伝説の野球選手、江夏豊の栄光と挫折を振り返る

優勝請負人、一匹狼…彼を形容する言葉には、ある種「孤高」のイメージが付きまといます。阪神タイガースのエースから一転、NPB計5球団を渡り歩いた球界の異端児・江夏 豊の野球人生を振り返り、そこから見える“哲学”を感じ取ってみましょう。

最高レベルの野球人・江夏 豊とは?

シーズン最多奪三振数は、ノーラン・ライアンをも凌ぐ!



通算400勝投手の金田正一(国鉄ー巨人)にして、「歴代最高の左腕は江夏」と言わしめたのが江夏 豊(阪神ー南海ー広島ー日本ハムー西武)です。卓越した野球理論の持ち主の野村克也(南海ー西武)が「野球だけに限れば、江夏にかなうヤツはおらん」とつぶやかせてもいます。

20代半ばまでは豪腕の名をほしいままに勝ち続け、入団2年目には世界最多(世界記録にはMLBではないため、認定されていない)の401個の三振奪取をしています。これは、“鉄腕”ノーラン・ライアン(ニューヨーク・メッツなど)の383個をも上回っています。

その他にも、延長11回をノーヒット・ノーランで投げ抜き、最後は自身のサヨナラホームランで締めくくった試合もありました。これら数々の名勝負をくぐり抜けてきた“プロ中のプロ”が江夏 豊なのです。

江夏豊の野球人生のスタートは?

中学時代は野球部を1年時に退部、いろいろな競技を経験

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江夏 豊は1948年に奈良県で生まれ、両親の離婚にともない母方の実家の鹿児島県市来町で5年間を過ごします。その後に母と2人の兄と兵庫県尼崎市に移り、ここでは高校卒業までの間を過ごしています。この市来町時代か尼崎市時代かは定かではありませんが、彼の将来を“左右”した出来事がありました。

近所の子供と遊んでいる時に、江夏の兄が「お前は、これを使え」と左用のグローブを差し出したそうです。意図は今でも不明です。何にせよ、これにより「左効き」の江夏 豊が誕生したのでした。そうして、中学に入学しますが、上級生と意見が合わずに2ヶ月で野球部を退部します。

後のプロ野球でも江夏は、たびたびチームの監督らと衝突する事がありました。「自分の信じる道を行く」という思いが、この頃からすでに芽生えていたのでしょう。

圧巻!鈴木啓示との練習試合での投げ合い!!

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野球部を退部後に様々な競技にチャレンジした江夏でしたが、上記以外の陸上部時代には「砲丸投げ」で県大会準優勝という記録を残しています。

そして当時、弱小と言われた大阪学院高校へ進学して、本格的に野球に取り組む事になりました。そこで江夏は、甲子園出場こそ果たせませんでしたが、3年生時には一人で準決勝までの7試合を投げ抜きます。

その江夏の高校時代の一番印象深い試合は「2年の時の育英高校との練習試合」と言います。そこには、プロ野球でも幾度となく対戦した3年生の鈴木啓二(近鉄)がおり、延長15回を二人で投げ合ったのです。そのレベルの高さは、想像がつかないですね。結果は0-0で、江夏が三振15個、鈴木が27個です。凄絶な投手戦だった事だけは想像がつきます。

驚異の成績!栄光のオールスター9者連続奪三振

阪神タイガースのエースとして君臨!

