大坂夏の陣の真相!六武将の死に際からわかる人生のターニングポイントとは

戦国最後の大戦・大坂夏の陣で活躍した六武将にスポットを当て検証します。天下人徳川家康をはじめ、赤備え・真田信繁、槍の後藤又兵衛など多種多彩な彼らの人生のターニングポイントと紐解きます!

大坂夏の陣の始まったキッカケって何?


出典:https://ja.wikipedia.org

豊臣秀吉の死後、影響力を強める徳川家康を憎々しげに思っていた豊臣家忠臣・石田三成は大軍を率いて戦いを挑みます。が、あえなく敗北。家康が行った論功行賞により、豊臣家の力を削がれていきます。

三年後、家康は征夷大将軍に就任、武士の頂点に君臨します。人質から始まった苦労の日々が報われた家康さんです。2年後将軍職を息子・秀忠に譲ることで天下人は代々徳川家が引き継ぐものと全国の武将たちに見せつけます。

①太閤の忘れ形見・秀頼との会見!

慶長16年(1611年)家康は成長した秀吉の忘れ形見・豊臣秀頼と会見します。17歳に成長した秀頼は二条城において69歳老齢、家康と対峙することになります。

一説によれば秀頼は大柄な人物で、その上、頭脳明晰であったと言われています。例えるならモデル出身の東大医学部と言ったところでしょうか。なんか鼻につきますが、そんな人物を目の当たりした家康の心情は読み解くなら・・・。

「あぁ、やばいなコイツをなんかイラッとくる・・・」的な感じでしょうか。どこかのお偉いさんが言っていましたが、男性の方が嫉妬心が強く女性よりもネチネチ陰湿だそうです。

このときの家康の脳裏には成長を遂げた秀頼が、後の徳川家を滅ぼす姿が見えていたかもしれませんね。家康が秀頼よりも先に死んでいたら、現実にそうなっていたかもしれません。

織田信長の息子たち(信雄・信孝)のように扱いやすい阿呆なら家康も豊臣家を滅ぼす所まで考えなかったのでしょう。才気の片鱗を見せてしまった時点で豊臣家の行く末が決まってしまったのかもしれません。

②方広寺鐘銘(しょうめい)事件!

慶長19年(1614年)豊臣家が再建した方広寺大仏殿に梵鐘(ぼんしょう)が完成します。除夜の鐘で用いるの釣鐘(つりがね)をイメージしてください。その梵鐘に刻まれた銘文に家康はイチャモンをつけます。

有名な「国家安康」事件ですね。家康の名を安の文字で分断し、呪いをかけたのではないかという疑いに豊臣家は必死に弁明しますが、家康は取り合おうとしません。八方ふさがりの豊臣の人達に残された選択肢は限られていたことでしょう。

そして家康の狙い通り、豊臣家は安易な解決策へと突き進んでいきます。徳川家を倒し再び豊臣家に栄光を取り戻す!家康を打てばすべて上手くいくと・・・。過去の栄光にしがみつく人間の末路は皆共通しています。

ついに豊臣家と徳川家の最終決戦・大坂の陣へと突き進んでいきます。ちなみに戦のきっかけとなった方広寺の鐘の銘文ですが、破棄されることなく現在もそのまま現存ているとのこと。

「なんだかなぁ・・・」と阿藤快さんの口癖が脳裏に浮かびます。

真田信繁(幸村)家康に追い詰めた日の本一の強者!

真田信繁(幸村)のプロフィール!


安土桃山時代に活躍した武将です。物語の中では真田幸村という名で広く知られていますが、信繁が正しいとのこと。幸村の名に愛着がある人達にとったら、今さらという感じでしょうか。

軍略家の真田昌幸の次男として生を受けた信繁。若いころから戦国の世に倣い、上杉家に人質となったり、豊臣秀吉の馬廻(うままわり)衆としてお傍に仕えたりと若いころから苦労しているようです。

主君秀吉が死に慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いが勃発。父昌幸とともに西軍に味方した信繁は、東軍の旗頭・徳川家康の三男秀忠と居城上田城で相対します。

真田軍の兵力は2千500に対し秀忠の兵力は3万800010倍以上の兵力差と言われています。圧倒的に不利な状況でしたが、真田軍を少数の手勢を巧みに使い、秀忠軍を翻弄し足止め成功します。

秀忠は天下分け目の関ヶ原の戦いに間に合わず、父家康は激怒!この戦いが初陣だった秀忠にとっては苦い経験で、真田憎しという感情を秀忠を持ったことでしょう。

関ヶ原の戦いは東軍徳川家康の大勝利。西軍に味方した真田父子は今の和歌山県にある九度山という辺鄙な場所へと流されます。大坂の陣が勃発するまでの14年間、ここでの隠遁生活が始まるのです。

大坂冬の陣勃発!鉄壁真田丸にて徳川勢を撃破!

