方法で支援する者もおり、次第に有利な状況となっていきました。

大友皇子軍は、天智天皇の陵墓を作るという名目で地方から事前に兵士を集めたり、畿内豪族中心の朝廷軍を編成しました。 しかし、東国の軍は不破道を押さえた大海人皇子軍に阻まれ、西国の軍は朝鮮からの防衛を名目に出兵を断られ、飛鳥の朝廷軍は大伴吹負に指揮権を奪われるなど思うように軍勢を集めることができなかったようです。

壬申の乱の流れ


教科書にも載っているような壬申の乱の前の主な出来事を見てみると、645年に天智天皇と中臣鎌足が活躍した大化の改新(乙巳の変)、663年に朝鮮に出兵し大敗を喫した白村江の戦い667年に近江京(大津宮)遷都、668年近江令の制定、庚午年籍の作成(日本初の戸籍)、このような時代の流れの中で壬申の乱は起きたのです。

壬申の乱の経過(乱勃発まで)

天智天皇は660年代に大海人皇子を皇太弟(皇太子)としており、大海人皇子を後継者指名しているような状態でした。

しかし、西暦671年に天智天皇はまだ23歳であった大友皇子を太政大臣の位にし、大友皇子を後継であるという意志を見せ始めます。そこで、大海人皇子は身の危険を感じ大友皇子を皇太子に推薦し出家すると吉野に隠居します。

その後、天智天皇は蘇我赤兄らを側近として指名し、大友皇子のことを託し崩御すると、大友皇子は天智天皇の陵墓建設などを名目に飛鳥に兵を集め出し、戦乱の気配は高まっていったのです。

壬申の乱の経過(乱の勃発)

6月22日に、大海人皇子は村国男依らを集め、大友皇子を倒すことを宣言し、美濃に行って多品治に挙兵させることや、不破道を塞ぐことなどの指示を出します。そして6月24日に大海人皇子は妻子や側近30数名を連れて吉野を脱出します。この日が壬申の乱の発生の日とされています。大海人皇子の軍勢は勢力を増やしながら、要所である鈴鹿道、不破道を抑え、数日かけて関ヶ原まで到着し、朝廷側も大海人皇子が吉野を脱出し東国(三重)まで到着していることが知り各地に出兵要請の使者を送ります。

壬申の乱の経過(終結まで)

6月29日には大伴吹負が大海人皇子に呼応し、飛鳥で挙兵。穂積百足を殺し飛鳥を占拠すしました。この後難波方面からの朝廷軍と幾度も戦闘を重ねます。7月2日には大海人皇子軍、近江方面と大和方面に出陣し、琵琶湖の東側と北側から進軍し次々と朝廷軍を破り近江京へと迫っていきます。そして、7月22日、瀬田橋を挟み、東側に大海人皇子軍、西側に朝廷軍が対峙し、壬申の乱最大の決戦が行われました。この激戦の結果、大海人皇子軍は朝廷軍を破り、乱の勝敗がほぼ決定づけられました。また大伴吹負も難波まで進軍し朝廷軍を破ります。翌日の7月23日に敗戦で覚悟を決めた大友皇子が首を括って自殺し戦争が終結しました。そして、朝廷側に付いた豪族たちも次々と捕えられていきました。

壬申の乱の経過(乱終結後)

勝利した大海人皇子は大友皇子側の豪族たちを配流などの処分を行い、翌年飛鳥にて即位し天武天皇となりました。乱で反対勢力を一掃するとともに、壬申の乱の功績を称える論功行賞を行い側近の豪族の地域を高めることで、天皇親政と皇親政治を確立し、大化の改新以降の改革を推し進めていくことになるのです。

壬申の乱の勝者は?

壬申の乱の勝者はもちろん大海人皇子ですが、大海人皇子が個人的に皇位継承争いに勝ったというよりも、飛鳥時代までの体制から奈良平安へと続く体制への分岐点として、生き残ったり勢力を拡大したものがこの合戦の勝者であったと言えます。

一番の勝者は皇族!

