【戊辰戦争】4つのポイントで新たな日本への戦争を知る

かつての日本に新たな理想国家を作るため魂を燃やして戦ったサムライたちがいた…!その魂の軌跡を追う旅へと出てみましょう。彼らの生き様の中から現代を生きる道しるべが見つかるかもしれません。

戊辰戦争を知る①戦争はなぜ起きたのか

全ては新選組の近藤勇・沖田総司の斬りこみから始まった

元治元年(1864年)6月5日、近藤勇沖田総司新選組が過激な尊皇攘夷を唱える志士たちが集まっていた京都の旅籠、池田屋に斬りこみました。志士たちが京都の焼き討ちを計画してるという情報をつかんだからでした。

多数の志士を殺害された尊皇攘夷を唱える人々は、新選組を雇っていた会津藩に深い恨みを持ちます。その後も会津藩に、さんざん煮え湯を飲まされ続けた尊皇攘夷派ですが、数々の謀略により形勢逆転に成功し天皇の力を後ろ盾にすることに成功します。

そして天皇の軍隊・官軍となった元・尊皇攘夷派は会津藩を含む旧幕府軍を天皇の敵・賊軍として攻撃を開始したのです。

戊辰戦争を知る②年号・場所はどこ?

炎の舞う戦場、鳥羽・伏見!

