【木村拓也】多くの人に親しまれた名選手の活躍と早すぎる人生を振り返る

多くの仲間、そしてファンに愛された木村拓也。いつも一生懸命な彼のプレーは、私たちに大きな感動を与えてくれました。今でも野球ファンの記憶に残る彼の野球人生を振り返ります。

木村拓也とはどんな選手?

きむらたくや・・・。その名前だけ聞くと大部分の人は“木村拓哉”、そう元SMAPのキムタクを思い浮かべるかもしれません。え?フジテレビのアナウンサー?なるほど、そっちいきますか?(笑)

しかし野球ファンの中には、今でも「キムラ タクヤ」と言えば、元プロ野球選手の木村拓也さんを思い浮かべる方も少なくない筈です。同じく「キムタク」の愛称で呼ばれていた木村拓也さんですが、筆者は勝手に“拓さん”と呼んでいました。

あのとびきり優しい笑顔が印象的な拓さんに、明日が来ない日が来るなんて・・・。あれからもう7年が経ったのですね。今でもあの日の事を思うと、少し不安な気持ちになります。

若い頃は考えた事もなかった自分の命の長さを考えたりして。拓さんも考えた事など無かったでしょう。まだまだ、若すぎましたもんね。

日ハム時代



拓さんは、1972年4月15日生まれ、宮崎県出身の元プロ野球選手です。身長173cmとプロ野球選手の中では小柄でしたから、そのハンデを埋めようと人一倍練習し、努力を重ねた選手です。

宮崎県立宮崎南高等学校時代はキャッチャーで、1年夏の甲子園では1勝、3年の春には5打席連続三塁打を放ち、高校通算35本塁打の記録を持っています。1990年に捕手としてドラフト外で日本ハムファイターズに入団しますが、支配下登録枠から漏れ、一度は任意引退選手扱いとされてしまいます。

退団することにはなりませんでしたが、その後もなかなか捕手としての出場機会に恵まれず、92年に俊足と強肩を買われ外野手に転向します。その後は一軍の試合にも出場するようになりますが、これと言って目立った成績は残せませんでした。

広島時代

Zero is infinite. I'll see the sky today. #木村拓也 #20100407

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1994年オフ、長冨浩志投手との交換トレードで広島東洋カープに移籍すると、外野手だけではなく内野の守備にも付くようになります。野球ファンの中には、拓さんを広島の生え抜き選手だと思っている人も多く、このトレードで木村拓也の野球人生は大きく変わっていくのです

スイッチヒッターへの転向、守ればどこのポジションもこなせるユーティリティープレイヤーとして活躍し、2000年には一番打者として初の規定打席に到達すると、打率2割8分8厘、10本塁打、30打点、165安打の好成績を残します。

以降は3年連続して130試合に出場しチームの主要選手となると、04年にはアテネオリンピック野球日本代表にエースの黒田博樹と共に選出され、長嶋茂雄から「率先して裏方の仕事を手伝い、銅メダルに貢献してくれた」と称えられました。

しかし、このシーズン以降は若手の台頭に加え、足や腰を故障するなどして、スタメン出場の機会は著しく減少します。シーズン終盤には椎間板ヘルニアを発症し、手術も受けました

05年シーズンは怪我と折り合いを付けながらプレーを続けましたが、06年は新任のマーティ・ブラウン監督の若手起用の方針により開幕二軍スタートとなってしまいます。その後は全く一軍での起用がなく、本人の希望もあって6月5日に山田真介外野手との交換トレードで巨人へ移籍することになりました。

拓さんの「1軍で野球をやりたい、試合に出たい!」という強い思いが、自らを新天地へと向かわせたのです。広島OBの江夏豊は「広島は大きな損失をした」と木村の移籍を惜しみました。

巨人時代

出場機会を求めてトレードを志願した拓さんでしたが、トレード先が巨人軍に決まり、当初は「巨人じゃ自分の出番は無い、トレードの意味が無い」と思っていたそうです。ところが移籍後間も無く一軍登録されると、代打での出場や、試合途中に負傷退場した李承燁の代わりに中堅手として出場したりと、いきなりの活躍を見せます。

移籍2年目には、対右先発時のスタメン二塁手として活躍。慣れた二塁での起用だったこともあり守備率は.993を記録し守備能力の健在ぶりもアピールしました。また、捕手経験者であることから、この年捕手2人制を敷いていた巨人では、いざと言うときに備え、ブルペンで捕手練習をしていました

