【日中戦争】泥沼化はマロの仕業?日本が追い込み過ぎちゃった説を検証してみた!

日本の近代史を語る上で、非常に重要な位置付けとなる日中戦争。日本と中華民国のみならず、欧米列強の思惑も入り乱れたこの戦争を、その経緯を追いながら独自の視点で検証してまいります。

そもそも日中戦争の原因って何?

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日本の近代史において、その泥沼っぷりがあまりにも有名な日中戦争。「なぜ泥沼状態に陥ったのか?」は後述するとして、まずはその原因。きっかけとなったエピソードを探って行きましょう。

人によって主張が分かれる場合もありますが、一般的に言われるのは1937年7月の盧溝橋事件でしょうか。盧溝橋とは、今で言う北京市の中心部からさほど遠くない場所にある、永定河に架かる橋のこと。

現在その付近には抗日記念館もあるようで、Googleマップでも確認出来ます。なので、お暇な時にでもどうぞ(笑)。その盧溝橋付近で日本軍が夜間演習していたところ、2発の銃声が鳴り響き、軍事衝突に発展したという事件。

衝突の相手は、付近にいた中国国民党軍。ただ、どうもキナ臭いのです。日露戦争後の日中関係が既にガチャガチャしており、日中双方ともかなり緊張が高まっていましたからね。そこらへんも大いに関係あるかな~と。

実際、当時の現場はちょっとした偶発的な事件でも衝突につながりかねないテンパり方。更にそれだけでなく、ソビエトの支援を受けていた共産党が抗日活動を活性化しており、日本人をターゲットにした事件を多発させていました。

そのような、どこからでも疑える状況の中で起こった銃声なんですよね。本当は国民党じゃなく、共産党の仕掛けた罠なんじゃないの?なーんて主張をする人もいるぐらい。確かに、さもありなんと言ったところ。

とはいえ、当時の背景から思うに、日露戦争以降のいざこざを含む『積もり積もった日中間の緊張が暴発した』と考えるのが自然かと思います。その事件を結果的に引きずったのが更なる問題に発展した、と。

なぜ宣戦布告ナシ?日中戦争=支那事変の怪



衝突にこそなりましたが、日中双方とも一旦矛先を収める約束をします。一応、日中とも派兵して総員を増やす等のことはしたのですが、現地で停戦協定という運びに。ところが、そう上手く事は収まりません。

この時点では、両者とも本格的な戦争にしたくないという意志が垣間見えます。それもあっての停戦なのですが、その後も中国軍と日本軍の衝突は逐次発生。遂に局面は全面衝突へと発展してしまうのです!

ここまでの経緯を見て、「アレ?」と思う方もおられるでしょう。そうです。全面的な軍事衝突になってしまったのに、宣戦布告がされていないのです。やっていることは、完全に国家同士の戦争なのに・・・?

しかも、お互い示し合わせたかのように布告しておりません。つまり、日本側にとっても中国側にとっても、宣戦布告は都合が悪かったのです。その理由は間違いなく、1935年にアメリカで制定された中立法でしょう。



例えば、A国とB国が戦争をしているとしましょう。それに対し、アメリカ大統領が「A国とB国は戦争状態にある」と宣言すると、それらの国に対し武器や物資の輸出を禁じる法律が『中立法』なのです。

宣戦布告してしまうと、公式に戦争状態として扱われます。なので、アメリカにエネルギーを依存していた日本は、その輸入を止めれられる可能性が。中国にしてみても、アメリカからの軍事支援を打ち切られる可能性があったのです。

ですから、お互いに「布告だけはやめましょうね」的な空気があったとか、なかったとか。更に言うと、日中戦争は1941年12月まで『戦争』ではありませんでした。『支那事変』等の名前で呼ばれていたのです。

その理由が、“宣戦布告していなかったから”。日本では、宣戦布告してはじめて公式に『●●戦争』というネーミングになります。なので、布告していない状態では『●●事変』という呼び名が公式なんですよね。

結果を急いだ?日中戦争が泥沼化した4つの理由とは?



そんなこんなで、事実上の全面戦争状態を「戦争なんてしてませんけど何か?」顔で乗り切ろうとする日中両国。とは言えど、当初はお互いに戦争拡大を望んでいなかったのも確かです。

日本軍は強く、蒋介石率いる中国軍は退却に退却を重ねました。当時首都だった南京を落とされ、大陸を奥地へと敗走。重慶に拠点を置き、そこを首都と宣言してネバーギブアップをアピールします。

それを追いかける日本軍は当然疲弊。進軍しようにも、結局はマンパワー。中国はあまりにも広すぎるのです。当然ながら戦闘は長期化で泥沼一直線。では、なぜここまで苦戦することになったのか?そのポイントを挙げてみましょう。

中華民国を過小評価

開戦当初、陸軍を中心に「中国なぞ短期でカタをつけてやる」という意見が強かったのも理由のひとつ。簡単に言うと、ナメていたのです。「どうせ蒋介石なんて、すぐギブアップするんでしょ?」ぐらいの甘い気持ちがあった様子。

特に、1931年からの満州事変がアッサリ成功したことも、その論調にかなり影響したのでは。当時、陸軍は相当な影響力を持っており、『軍部大臣現役武官制』のおかげで内閣を倒せる力さえ持っておりました。

もう総理大臣は、軍のイエスマン的な立場だったのです。日本をその後の戦禍に巻き込んだのも、これが大きく影響したと言えるでしょう。世界中どの国であっても、軍に政治的な力を持たせるのは本当に危険なのです。