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件で徳川家と豊臣家の関係が悪化し、豊臣家は戦の準備を開始します。大勢の浪人たちを雇いいれるとともに、徳川家に勝利したことのある真田信繁(幸村)に白羽の矢が立つのです。

同年12月・大坂冬の陣が勃発、信繁は大坂城の南側に真田丸という出城を構築します。前方に軍を敷いていた前田勢は真田勢の挑発を受け、攻撃をしかけます。真田勢は火縄銃などで応戦、前田勢に多大な損害を与えます。

その後も真田勢にやりたい放題蹂躙され、負け続ける味方に家康は苦虫を噛みしめつつ退却命令を出します。これ以上の損失を出すことを恐れた家康は豊臣家と講和条約を結ぶのです

徳川家の条件により、大坂城の要である堀が埋められ、真田丸も無残に取り壊されてしまいます。唯一の勝機である籠城戦を封じられたことで、豊臣家はさらに追い詰められていくのです。

家康を震え上らせた決死の中央突破!

翌年(1615年)大坂夏の陣が開始されます。道明寺の戦いにおいて信繁は伊達政宗と対峙し、銃激戦の末一時的に後退させることに成功。しかし盟友・後藤又兵衛の死も影響してか、次第に劣勢となり全軍を後退させることになります。

殿(しんがり)となった真田隊は最後尾に控え、敵の攻撃を防ぎつつ追撃する伊達勢と応戦!そして退却の際、高らかに吠るのです!「関東武者は百万いても、男は一人も居ない!」と、シビレますね!

信繁は明石全登・毛利勝永らと共に最後の戦を仕掛けます。己の死を覚悟した信繁は徳川勢に最後の突撃を開始します。前方の松平忠直隊1万5000の大軍と激突、乱戦へと持ち込みます。

そしてついに家康本陣へ突入する真田隊。家康の馬印は薙ぎ倒され、命からがら逃走します。真田隊のあまりの凄まじさに家康は死を覚悟したと言われています。

真田隊の消耗は激しく、兵力に勝る徳川勢に次第に押されていきます。落ち延びた信繁は神社へとたどり着き、そこで自害します。享年49歳。武人らしい潔い良い最後と言えますね。

大坂五人衆その後をご紹介!

毛利勝永のプロフィール

森吉成(毛利勝信)の子として尾張(今の愛知県)に生まれ、父とともに豊臣秀吉に仕えます。天正15年(1587年)九州平定の後、父吉成は小倉6万石の大名となり、勝永もその内の1万石を与えられることになります。

主君秀吉の指示により中国の覇者・毛利氏と同じ毛利に改姓した勝永は、慶長2年(1597年)朝鮮出兵において、大きな戦功をあげます。順風満帆に思えた勝永に訪れた太閤秀吉の死、この時期から少しずつ歯車が狂い始めます。

慶長5年(1600年)父とともに西軍に参戦した勝永は軍勢を指揮し、伏見城の戦いにおいて武功をあげます。しかし関ヶ原本戦においては毛利の重臣・吉川広家の策謀に遭い、活躍できず退却することとなります。

戦後改易となり、父と共に加藤清正の元へと預けられます。次いで親交のあった土佐の山内一豊の元へと身を寄せることに。14年の月日が流れ、慶長19年(1614年)に豊臣秀頼からの招きを受け入れ土佐から脱出します。

大坂城に入城した毛利勝永は諸将の信頼を得て大坂五人衆と称されます。大坂冬の陣において目立った活躍はなかったものの、翌年起きた大坂夏の陣においては、歴史に名を残す活躍を見せるのです。

道明寺の戦いで敗れた後藤又兵衛らの敗残兵を収容し、殿(しんがり)に鉄砲隊を残しつつ、見事に大坂方面の撤退に成功します。翌日徳川本陣正面に布陣した勝永は激戦へと身を投じるのです。

徳川譜代の家臣・本多忠朝や小笠原秀政らを討ち取り、榊原や酒井ら名だたる武将らを蹴散らし、遂に家康本陣へと突入するのです。しかし、真田隊の壊滅により戦線は崩壊、戦況を維持することができず撤退を開始する勝永です。