このようにチームの穴を埋める活躍で、07年の契約更改では、自身プロ入り後最高年俸となる6500万円でサインしました。 



原監督は「今年、タクがいなかったらと思うとゾッとしますね」とコメントを残すほど、拓さんを信頼していました。もともと「for the team・ジャイアンツ愛」を訴えている監督ですから、拓さんのような選手はまさに理想像だったのではないでしょうか。

拓さんも、監督の期待に応え08年は開幕から2番二塁に定着し、打撃も好調で打率3割をキープし続け、中軸へのつなぎ役として重要な役割を果たしました。9月24日には広島市民球場でプロ野球251人目となる通算1000安打を達成するなど、シーズンを通じて正二塁手として定着し続け巨人移籍後最高のシーズンとなりました。

09年は、若手の台頭や外国人選手の補強などで、だんだん出場機会が減りますが、拓さんらしさでチームに貢献し記憶に残る試合はいくつもあります。



10月10日には、広島時代の同僚・緒方孝市の引退試合(マツダスタジアム)で、8回からセンターの守備に就いていた緒方に向けてセンターフライを打ち上げます。おそらく狙っていたのでしょうね、アウトになったのにとても満足げな笑顔を見せていのが忘れられません。

結局、この年が現役最後のシーズンとなってしまいましたが、私たちファンに多くの感動を与えてくれました。ファン感謝デーで引退セレモニーが行われ、残念ながら息子さんのインフルエンザで会場にこられなかった家族に向け「パパ頑張ったよ」と、はにかんだ笑顔で挨拶した姿が思い出されます。

木村拓哉との意外な関係

木村さん・・って日本人にはそう少なくない名前ですから、広島時代も巨人時代もチームに同じ木村姓が存在してました。ですので「キムラタクヤ」とフルネームで呼ばれ、スコアボードにも「木村拓」と表示されていたことから、「球界のキムタク」などと紹介されることもありました。

本家キムタクであるスマップの木村拓哉さんとは同じ1972年生まれで、関西テレビ・フジテレビ系『SMAP×SMAP』の特別企画『同学年』で対談したことがあります。この席で拓さんは、収録後に行われる巨人-広島戦でホームランを打つと約束すると、見事約束を果たしキムタクを喜ばせました。

これを機に二人は交流を深め、拓さんが病に倒れた時にキムタクは、「まだ試合終了にはなっていない。奇跡を待ちたい」とエールを送りました。

木村拓也に全プロ野球ファンが感動したあの試合

拓さんを語る上で、どうしても外せない試合があります。2009年9月4日、東京ドームで行われた対東京ヤクルトスワローズ17回戦。筆者は現地観戦しておりました。先発がグライシンガーの時はマスクは鶴岡が被ることが常例となっていたので、正捕手の阿部は一塁手として出場しました。

阿部は7回表の守備で途中交代、鶴岡も8回裏に拓さんが代打に起用されて交代、9回表から唯一残った捕手である加藤がマスクを被り、拓さんは二塁の守備に付きました。この時点で2点のビハインド。

今思えばあの日は不思議な力が試合を左右していて、2回に阿部のフライが天井に当たって内野に落ち”3塁内野安打”という珍事があったのですが、9回裏のツーアウトからも神様のいたずらが起こったのです。

9回の裏ツーアウト、最期の望み小笠原の打球は高く高く上がってライトフライとなり、「あ~負けた」・・・・と思ったその瞬間、ポトっとライト前にボールが落ちたのです。

そうです、またも打球が天井に当たりこれが2点タイムリーとなったのです。しかし延長戦となった11回裏、キャッチャー加藤が頭部に死球を受けて退場、12回の表を守る捕手が誰もいなくなるという緊急事態が起こりました

状況を理解したファンがざわつくドームの中、マスクを被って登場したのはなんと拓さんだったのです。それは小さな小さなキャッチャーでした。でも見事に3人の投手をリードし無失点に抑えました。

ベンチへ向かう拓さんの背中を笑顔でパンパン叩いていた監督の嬉しそうな顔ったら・・・、筆者は終電を逃したという悲しいエピソードのおまけつきです。(笑)