やりすぎ要求で窮鼠猫を噛む

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致命的だったのは、第一次近衛内閣が蒋介石に突き付けた要求。元々、短期決着を目論んでいた日本は、南京を落とした時点で講和しようとします。敗北を認めさせて日本に有利な条件を飲ませ、戦争を終わりにしようとしたんですね。

ところが、蒋介石はギブアップしません。そこで内閣総理大臣であった近衛文麿がやっちまった一手が、『第一次近衛声明』。簡単に言うなら、「もう蒋介石の政府なんか相手にしないよ」というヤツなのです。

これは大変です。なぜなら、和平工作の打ち切りを意味するからであります。完全に中国を突き放し、更なる追い込みをかけるゾ!という宣言なのです。これに蒋介石は逆ギレ。徹底抗戦を決意し、戦争は長期化の一途を辿ることに。

まさかの国共合作

ソビエトの支援を受け、蒋介石の中国国民党軍と内戦を繰り広げていた共産党軍。当時の実力は、まだ国民党軍に及ばないレベルだったのですが、中国国内の混乱を生む内戦は日本にとって都合のいいもの。

蒋介石が日本に対して力を割き切れなかった理由でもあるのですが、そんな両者がなんと打倒日本を目指して一致協力というまさかの展開。これで内戦に区切りをつけ、抗日戦に注力出来る態勢が整ってしまいました。

やっかいなのは、ソビエトが共産党を支援していたという点。戦闘の相手が国民党から日本に替わるということは、ソビエトの支援目的も打倒日本に替わるということ。正直、明らかにソビエトの支援は効いていましたからね。

列強たちがこっそり支援

そのソビエト連邦だけではありません。日本と防共協定を結んでいたはずのドイツまで、裏から中国を支援します。表向きは日本との同盟国顔をしながら、実際は中国に対して軍事顧問の派遣や武器の輸出をしていたのです。

これはアメリカも同様。武器の輸出や武官の派遣はもちろんのこと、日本に対しては石油輸出をストップし、その体力を削ぐ作戦に出ます。これだけ大国に支援されれば、あれほど敗走を続けていた中国軍だって戦えちゃいますよね。

日中戦争の目的に後付け感が漂う件…

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戦争というのは、必ずその目的が必要です。なぜなら、戦争というのは戦争目的を達成するための戦いであるからです。そうなると、戦争目的は開戦前に存在するのが当たり前ですよね。

なのにこの日中戦争、ちょっとオカシイのです。なんと、開戦後1ヶ月以上経過した1937年8月中旬に戦争目的を発表という謎。こんなに遅いってことは、完全に後付けじゃねーの?ってことになっちゃうわけです。

本当のことを言うと、これは歴史的に重要な事実。なぜかと申しますと、戦争目的を用意していなかったということは、元々日中開戦なんてする気がなかったことの裏付けでもあるからです。

日中戦争は、「ボタンの掛け違いで発生した軍事衝突であり、それがこじれて戦火拡大となった」というのが、ぶっちゃけた話。総理大臣だった近衛文麿のやり方や陸軍の動向次第では、ここまで泥沼にはならなかったかも・・・?

日中戦争の勝敗って結局どうなった?



この後、日本は取り返しのつかない方向へ進むことに。そうです、日米開戦です。これは蒋介石にとって神風とも言える展開。膠着状態とはいえ、追い込んでいた日本が大国アメリカと戦争してくれるってんですから。

事実、真珠湾攻撃の翌日1941年12月9日、蒋介石はようやく日本(及びドイツイタリア)に宣戦布告します。この時点で、支那事変と命名されていたこの戦いは、日中戦争へと名称を変更。

そして、アメリカ・イギリス・オランダとの開戦にあたり、大東亜戦争(太平洋戦争)とも呼ばれるように。この時点で、日中戦争は大東亜戦争の一部のような位置付けになります。

凄いものに出会った… #軍隊手帳 #昭和十八年 #支那事変 #爺ちゃん

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ただ、そうなりますと、問題はその勝敗。最後に日本はギブアップし、敗戦国となります。中国に対して直接ギブアップしてはおりませんが、日中戦争を大東亜戦争の一部とするなら、日本は中国にも負けたという考え方も可能。

実際のところ、中国は国際的な立場では戦勝国となっています。そのようなことから、日本は勝負にこそ負けていないけど、戦争法上は負けたという形でしょうか。ここらへんの解釈は、人それぞれありそうですね。

日中戦争の教訓!交渉には落とし所が必要だ

勝負ごとの神さんらしい献燈Σ(-᷅_-᷄๑) #支那事変 #太郎坊宮

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相手をナメ、余裕の短期決戦と見込んでいた当時の日本。それだけに講和を焦り、相手が承諾しないと見るとひたすら追い込みをかけようとする悪手。これじゃあ、まとまる話もまとまりませんよね。

どんな相手との交渉でも、最後の落とし所だけは用意しておくのがオトナの常套手段。そうすることにより、相手はスッポリとそこに嵌ろうとするものです。そういう意味では、ちょっと稚拙だったんじゃないかな~と。

これは、現代社会における対人交渉術としても、反面教師とすべき教材。いやはや、まさか日本史から交渉術を学ぶことになるとは・・・(汗)隣人たちとの平和的な関係を築けるよう、我々もこの事例から学んでいきたいものです。