歴戦の猛将・藤堂高虎隊に追撃されますが、それを見事撃退し大坂城内へ撤収します。翌日、主君・豊臣秀頼の介錯を行った後、息子らと共に自害して果てるのです。享年37歳という若さ、最後に華々しく活躍した武将です。

槍の後藤又兵衛

諸説ありますが、別所氏家臣・後藤新左衛門の次男として生まれ、後に黒田家に仕えます。文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵に従軍し、武功をあげ活躍します。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、石田三成配下の猛将・大橋掃部(かもん)討ち取り武功をあげます。戦後黒田家重臣の一人として大隅城の城主となるのです。

黒田如水の死から2年後、又兵衛は黒田家を出奔してしまいます。これは如水の息子長政との関係悪化が原因だと言われています。又兵衛の豪勇は天下に知られているため、他家への仕官は容易だと思われましたが・・・。

長政から出された「奉公構(ほうこうかまえ)」により又兵衛は浪人の身分へと突き落とされてしまいます。主君長政の赦しがなければ他家へは仕官できないという身勝手な決まりのために。

後藤又兵衛の大坂の陣

出奔してから8年の浪人生活を経た又兵衛の元に、豊臣家から勧誘がかかります。嬉々としてそれを承諾したであろう又兵衛は、冬の陣においては兵6千を任せられ活躍するのです。

翌年5月、道明寺の戦いにおいて、迎撃作戦の先鋒として2千800の兵を率いて出陣します。徳川勢相手に見事な戦いぶりを見せる又兵衛ですが、後続の真田信繁らの到着が遅れたことにより孤立します。

10倍以上の伊達勢にに攻め立てられ、ついに乱戦の中、命を落としてしまうのです。享年56歳。もう少し人間関係を上手くやっていたら、楽な人生が待っていたかも・・・でも後世にはその名声は轟かなかったでしょうね。

キリシタン大名・明石全登(あかしぜんとう)

備前保木城主の明石行雄の子として生まれ、後に宇喜多家に帰属することになります。慶長5年(1600年)徳川家康と石田三成の対立が深まり、全登は主君宇喜多秀家に従って出陣します

西軍に従軍し伏見城の戦い、杭瀬川の戦いに勝利し、本戦関ヶ原の戦いに突入していきます。宇喜多勢8千名を率いて福島正則相手に善戦しますが、小早川秀秋の裏切りにあい、あえなく敗走します。

戦後・宇喜多氏は没落し浪人となった全登は、キリシタン大名となり黒田如水の庇護を受けたとされています。如水死後、息子の長政によるキリスト教禁止令が出されたため、各地を流浪することとなります。

明石全登の大坂の陣

慶長19年(1614年)豊臣方として参陣。キリスト教を広めるため道明寺の戦いに参加、後藤又兵衛が討死するも奮戦し、家臣300名を率いて、家康本陣への突入を試みます。

友軍の敗退を知り戦場から離脱、その後の消息は不明とのことです。諸説によればあえなく討ち取られたとか、生き延びて外国へ逃亡したとか様々ですね。願わくは生きて天寿を全うしてほしいと他人事ながらに思います。華々しく死ぬことだけがかっこいいとは思いませんし・・・。

長宗我部盛親のプロフィール

四国の覇者・長宗我部元親の四男として生まれ、幼名は千熊丸。天正14年(1586年)の戸次川の戦いにおいて長兄・信親が戦死します。この後、家督争いが起こり骨肉の争いが繰り広げられるのです。

盛親擁立反対派の言い分として、盛親自身の素行の悪さに原因があったと言われています。傲慢で短気、人望が無かった盛親をどうして名君と謳われた父・元親はゴリ押しするのか理解できなかったでしょう。

一説には溺愛していた長男信親の娘と盛親の年齢が近かったためだという、しょうもない理由だと言われています。その後、盛親は父親と一緒に政治を行い、時の支配者豊臣氏に従属します。

慶長5年(1600年)石田三成の味方して西軍に入る盛親。東軍の城を次々と落しながら天下分け目の関ヶ原へと突き進みます。毛利秀元・吉川広家らとともに家康本陣の背後にある南宮山に布陣します。

しかし徳川と内通していた吉川広家によって長宗我部勢は動くことができず、最後まで戦に参加できないまま西軍は壊滅、東軍の追撃を受けながら土佐へと帰還します。その後の長宗我部家は改易となり盛親の浪人暮らしが始まるのです。

大坂の陣勃発!再興を賭ける盛親!