甲子園には出場できなかったものの、ほぼストレート一本で勝ち抜いていった江夏 豊は「投球術がいい」とプロのスカウトの目にとまりました。その結果、ドラフト会議では4球団(阪神、巨人、東映、阪急)に指名されます。そして、抽選で阪神タイガースに入団したのでした。

その江夏は、入団1年目の1967年は剛速球を武器に12勝13敗でした。負け数が勝ち星を上回っていますが、実力的に恥じるような内容では決してないです。

さらに、そのオフには投球フォームの見直しに着手して、高校生の時にクセになってしまった“砲丸投法”を矯正し、変化球(カーブ)も身につけます。これにより、江夏は25勝12敗という成績をあげて、押しも押されぬ阪神のエースとなります。筆者は個人的には巨人ファンでしたが、江夏は別格でしたね。凄すぎて……。

シーズン奪三振、年間勝利数20勝以上を4度、最多勝を2度など

入団一年目にシーズン最多奪三振(225個)の記録を樹立した江夏が次に狙ったのは通算のシーズン奪三振です。この記録はそれまで稲尾和久(西鉄)が持っていた354個でしたが、これに追いつく機会が翌年の9月17日の対巨人戦に訪れました。江夏は「新記録は王さんから獲る」と宣言しています。

この試合で江夏は、タイ記録を間違って王 貞治から獲ってしまいました。そのために、新記録までの打者一巡を投球術で打ち取らなければばいけませんでした。

「この時の王さんは、バッターボックスに入る前から物凄い顔をしていた」と、江夏は引退後に語っています。よほど、怖い顔をしていたんでしょう。軍配は江夏にあがり、見事に新記録達成です。「ミート(当てにくる)よりも思いっきり振ってきた。その気持ちが嬉しかった」と、江夏はライバルを賞賛しています。

“プロとプロ”の対決に言葉はいらない、という事でしょうか。カッコよすぎですね。

結局、この年の江夏はシーズン通算401奪三振という記録(MLBでないため、世界記録認定はされていない)を樹立しました。

ほかにも阪神時代には、20勝以上の勝ち星をあげた年が4回(うち最多勝利が1968年の25勝12敗、1973年の24勝13敗の2回)等々、数々の賞を受けています。その中にあって、ひときわ輝きを放っているのが、1971年のオールスター・ゲームにおける9者連続三振でしょう。

オールスター戦 史上最高の記録か!

1971年のオールスター・ゲーム第一戦に、江夏 豊は先発のマウンドにたちました。その試合で江夏がは、パ・リーグの猛者相手に、規程の3回を9連続三振に切って取ったのです(写真・上)。

その顔ぶれを打順に沿って紹介すると有藤道世(ロッテ)、基 満男(西鉄)、長池徳二(阪急)、江藤慎一(ロッテ。唯一の両リーグ首位打者)、土井正博(西鉄)、東田正義(西鉄)、加藤英司(阪急。後の首位打者)と、強打者・巧打者・クセ者のオンパレードです。このメンバー、「当てにいくのはセコい」とばかりにブンブン振り回してきました。

こうして達成された大記録、当然、今だに江夏以外にやってのけた投手はいません。筆者はこのオールスター戦を、テレビ観戦できました(ペナントレースより放送開始時間が早いため)。観る事ができて、本当に良かったです。

「革命」によりリリーフに転向。優勝へ大車輪の活躍!

野村監督の野球理論に共鳴。南海での2年間は無駄ではなかった!

数々の記録を樹立して、“球界を代表する左腕”と言われるまでに成長した江夏 豊でしたが、陰では病魔とも闘っていました。それは重い心臓の疾患で、マウンド上で心拍数が上がりすぎて、降板した事もあったとか。血行障害もありました。

この持病に加えて、1970年代前半~中頃の阪神は金田監督への不信など、様々なグランド外での問題も抱えていたようです。そして、“異分子扱い”された江夏を放出、南海へトレードする事になりました。江夏は病気の事もあって“辞めるのも選択肢のひとつ”と考えていた節もあったようです。

しかし、当時の南海のプレーイング・マネージャーだった野村克也(写真・下)と話す機会があり、彼の考えが変わります。



その話しとは「先日の広島戦での衣笠の時。あれは、わざと(2-3から)ボールを放ったんやろ」。結果は衣笠祥雄(広島)の空振り三振でしたが、「あのカウントから、なかなかボールを投げられる投手はいない」江夏の心理を見事に読んだのでした。江夏は感動して、トレードに応じる気持ちに傾いていったそうです。