慶応4年(1868年)1月2日、戊辰戦争ファーストバトルとなる鳥羽・伏見の戦いが京都で始まりました。

官軍側の事実上の大将は薩摩藩のヒーロー・西郷隆盛 。

賊軍とされた旧幕府軍側には新選組のサムライ・土方歳三が加わっていました。

官軍の兵数は5000に対して旧幕府軍は15000であり、武器の性能も大差なかったと言われます。

しかし謀略において天皇を味方にした官軍は錦の御旗を偽造し、官軍である証としました。

当時、混乱する日本の情勢において、唯一、人々をまとめられるものとして天皇という存在がありました。

絶対的正義の天皇が味方についたことは旧幕府軍の人々を動揺させます。

それは旧幕府軍の総大将・15代将軍徳川慶喜も同じであり、慶喜は戦場の兵士たちを置き去りにして逃走。

この戦いの夜間戦闘において、土方歳三らサムライが剣をふるって奮戦する中、屋敷に偶然当たった砲弾によって炎が京都の空に高く上がりました。

その炎が照明になり、旧幕府軍のサムライたちは官軍に狙い撃ちにされ、戦闘というより殺戮という状態になります。

それから後も旧幕府軍には味方の裏切りが相次ぎ、ついに最大の守る対象だった徳川慶喜にも裏切られたのです。

天運も土方らサムライたちに味方しませんでした。


サムライたちの仁と義

慶応4年(1868年)5月15日、現在の東京・上野において旧幕府軍のサムライで結成された彰義隊が官軍と戦いました。

この少し前に、戦場から江戸へ逃げ帰ってきた15代将軍・徳川慶喜の命が助けられるかわりに江戸城が戦わずして明け渡されています。

彰義隊のサムライたちは、天皇を利用し天下を狙う官軍とは名ばかりの西郷隆盛らを許せないと思いました。

そして負けると分かっている戦いを官軍に挑んだのです。

この彰義隊には新選組の槍の名手・原田左之助も加わっていました。

官軍の人々は当然、ヒーローの西郷隆盛を総大将にするつもりでしたが、ここで農民身分の出身である村田蔵六という男が戦闘指揮の主導権を握ります。

不満が上がる中、西郷は農民・ 村田蔵六に指揮を任せました。

村田は天才的な戦闘指揮能力を発揮し、たった1日で彰義隊を倒します。

その結果、官軍に逆らった罪で、彰義隊の戦死者の遺体は埋葬されなかったといいます。

それをきいた村田は「自分1人でも彰義隊士たちを埋葬に行く」と言い、周囲の人を困らせたという逸話が残っています。

西郷は村田の中にあるサムライ以上の仁と義の心を感じとったからこそ、村田に全てを任せたのかもしれません。

原田左之助も彰義隊士として戦死したと言われますが、実はそれは判然としません。

燦然と輝くヒーロー・西郷隆盛に比べて原田は、農民出身の村田と同じく名もなき庶民でした。

だから人知れず埋葬されたのでしょう。

でもサムライの身分に生まれなくても、魂がサムライなら時代を変えられる。

サムライの魂を持った農民・村田蔵六の活躍は、それを意味していたとも思えます。

サムライボーイ・白虎隊の魂

徳川幕府を事実上、滅ぼした官軍は、ついに恨み重なる会津藩に牙をむきました。

慶応4年(1868年)4月、ついに会津軍と官軍との戦いの火ぶたが、きっておとされます。

西郷隆盛は、この戦いを「私闘だ」と、あきれて見ていたといわれます。

確かに、かつて新選組などによって弾圧された私怨を理由にする人が官軍の中に多くいました。

この不当な理由による戦いを仕掛けてくる敵に対して、今なら高校生ぐらいの年齢の少年たちも会津を守るために立ち上がりました。

サムライボーイ・白虎隊です。

彼らの純粋な思いを伝えてくれるのが、自刃のエピソードでしょう。

白虎隊の居城、鶴ヶ城が、いよいよ官軍に攻めこまれようとしている時、城の周りで火災が起こって煙が上がっていました。

これを見て、白虎隊士たちは城が敵に攻め落とされたと勘違いして絶望します。

会津が敗れた以上、生き恥をさらしたくないと、白虎隊士たちは切腹して果ててしまいました。

大人なら判断が違ったでしょう。

いろいろなことを知ってるだけに、もしかして城は落ちてないかもしれないと気づいただろうし、落ちていたとしても死ぬのは早い、何かできることがあるはずだと判断したでしょう。

しかし少年たちは死を選んでしまいました。

それは官軍側が、あらゆる謀略を考え天皇を味方につけたのに対して、会津は天皇と徳川の将軍と京都の人々を守るために真っ直ぐな気持ちで戦ったことを表しているかのようです。

白虎隊の自刃の時は敗れなかった会津藩も、彼らの死から1ヶ月後の明治元年(1868年)9月22日に降伏。

正義の心を持った者が敗北することもあると後世の人々に印象づけられてしまいました。

でも会津の人たちは、その死をもってサムライの美学を後世の人たちに伝えたとも言えるでしょう。

希望の新天地に輝く星の城・五稜郭

会津も敗れ、追いつめられた旧幕府軍。

しかし、最後の希望が残っていました。

幕府海軍副総裁の榎本武揚率いる幕府艦隊が蝦夷地(今の北海道)に向かうことになり、敗れた旧幕府軍の兵士を次々と乗せて行ったのです。

蝦夷地へ向かった中には新選組の土方歳三もいました。

榎本たちは蝦夷地の箱館にあった西洋式の城郭・五稜郭を本陣にして、自分たちの独立共和国を作ります。

五稜郭は夜空に輝く星のような城で、敗戦を重ね、北へと流れついたサムライたちにとって希望の新天地の象徴となったことでしょう。

ところが思いがけない悲劇に襲われます。

榎本の率いてきた艦隊の中で最強の軍艦・開陽丸が暴風雨に襲われ、吹雪で荒れ狂う北の海へと沈んでしまったのです。

必殺の接舷攻撃・アボルダージュ決行!

