日露戦争をおさらい!日本人ならば知っておきたい重要な歴史!

日露戦争といえば誰もが学校の授業で習ったことがある歴史的な出来事ですよね。しかし、今でも原因や結果を説明できる人は少ないのでは?

日露戦争について整理しよう



日露戦争(ロシア語;Русско-японская война)といえば誰もが一度は学校で習ったことがある歴史上の出来事ですよね。日露戦争とは1904年2月8日から1905年9月5日の期間にかけて勃発した大日本帝国とロシア帝国による戦争を指します。

日本側の動機としてはロシア帝国の脅威を防ぎ、朝鮮半島の支配権を獲得することで、日本帝国の安全保障を堅持することが主な目的だったと言われている。一方ロシア側の動機としては満州や関東州、鉄道敷設権などの利権の確保が目的でした。

しかし、ロシア側は実際には直接的な理由は「日本側からの攻撃と宣戦布告があったため」、としています。同戦は満州南部と日本海を主戦場として繰り広げられましたが、アメリカの仲介の下、両国は交渉を行い講和に達しました。

1905年に終戦の証として南樺太と関東州を日本領とするポーツマス条約が発効されましたが、これにより日本は実質的な勝利を収めたとされています。

日露戦争の勝因ってなんだったの?

まず最初に日露戦争において日本とロシアの間には決定的な戦力差がありました。日本の兵力は約300,000人だったのに対し、ロシアは500,000人と数字上では圧倒的に不利な戦いを強いられていたのです。

しかし、結果は先ほども書いたように日本軍が勝利を収めて終わりました。その理由とは一体なんだったのでしょうか?ロシアでは戦争がおきた当時、皇帝が政治の能力に欠けていて、国を納めきれていなかったという状況がありました。そして、ロシア軍が遼東半島で負けると各地でデモやストライキが発生し、国内では戦争どころではないというほど混乱していたという背景があります。

しかし、日本を勝利へと導いた理由はこれだけではなく、イギリスの存在も手助けをしていました。イギリスは日本の同盟国で他国に圧力をかけていたため、ロシアのバルチック艦隊はどこの港でも受け入れられませんでした

そんなわけで様々な要因があって日本が有利な立場に立てたのですが、結局最後の決め手となったのはアメリカによる仲介です。日本の兵士達は遼東半島では勝利を収めたものの、負傷者があまりにも多く、ロシア側も内部の情勢が不安定で戦争を続けられる状況ではない。

そんな状況を見かねて両国の間に入ってきたのがアメリカです。両国の間ではアメリカ仲介の下、ポーツマス条約が結ばれ日本が優勢な立場で講和という形に終わりました。ざっくりまとめるとロシア内部の不安定な情勢、日英同盟、アメリカの仲介の三つの要因が大きかったと言えます。

日露戦争後の出来事も覚えておこう

日露戦争の勝因や経過に関しては知っている方も多いかと思いますが、戦争が終結した後の出来事まで説明できますか?日露戦争後は一段落して東アジアが安定してきました。しかし、一方でアメリカは日本を敵視し始めるようになります。

日露戦争が終わるまでは日本とアメリカの関係性は非常に良かったのですが、日本が満州を獲得するとアメリカは途端に態度を変え、日本との関係性も悪化していき、最終的には大東亜戦争につながります。これは支那を巡る日本とアメリカの戦いなので、日露戦争直後から不穏な雰囲気を漂わせていきます。

また、アメリカが日本を排除しようとする理由は満州の鉄道の敷設の利権にも関係してきます。反対に日露関係はポーツマス条約を界に急激に改善していきます。日露戦争が終わり、多くの犠牲と引き換えに得るものも大きかった日本ですが、その後も苦難が待ち構えていたんですね。

日露戦争での賠償金はいくらだったの?

