【大坂夏の陣】敗因は淀君!負けを決定付けた4つの理由を検証

やはり女性の淀君には荷が重すぎた!秀吉亡き豊臣家の最後の戦い「大阪の陣」の敗因を検証しました!

まずは簡単に「大坂の陣」を説明します!

「大坂の陣」とは江戸時代初期に行われた2つの戦いのことです。「大坂冬の陣(1614年11〜12月)」「大坂夏の陣(1615年4〜5月)」この2つの戦いををまとめてそう呼びます。どちらも舞台は大坂城です。

この戦いで、当時、関ヶ原の戦いを勝利して天下統一を成し遂げた徳川家康が最後の脅威であった豊臣家を徹底的に攻め滅ぼし、戦国の世に幕を下ろしたのです。豊臣家の存亡をかけた戦いでもあったんですね。

豊臣家の敗因は4つ!その一つ一つを検証!

大坂夏の陣の豊臣家の敗因は大阪城の堀を埋めたことが敗因だったとされています。でももちろんそれだけはないんです。そこに至るまでに根本的な大きな要因が他にもあるんです。大きく4つに分けてみました。

その1 豊臣家には最初から有力な味方がいなかった

大坂の陣が行われた頃、徳川家康は天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」を勝利して江戸幕府を開いていたんですね。ですから、世の中もすでに天下人は徳川家康!という流れになっていた訳です。

各地の大名も、権力のあるものに従おうとするのは当然ですよね。ですから今更豊臣家に加勢しようという大名はいなかったんです。参戦した者の多くは関ヶ原の戦いで領土を没収されて浪人となっていた真田幸村、長曾我部盛親などです。

集まったのは約10万人。結構凄い数のように思えますよね。でも結局は烏合の衆に過ぎなかったんです。討つ敵は同じでも寄せ集めの10万人では足並みも揃わず、上手く指揮も取れなかったんですね。

その2 父、秀吉とは対照的に優秀な人材に恵まれなかった

秀頼の父はあの豊臣秀吉です。秀吉といえばとても頭が良く、人望があり、そして人を使うのが非常に上手な人物ですよね。自分に足りない能力は優秀な人材を探して補っていました

そんな父を持つにも関わらず、秀頼は母・淀君の言いなりになっている無能な人物だと言われていますよね。秀吉は秀頼を相当溺愛していたようなのですが、秀吉が亡くなった時は秀頼はまだ5歳だったんです。

当然、秀吉の人たらしと言われる人心掌握術も戦術も学ぶ機会などありませんよね。だから秀吉の子でありながら、秀吉の能力を充分に受け継げなかったんですね。実は秀吉の子ではなかったとの説もありますが、どうなんでしょうね。

その3 淀君には荷が重すぎた

大阪の陣は大阪冬の陣、夏の陣と二度行われています。冬の陣の時にはみなさんご存じでしょう真田幸村の「真田丸」の活躍で一時徳川軍に大打撃を与えました。この一件で徳川家康は和平交渉に切り替えたほどです。真田幸村、大活躍ですね!

一方大阪城に籠城する形で応戦していた豊臣側も、連日昼夜問わず撃ち込まれる砲弾に兵士たちも疲労困憊していました。何より豊臣側で主導権を握っていた淀君が怯えきっていたんですね。そんな訳で両者一致で和睦が決定して冬の陣は終結しました。

その4 見識が甘い!急ぎすぎた和睦が大敗の大きな原因

徳川側、豊臣側の両方に打撃を与えた冬の陣の後の和睦で双方で取り決めがなされました。まずは大阪城の「真田丸」を含め、堀を埋め立てて二の丸、三の丸を撤去すること。豊臣側の領地の補償と秀頼と淀の身の安全の保証

そして豊臣側の浪人たちの罪は問わないこと。冷静に考えれば冬の陣は豊臣家を徹底的に潰そうとしていた徳川にそうさせなかったのですから、相当徳川側に打撃を与えたとわかります。ここで軍の士気を上げ、豊臣側はもう少し強気に出ても良かったかも知れません。

大阪城は堀で守られた城です。堀を埋められれば守備力が一気に低下するのです。約束では内堀は豊臣側で埋め立てて良いとされていましたが、結局は内堀も徳川側の手でさっさと埋められてしまい、大阪城は丸裸状態にされています。秀頼と淀の身の安全は保証すると言ってもこれでは説得力ないですよね。

外堀だけでなく内堀までちゃっかり埋めてしまう家康の「狡猾さ」と、身の安全は保証すると言われても守備力を奪われた状態になってしまった秀頼と淀の「甘さ」が見える和睦ではないでしょうか?

家康VS秀頼 そもそも経験値が違いすぎ!

家康と言えば「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」忍耐力があり、機を読むのが得意な人物ですよね。天下を取るまでに織田信長、豊臣秀吉といった能力のある人物の側でその動向を観察しながら色々と学んでいた事でしょう。

しかも大坂の陣が起こった当時家康は71歳、秀頼は21歳、とかなり年齢が離れていますね。当然、家康の方が実践経験が多いわけです。こう言った実践経験の浅さは本来ならば優秀な家臣で補われるべきものです。秀吉に竹中半兵衛が付いていたように。

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でも、秀頼にはそれが叶わなかったんですね。だからそもそもの経験値が違いすぎました。大坂冬の陣で真田丸の存在によって体制を崩され和平交渉に切り替えた家康ですが、その時からすでに外堀だけを埋めると言いながら内堀も埋めてしまおうと考えていたのかもしれませんね。

一旦体制を立て直して機を伺い、一気に噛み付く家康。それを見抜けなかった、女性だった淀君とまだ21歳でしかも有能な父を早くに亡くしてしまった秀頼、徳川と豊臣には明らかな力の差が根本にありますね。

戦国武将たちの見識の深さに感服…

戦国武将たちの名言の多くが現代の実社会に用いられるように、彼らには見本にすべき生き方がありますよね。日本の歴史を追っていると、当時生きた人々が多方面に目を向け、知恵を絞り生きていたことがわかります。

それは野望だけでなく「生」に対しての貪欲さでもありますね。時に懐柔され、または寝返り、ついにはのし上がり、先手を打って政略を練ることもあれば機を伺い静かに身をひそめることもある。実に柔軟ですね!

一番見習いたいのはこういった見識の深さと柔軟さですよね。先を見極めてそれに対して柔軟な行動をとる。それが戦国武将たちなんです。本当にすごいですよね。日本史に触れるとそんな武将たちの見識の深さにいつも圧倒されます。