開陽丸を失った榎本たちに官軍が迫ってきます。

当然、官軍は榎本たちの独立共和国を認めず武力で滅ぼそうとしていました。

開陽丸に代わる大きな戦力が求められる中、フランス海軍から脱走して榎本軍に加わっていたニコールという男が奇想天外な作戦を提案します。

官軍の主力軍艦であるストーンウォールを奪ってしまおうというものでした。

その方法は、榎本軍の軍艦をストーンウォールに、くっつけて乗り移り攻撃して奪うというものです。

この戦法を接舷攻撃といい、フランス語ではアボルダージュといいました。

榎本軍は、この作戦を明治2年(1869年)3月25日決行します。

場所は現在の岩手県宮古市沖の宮古湾。

新選組の土方歳三や作戦の発案者のニコールも参加しました。

榎本軍はストーンウォールに自分たちの艦船・ 回天を接舷させることに成功。

しかし回天からストーンウォールに乗り移れる場所は極めて狭いものでした。

ストーンウォールに積んであった大型のマシンガンのような兵器・ガドリング砲に多数の兵士が狙い撃ちされて、死傷・負傷しました。

1988年に日本テレビで放送された時代劇『五稜郭』では渡哲也演じる土方歳三がストーンウォールに斬りこみガドリング砲を敵から奪い奮戦しています。

しかし実際はストーンウォールに斬りこんでいったのは新選組の野村利三郎ら数名で彼らは撤退に間に合わず戦死しました。

土方は斬りこんでいけませんでした。

あの日の宮古湾では小説・漫画・映像作品では描かれない本当のサムライの戦いが見れたことでしょう。

結局、ストーンウォールは奪えず甚大な被害を受けてアボルダージュは失敗。

発案者のニコールは果敢に斬りこもうとしてガドリング砲に撃たれて負傷しています。

フランス海軍を脱走してまでサムライの魂を持って、アボルダージュ伝説を作ったニコール。

彼こそ西洋に生まれたサムライ騎士と言えるかもしれません。

サムライの魂を継ぐ者たち



明治2年(1868年)5月11日、榎本軍は官軍の総攻撃を受けて追いつめられていました。

一本木関門で戦っていたのが土方歳三。

司馬遼太郎の小説・『燃えよ剣』では土方は単騎、敵陣に突撃し戦死したことになっています。

しかし実際は部下の兵士を突撃させ、逃げてくる味方を斬るつもりで後方にいたところを銃撃されて死んでいます。

ここでも物語と違い、史実において勇敢に戦ったのは歴史に名を残していない兵士たちでした。

土方の死から6日後の5月17日、榎本軍は官軍に降伏。

ここに戊辰戦争は終わりました。

しかしサムライの魂は受け継がれます

時代は武力による戦いから、自由民権運動などの言論による戦いへと変わっていきます。

そこで戦ったのは、生まれた家柄や社会的地位などは関係ない、魂がサムライの人々でした。

熱い想いさえあれば、誰もがサムライへとなっていけたのです。

戊辰戦争を知る③「隠蔽」されたタブーの歴史

官軍が抹殺したかった天皇と戦った歴史

軍とは天皇の軍隊のこと。

しかし官軍となった反幕府勢力は、元々は天皇の敵でした。

池田屋事件で多数の同志を新選組に殺された報復として反幕府勢力は元治元年(1864年)7月、 孝明天皇を連れ去るため天皇の住む御所に攻めこみました。

禁門の変です。

反幕府勢力は会津軍などによって撃退されましたが、自分の住んでいる所に弾丸を撃ちこまれた孝明天皇は恐怖し、反幕府勢力を徹底的に滅ぼすことを徳川幕府に命じます。

しかし孝明天皇は急死。

跡を継いだ息子の明治天皇は今で言うなら中学3年生の15歳。

政治的な思想も能力もなく、力を背景に謀略で近づいてくる反幕府勢力の人々の言いなりになるしかありませんでした。

官軍となった反幕府勢力は、自分たちが天皇の敵だった歴史を隠蔽するため、最も孝明天皇に信頼されていた会津藩を天皇の敵・賊軍に仕立て上げました。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉は戊辰戦争の歴史の中から生まれたのです。

戊辰戦争を知る④長岡藩で勃発した北越戦争について

マシンガンザムライ・河井継之助登場!



戊辰戦争が終わったあとの東京では「花は会津、難儀は越後」という言葉が流行しました。

官軍にとって会津との戦いは楽勝でしたが、越後での戦いは大苦戦したからです。

会津藩に同情し中立的立場をとる長岡藩の意志を官軍は受け入れませんでした。

このことから慶応4年(1868年)5月、北越戦争が始まります。

長岡藩の軍事総督・河井継之助はガドリング砲、アームストロング砲、スナイドル銃などの最新兵器を揃え、官軍に立ち向かいました。

河井は、政治・軍事におけるパワーとスピードを兼ね備えた策略といい、自らガドリング砲を撃ちまくり戦う姿といい、 まさにマシンガンザムライでした。

結果的には敗れたものの、最も官軍を苦しめたという意味で河井を戊辰戦争最大のヒーローと見る人も多いのです。

戊辰戦争の戦死者は?

民衆でありながら革命のために戦ったサムライたち

しかし河井継之助をヒーローと見るのは、坂本竜馬・土方歳三などをヒーローとして見る現代人の視点です。

北越戦争の最中、農民たちが一揆を起こしていますが、これはヒーロー・河井継之助が民衆を人夫の徴用で戦争に巻き込もうとしたことが原因でした。

会津藩でも民衆を徴兵していますが、重税に苦しめられてきた人々は士気が上がらず、逃走者が続発したあげく一揆が起こっています。

それに対し、反幕府の最大の勢力である長州藩では、志願兵による奇兵隊が結成され士気は高いものでした。

とはいえ、志願制であろうと徴兵制であろうと戦死者が出るのは同じ。

長州藩でも家族を失った遺族の悲しみは深いものでした。

戊辰戦争の戦死者数は正確にはわかりませんが、最も信憑性が高いと言われる資料によれば13562名となっています。

新たな明治という時代をむかえ、奇兵隊のように民衆でありながら新時代を作ろうという意志を持った人々が、どんどん現れてきました。

そして明治新政府が始めた海外侵略のための戦争に反対する人も一庶民の中から現れ始めます。

これからの時代でも、剣で人を斬り殺すサムライを超えた、魂で人の心を動かす新時代のサムライが活躍していくことでしょう。