大化の改新以前の政治体制は畿内有力豪族の合議制であったと言われ、古くは葛城氏、その後は大伴氏、物部氏、蘇我氏などが実権を握っていたとされます。大化の改新で蘇我氏を打倒し、大きな力を得たかに見えた天皇家でしたが、まだまだ有力豪族の影響力は大きく、左大臣に阿部内麻呂、右大臣に蘇我倉山田麻呂が就き、旧来の体制とあまり変わっていない状況でした。

天智天皇も皇族中心の政治を試みましたが、左右大臣、御史大夫など旧来の豪族で固められていたところを見ると理想通りの政治が出来ていなかったと思われます。

壬申の乱で大友皇子側に付いた畿内豪族の力を削ぐことで、天武天皇は要職に自分の息子や皇族を配し、皇親政治を実現し、現在まで続く天皇制が確立されました。ですので、壬申の乱の一番の勝者は皇族と言えます。

勢力を伸ばした地方豪族

出典:https://upload.wikimedia.org

壬申の乱では美濃の豪族が活躍しました。例を挙げると、多品治は、不破道を塞ぎ、莿萩野の防衛をするなど活躍し、朝臣の姓を与えられ、子の太安万侶は古事記の編纂に関わるなど、一族が朝廷で活躍するようになりました。村国男依は、主力軍を率い朝廷軍を破る功績をあげました。子の志我麻呂も従五位上まで昇進し中級貴族としての地位を確立しました。このように中央での地位を確立した地方豪族も勝者と言えます。

勢力を維持した畿内豪族

蘇我氏など元々の有力豪族が影響力を失った中、勢力を維持または伸ばした畿内豪族もいました。紀氏は、大和朝廷古くからの有力豪族ですが、蘇我氏などよりは格下という立ち位置でした。

紀大人は先に書いたように、大友皇子の側近の一人でしたが、乱後の処遇を見ると、大海人皇子側に付いたようで、立ち位置を現状維持することができました。

子の麻呂が正三位大納言になったり、曾孫の橡姫は光仁天皇の生母であるなど子孫が繁栄しましたが、壬申の乱時に処罰対象になっていたら子孫は途絶えているか、ここまでの地位を得ることができなかったと思われますので、壬申の乱時に上手く立ち回った畿内豪族も勝者と言えると思います。

壬申の乱は関ヶ原の戦いでもあった!?

出典:https://upload.wikimedia.org

壬申の乱の戦場は、大阪、奈良、滋賀と近畿一円に渡ります。中でも大海人皇子の主力軍と大友皇子の主力軍が激戦を繰り広げた戦場がなんと関ヶ原でした。

東西の境い目として、また大軍が集まりやすい広大な平地として昔から重要な地だったようです。また大海人皇子も徳川家康も桃配山に本陣を置きました。

これは徳川家康が壬申の乱の勝者大海人皇子にあやかって同じ場所を選んだとも言われています。 2つの戦いは千年近く離れていますが、その歴史的な意味も大きく似ている戦いでした。まさに「歴史は繰り返す!」ですね。

天下分け目の合戦

どちらのも戦いに至る経緯が似ており、天下人(天智天皇豊臣秀吉)の死をきっかけに、大海人皇子=徳川家康、大友皇子=豊臣秀頼(建前上中立ですが)の東西両陣営に分かれておきました。

また、朝鮮半島に出兵し敗北するという外交上の危機という状況も一致します。そして壬申の乱は大化の改新を経て古代大和王権から律令体制へ、関ヶ原の戦いは鎌倉室町時代から戦国の混乱を経て幕藩体制へと時代が大きく変わる日本歴史上の大きな分岐点となる天下分け目の合戦でした。

もし大友皇子側が勝っていたら!?

壬申の乱を題材に、手塚治虫の火の鳥太陽編や井上靖の額田王などがあり、また現在も中村真理子の「天智と天武」があります。謎の古代大戦を舞台に今後も様々な作品が期待されます。もし、大友皇子が勝っていたら!?天智系と天武系による古代戦国時代の勃発とか・・・歴史物定番のif作品に今後も注目ですね!!

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