1976年、江夏は南海に移籍しました。そしてもうひとつ、野村監督が実行したのが江夏による「リリーフの専業化」です。血行障害から、1日の投球数が50球が限度だった江夏に対して「野球界に革命をもたらそう」とリリーフへの転向を薦めたのです。現在では常識となっている投手の分業を、早くも取り入れた意義は大きいですよ。

南海には2年間在籍しましたが、江夏にとって“考える野球”に磨きをかけた、大きな分岐だったように思います。

今では伝説「江夏の21球」

南海から広島へ移籍して2年目に、チームはセ・リーグのペナント・レースを勝ち取りました。前年から通して2年間、毎試合ベンチ入りして出番に備えた「リリーフ・エース」の江夏 豊の存在が大きかったのではないでしょうか。

そして日本一をかけて、名将・西本幸雄監督率いる近鉄と争う事になります。その第7戦、勝ったチームが日本一に輝く、9回裏の近鉄の攻撃時にドラマは生まれました。ゲームは7回表を終了した時点で、4-3と広島がリードしています。

ここで、広島・古葉竹織監督は江夏を投入して“逃げ切り”勝利&日本一を狙ってきました。問題なのは、その江夏の9回の投球術です。

まず、先頭打者の羽田耕一にセンター前ヒットをくらいます。そして、次のクリス・アーノルドに四球を与えます(最後は敬遠気味の)。



ここで、広島ベンチから北別府 学と池谷公二郎がブルペンへ向かいます。江夏は「オレを信頼していないのか?」と憤慨したと後述しています。

次の平野光泰に対しては、(代走・吹石徳一が二盗後)捕手の水沼が立ち上がり満塁策としました。これで無死満塁です。江夏最大のピンチに、筆者もテレビ前で緊張していました。

そして近鉄は、佐々木恭介(後の近鉄監督)を代打に送りますが、ここで江夏は空振り三振を獲ります。この途中、一塁を守る衣笠がマウンドの江夏に「ブルペンなんか気にするな。お前が辞めるときは、オレも辞める!」と声をかけにきたそうです。

後に江夏は「オレを分かってくれているチームメイトもいるんだっ」と開き直り、投球に集中したといいます。スポーツにメンタル面がいかに重要かという事が分かりますよね。

それでも、一死満塁とピンチは続き、打者は先頭に戻って石渡 茂(近鉄-巨人)です。ここでは「スクイズがあるかも?」と、野球をかじった事のある人なら誰しも考えたでしょう。ちなみに、筆者もです。ただ“どこでヤってくるか?”は、西本監督の胸三寸です。

その2球目、全走者が一斉にスタートをきりました。三塁走者は、左投げの江夏にとっては死角です。ところが江夏は大きくボールを外します。モーション途中、カーブの握りのままのとっさの判断です。石渡はスクイズに失敗し、飛び出した三塁走者をアウトに取ります。

そして、石渡は三振に倒れて、広島と江夏は初の日本一の座を勝ち取ったのです。これが9回の江夏の投球、「江夏の21球」です。この「江夏の~」は、玄人受けするプレイとして、野球ファン(含筆者)の記憶に残っています。

日本ハム、西武へ移籍後、静かに現役引退



江夏は1980年(この年も日本一に)まで広島に在籍して、1981年からの3年間を日本ハムでプレイしています。技術的な事を言われた事はなく「豊にまかせた」という大沢啓二監督の意気に感じて投げていたと言います。ここでは1982年のパ・リーグ優勝と翌年の後期優勝(パ・リーグは当時、前後期の二期制)に貢献しています。

広島時代以降は、まさに「優勝請負人」という言葉がピッタリな活躍ぶりです。その江夏も、大沢監督の勇退に伴い放出される事となりました。移籍先は西武で、江夏は18年間の現役生活をここで終えます(自由契約後、MLBに挑戦し最終選考まで残るも3A契約スタートのため固辞)。

通算成績は206勝158敗193セーブ、2987奪三振です。スポットライトを浴びる事もなく辞めていく姿は、それはそれで実にカッコイイ去り方だったと思います。

江夏豊は野球意外にもマルチに活躍する人物だった!