日露戦争で日本は勝利を収めましたが、ロシアからの賠償金は0でした。これはなぜなのかというと、交渉の際に日本側の全権小村寿太郎は賠償金を主張したのですが、ロシア側の全権ウィットはそれを拒否しました。

日本海海戦でロシアを下したとはいえ、日本軍の負傷者は多く、戦争の継続は困難でした。一方で、ロシア側の陸軍はまだ余力がある状態だったのです。日本からしてみれば会談に持ち込むのもやっとな状況で樺太の権利を得られただけですがそれで妥協するしかないという状況でした。

ロシア側としては戦争を継続することはできるものの、死傷者の多さや内情などを鑑みて、一応講和で終わらせようといった感じだったので、両国の思惑がポーツマス条約で合致したのです。

日露戦争で結ばれた講和条約とは?

すでに何度も登場している「ポーツマス条約」ですが、同条約は日露戦争終結に際して日本とロシアの間で交わされた講和条約です。アメリカのルーズベルト大統領が間に入り、仲介役として両国の条約への調印を斡旋しました。

1905年8月10日からアメリカの港であるポーツマスで講和会議が開催されました。日本からは全権小村寿太郎、ロシアからはウィッテが出席しました。交渉は樺太割譲と賠償金に関して協議が難航しました。最終的には日本側が賠償金の要求を撤回し、9月5日に講和が成立しました。

その大きな内容としては、「日本が朝鮮において指導、保護、管理を行う権利を有すること」、「両国が満州から撤兵すること」、「関東州租借地と長春-旅順間の鉄道を日本に譲渡すること」、「北緯50°以南の樺太を日本に譲渡すること」、「日本海、オホーツク海、ベーリング海の漁業権を日本に与える」の5点でした。

ポーツマス条約の交渉に臨んだ小村寿太郎は日本国民の期待を一身に背負って向かったため、死を覚悟していたと言われています。しかし、その努力もむなしく日本国民の多くが期待していた領土の獲得や賠償金は得られず期待には答えられない形で終わりを迎えました

この交渉の結果に不満を募らせた民衆は日比谷焼き討ち事件などの行動を起こしました。

実は賠償金で借金を背負ったって本当?

ネット上には歴史上の出来事に関して数々の意見が飛び交っており、中にはポジティブな意見もあり、一歩では反対のネガティブな意見も存在します。日露戦争に関して多々見かける意見として、日露戦争に関する話は美化されすぎているというものがあります。

これは、日露戦争は日本の勝利で華麗に終わったとされているが、実はそんなことはなかったとする意見です。実際に日本は日露戦争の際に、外国から多額の借金をして、かろうじて日本海海戦に勝利したという事実があります。

日露戦争の際に米国系ユダヤ人から借金をしたその結果として、日本は莫大な負債を抱えるようになってしまいました。そして米国への借金の返済が難航化したために、日本は第二次世界大戦に突入した理由と言われています。

そしてその莫大な日本の借金の返済には実に1986年(昭和61年)までの長い歳月を要しました。この事実は多くの国民には知られていなかったと思います。

団塊世代の労働者たちの払った税金で半世紀以上も前の借金を返し続けていたなんて驚愕の事実ですよね。

結局日本は第二次世界大戦に敗れ、米国の支配下に置かれることになりました。その時期も米国は日本に強く政策誘導をしましたが、これらも全て日本から借金を回収するためだったのです。

日露戦争は忘れてはならない歴史

日露戦争については、多くの方が一度は学校などで習ったことのある歴史上の出来事ではあるものの、未だに詳しく覚えているという方はかなり少ないと思います。日露戦争は良くも悪くもとても大きな歴史上の出来事であり、特に当事者の私たちは何が起こったのか、知っておくべき知識となっています。

これから先の未来で、戦争という行為を繰り返さないためにも、私たち自身が知っておくということは非常に重要だと思います。日露戦争は、私たちの世代だけでなく後世にまで伝えていくべき事実ですね。

嘘だらけの日露近現代史 (扶桑社新書)
倉山 満
扶桑社
売り上げランキング: 35,184
日露戦争史 - 20世紀最初の大国間戦争 (中公新書)
横手 慎二
中央公論新社
売り上げランキング: 146,074