慶長19年(1614年)長宗我部の再興を期して、大坂入城を果たす盛親。戦が始まると豊臣家臣・木村重成とともに奮戦します。

押し寄せる徳川勢に損害を与え退却させますが、豊臣上層部は徳川勢の圧力に屈し、和議を結びます。翌年夏の陣が始まると再び木村重成とともに徳川本陣を突くべく5千の兵を率いて戦場を駆けます。

進軍していた長宗我部隊の先鋒が藤堂軍とぶつかり、藤堂軍が放つ鉄砲に苦められ壊滅状態。勢いに乗った藤堂隊は長宗我部本隊を殲滅しよう進撃します。

しかし藤堂隊も予期せぬ敵の反撃を受け後退、目まぐるしく形勢が入れ替わる激しい戦となります。しかし援軍に駆け付けた井伊隊の参戦により、戦線を維持できなくなった盛親はやむなく大坂城へ帰還するのです。

本番となる翌日の戦いにはなぜか参加しなかった盛親。目の前で豊臣家の滅亡する光景を見て何を感じたでしょう。長宗我部家の再興がはかなく消えたことに自暴自棄になったことは間違いないでしょう。

京都八幡付近で潜伏していた盛親は捕縛され、伏見へと護送されます。その後京都を引き回されのち、六条河原で斬首されます。享年41歳。他の武将たちとは異なり、最後まで生にしがみつくあたり、何か人間味溢れる最後ですね。

徳川家康側から見た大坂夏の陣!

勝利者側から見た大坂の夏の陣を見ていきます。慶長20年(1615年)家康は豊臣家に要求をつきつけます。内容は10万人に膨れ上がった浪人らを解雇すること、そして秀頼が大坂城から出ていくことです

豊臣家は要求を拒否、ここに交渉は決裂し大坂の陣へと突入します。4月6日家康は諸大名に鳥羽・伏見に集結するよう命じ、18日には二条城へと入り、5月5日京へ到着します。

冬の陣においては、大坂城への大砲攻撃にビビった豊臣方は不利な条件で徳川と和睦し、大坂城の命とも言うべき外堀をすべて埋められてしまいます。家康にとっては笑いが止まらなかったことでしょう。

徳川勢の総勢15万に対し豊臣勢は総勢5万三倍の兵力差で最終決戦・夏の陣が開始されるのです。

天王寺口の戦い

正午頃、合戦が始まり戦場は血で血を洗う乱戦へと移行していきます。毛利隊の善戦により徳川の名だたる武将は次々と打ち倒され、軍の統率がとれなくなります。真田隊も松平勢と交戦しつつ家康本陣への進撃をはかります。

徳川軍は味方が寝返ったという嘘の情報に混乱し、真田隊の進撃を止められません。家康は本陣まで攻め立てられ、家康は命からがら逃走をはかります

逃走中、家康は腹を斬ると何度も繰り返した言われています。実際腹を切っていたら歴史は大きく変わっていたことでしょう。しかし時間の経過とともに豊臣方の攻撃は限界をむかえ、次第に徳川軍に追い詰めれていきます。

豊臣方の名だたる武将たちは戦場を離脱し、大将豊臣秀頼は母淀君とともに自害し果てます。大坂城は焼け落ち、徳川家康はついに天下統一を完遂するのです。これから256年の長きに渡り徳川政権の統治が始まるのです。

元和2年(1616年)1月、家康は鷹狩りの最中倒れ、翌年の4月に駿府城にて死亡します。享年75歳。他の戦国武将とくらべても長生きですね。家康が天下をとった最大の要因は長命だったからかもしれません。

まとめ

堺市にある南宋寺(なんしゅうじ)には徳川家康の墓碑があると言われています。大坂の陣において逃走する家康に、追撃する後藤又兵衛の槍が突き刺さり、逃げ延びた先の堺にて息絶えたと言われています。

それを裏付けるように徳川2代・3代将軍がわざわざ寺に立ち寄り、参詣(さんけい)しています。時は下り幕末の山岡鉄舟が残した碑文には「この無名塔を家康の墓と認める」と書かれているとのこと。

信じるか信じないかはあなた次第です。なにか隆慶一郎作「影武者徳川家康」を思い出しますね。家康の影武者・世良田二郎三郎が家康に成り代わり天下を差配したという痛快な作り話です。

しかし伝承や作り話の中にも、真実が隠されているかもしれません。全てが嘘だと言い切ることできないでしょう。次の日には新たな証拠が発見され、あっという間に定説はひっくり返されることだってあるのですから。それが歴史の醍醐味です!