歌合戦番組の常連、映画出演も

江夏 豊は野球以外でも、多彩な才能を覗かせています。中でも特筆するのは“歌”です。1070年代のオフシーズンには、プロ野球選手の「歌合戦モノ」が多くありました。チーム対抗で選手が喉を競い合う趣向です。歌が上手いプロ野球選手の中でも、江夏は負けていませんでしたよ。

江夏で印象深いのは、『爪』(1964年。オリジナルはペギー葉山)を歌った時で、スローな曲を切々と歌っていました。そこに目をつけられたのか、江夏は『俺の詩』(1980年)をリリースしました。筆者はラジオで一度しか聴いた事がありませんが、藤田まことが作詞したイイ曲でしたよ。

ほかにも東映の『最後の博徒』(1985年。主演/松方弘樹)にも出演しています。本筋とは関係なく「長ドスも左効きで振りおろしてる」と理由もなく興奮しました(笑)。

続く転落と覚醒剤による逮捕

実刑判決で服役

1993年3月2日、江夏 豊は覚醒剤所持の現行犯で逮捕されました。一人の投手として江夏ファンの筆者は、「江夏がクスリ?」と呆然としつつ、旧知のスポーツ関係者に確認の電話をかけたのを覚えています。

個人にしては多すぎる量の所持と、一緒に使用していたと思われる女性が既に有罪判決を受けていた事から江夏も有罪判決を受けました。情状酌量の証人として野村克也氏や江本孟紀氏、衣笠祥雄氏らが出廷して酌量を訴えましたが懲役2年4ヶ月の実刑でした。

松永多佳倫のルポ『善と悪』(写真・上右。2015年、KADOKAWA)の中では「罪を犯したことの悔り」としており、出所後に「あの薬ってやつは、人間を狂わせるもの」と語っています。ファンとしては、過ちを繰り返さずに、今後も野球と関わってもらいたいという気持ちでいっぱいです。

その後の江夏は…

野球評論家として活動を再開

1995年4月27日に江夏 豊は仮釈放されました。逮捕前までは頻繁にあった、映画やバラエティーへの出演はなくなり、今は野球関係の仕事のみを活動のベースにしています。

「週刊プレイボーイ」の好評連載コラム「江夏 豊のアウトロー野球論」は20年間続いていますし、現在はテレビ大阪でプロ野球の解説もしています。プレイヤー(!?)としては、OB戦やマスターズリーグへの出場等、勢力的に動いているようです。

そして、何よりも注目に値するのが2015年、2016年の阪神キャンプでの臨時コーチとしての働きです。広島時代に大野 豊を育てた(写真)実績もありますから、指導力は折り紙付きです。虎ファンには嬉しいニュースでしょう。現在の江夏は、まさに“野球漬け”の日々を送っています。こちらも、嬉しい報せです。

“ぶれない男”としての道

偏見を乗り越えて、なお……

改めて江夏 豊の記録や言動を辿ってみると「一匹狼」や「孤高」という表現は、半分は正解で残りは誤りであると気づきました。上層部への批判とも取れるコメントも“マウンドで死ぬ気になって闘った”からこそ発せられたのでしょう。裁判で証言した“仲間たち”を考えると、「一匹狼」では決してない事も分かります。

江夏は言っています「プロは自分のプレーをやるだけ。戦略とか管理なんていうのは上の方で考えればいい」と。数々の修羅場をくぐり抜けてきた人は、言う言葉に重みもあります。昨年の清原和博(西武-巨人-オリックス)の逮捕劇後にも「サポートできる事があれば、してあげたい」と救いの手を差し延べてもいるのです。

「ぶれることのない男としての生き方」を実践しているのが、江夏です。こんな投手、もう出てこないかもしれないですね。