コーチとなった木村拓也に突然の悲劇が

それは2010年4月2日17時40分頃の出来事でした。このシーズンから一軍内野守備走塁コーチに就任していた拓さんは、MAZDAスタジアムでの対広島東戦の試合前、本塁付近でシートノック中に突如として意識を喪失しそのまま倒れてしまったのです。

その場で関係者や両チームの選手、救急隊によって蘇生処置を受けた後、広島大学病院に緊急搬送され検査した結果はクモ膜下出血。そのまま緊急入院し意識不明の重体から5日目の7日3時22分に入院先の病院で静かに息を引き取ったのです。

倒れる前の練習の様子や、倒れ込んだ拓さんを心配そうに見守る選手たちの様子をテレビで見ても、そして検査の結果が「クモ膜下出血」と知っても、筆者はまさか拓さんがこんなに早く亡くなるとは思っていませんでした。



拓さんが生死をさまよう間、巨人の選手は拓さんの背番号「84」をつけて、巨人ファンは現役時代の応援歌を、広島ファンも広島在籍時の応援歌をそれぞれ熱唱し、「ガンバレ、ガンバレ、拓也」とエールを送り、復帰を祈っていました。

しかし、そんな切なる願いは届かなかったのです。残された家族はどんなに辛く悲しかったことでしょうか。それを思うと本当に胸が痛みます。奥様の話では、コーチ就任当時の拓さんは、選手時代は弱音などを吐くことがなかったのに、『今日もきつかった』『本当にしんどい』とすごく口にするようになっていたそうです。

さらに亡くなる直前に頭痛を訴えていたというのですから、周囲の人たちは「あの時、無理にでも病院へ行かせていれば・・・」そんな後悔に苛まれたことでしょう・・・。

2010年4月24日の巨人・広島戦で起きた奇跡



4月24日、都内で「お別れの会」が行われ、告別式に参列できなかった巨人の選手や関係者、当日の試合のため東京入りしていた広島の選手も参列しました。同日の対広島東洋カープ戦は「追悼試合」としてドームで開催され、始球式は当時小学5年生だった長男の恒希くんが、「0番」のユニフォームを着て務めたのです。

恒希くんの見事な投球にドーム内はどよめき、マウンドを降りて阿部慎之介と何かを話し、巨人選手一人一人とベンチ前でハイタッチ、最後に原監督と握手をして追悼セレモニーは終了しました。

これには多くのファンが涙しましたね。拓さんもきっと天国から見ていたと思います。試合は広島が先制、6回に阿部のホームランで逆転、7回にまた追いつかれると、8回には広島に勝ち越されてしまいます。



しかし8回の裏、小笠原が四球を選び、ラミレスはライト前ヒット、阿部はアウトになるも長野は敬遠され、1アウト満塁で代打に谷が送られました。谷は拓さんと同級生で同じく途中からジャイアンツのメンバーになったもの同士、日頃から仲が良く、二人がよくベンチ裏で旨そうに煙草を吸っていたと言うエピソードを原監督が語っています。

そんな谷がこの試合に並々ならぬ気持ちで臨んでいたことは容易に想像できました。これ以上ない最高の場面で打席に入った谷の打球は、見事な満塁ホームランとなったのです。

しかも谷にとってはプロ人生初の満塁ホームランだったのですから、やはりあの日あの場所に拓さんは来ていたのでしょう。場内1周の後、恒希君にボールをプレゼントし、抱き合いながら会話していた谷の笑顔は、拓さんと被って見えましたから。

球界屈指のユーティリティープレイヤー木村拓也



拓さんのお墓には、「一生懸命」の文字が彫られています。プロ選手としては小柄で、ドラフト外から野球界に飛び込んだ拓さんは「チームで空いているポジションを探して、必死にそこに入ろうとした」と語っており、何事にも一生懸命な人でした。

シーズン打率3割もゴールデングラブ賞も獲得していませんが、「俊足・強肩・巧打」と、攻守ともに優れたユーティリティープレイヤーとして重宝され、多くのファンに愛された選手でした。

07~09年のチーム三連覇に貢献してくれた拓さん。コーチとなってからの拓さんの事をもっともっと見ていたかった。今でも拓さんを思っているファンはたくさんいます。これからも、拓さんの事はずっと忘れない

そういう思いを抱いているのは、筆者だけではないでしょう。

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