壮絶な幕末の内戦・戊辰戦争の真相に迫る!

数多くの日本の歴史の中で、最も人気が高く、歴史好きや、研究家の心を掴んで離さない幕末。そんな幕末に起きた戊辰戦争は新政府軍と旧幕府勢力による内戦である。今回は明治新政府軍が勝利を収めた戊辰戦争をピックアップした。

戊辰戦争とは

2日目!! 母成峠に来ました!! * 戊辰戦争の中で激戦地だったと言われる母成峠 * 初めて訪れた場所だったけど、空気が違うというか… もうこの山自体が… * これだけ大きい山で新政府軍(西軍)三千人に対して旧幕府軍(東軍)八百人で戦った彼ら凄くないですか!? しかも戊辰戦争があったのは真夏の8月だそうで… 暑い中で山入さすがです💦 * 写真やインターネットだけの情報では無くて実際に訪れてみると感じ方やもっと知りたい気持ちが高まります! * 付き合ってくれた旦那と娘に感謝✨ 私にとっては全く人気のないこの場所が気に入り日が落ちるまででも居たい気分になりました😊 * #母成峠 #母成ライン #母成グリーンライン #会津 #磐梯熱海 #戊辰戦争 #大鳥圭介 #土方歳三 #歴史 #趣味 #新選組 #新選組オタク #幕末 #新政府軍 #薩摩藩 #長州藩 #土佐藩 #大垣藩 #大村藩 #佐土原藩 #旧幕府軍 #会津藩 #仙台藩 #二本松藩 #伝習隊 #会津戦争

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戊辰戦争とは慶応4年/明治元年ー明治2年(1868年ー1869年)に王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力及び奥羽越列班同盟が戦った日本の内戦である。
慶応4年戊辰の年に始まり、維新政府軍と旧幕府軍との間に1年4ヶ月余りに渡って戦われた。正月の鳥羽伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月に江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討伐。
奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月に帰順させた。
翌年の5月、最後の拠点函館五稜郭を陥落させ、内戦は終結、明治絶対主義国家確率への途が開かれることとなった。

旧滝沢本陣

昨日は会津若松観光へ。 途中義母の実家『滝沢本陣』へ立ち寄りました。 ここは茅葺き屋根の建物では日本最古らしく、国の重要文化財に指定されている史跡です。 戊辰戦争の際は官軍が乗り込んできたそうで、家の中は今も刀傷や銃痕があちこちに残っています。 当時は会津藩の殿様、松平容保公が出立される際にお休みされる場所だったそうです。 休み処から眺める庭がお気に入りだったとのこと。 暑い日でも涼しく風通しが非常に良いのは茅葺き屋根だからなのかな⁈ 茅葺などのメンテナンスが大変との事ですが、大切に保存し後世に伝え残していって欲しいと思います。 #ゴールデンウィーク #gw #会津若松市 #会津観光 #滝沢本陣 #会津藩 #本陣 #史跡 #茅葺き屋根 #趣のある #横山家 #松平容保 #重要文化財 #歴史 #戊辰戦争 #戊辰戦争150周年 #instagramjapan #instagram #東北でよかった

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上記写真の旧滝沢本陣は福島県会津若松市にある会津藩の本陣跡である。ちなみに国の史跡に指定されている。戊辰戦争の際は松平容保公が陣を引き白虎隊士が出陣の名を受けた場所。
日本の歴史を知っていく上で、観光がてら、このような史跡を巡ってみることも歴史を知る重要な行動となっていくので、是非おすすめである。
旧若松本陣から白河、江戸に至る旧白河街道沿いにあり、滝沢峠の城下側の上り口にあ理、現存する建物は1678年(延宝6年)に建てられ、当時から会津藩主が白河街道を通る際の休憩所として使用された。
その後も歴代会津藩主の参勤交代をはじめ、領内巡視、藩祖保科正之をまつる土津神社の参詣の際に休憩所として利用されていた。

戊辰戦争の英雄とは

戦争に英雄というのも少々の理不尽を感じてしまう、味方からすれば英雄だが、敵方からすれば侵略者でもある。ただ一般的な目線で幕末という時代は、歴史的に非常に面白い時代だったと云えるだろう。
幕末といえば新撰組の人気や、西郷隆盛や、坂本龍馬、桂小五郎、勝海舟、徳川慶喜といったスター選手ならぬ、人気ある歴史的人物がより歴史に色をつけている。
後述で詳しく、紹介していくが、白虎隊は戊辰戦争に参加した16歳〜17歳の今でいう高校生、幕末の会津藩が組織した舞台には他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊などが知られている。
また彰義隊という、江戸幕府徳川慶喜の警護目的として、渋沢成一郎や天野八郎らによって結成された部隊であるが上野戦争で新政府軍に敗れている。

土方歳三

土方さんネタなんだか龍之介さんネタなんだかわからなくなります。 朝日の夕刊見ました。今、両国の江戸博で全国の発掘品が展示されています。私が見たいのは江差で沈没した開陽丸。「歳三嘆きの松」のあの開陽丸です。ただし期間が23日まで。無茶言えば、休館日無視してあと1日延長してくれれば、お墓参りのあとに迷わず両国で途中下車するのに。まぁ、降りたら降りたで両国橋と両国三丁目、行きますがね。何、この1日差。かなり悔しいんですけど。もう「みだれ髪」と巣鴨帰りのお昼我慢して、江戸博行っちゃおうかな。 #江戸東京博物館#両国#榎本武揚#土方歳三#大鳥圭介#開陽丸#江差#23日まで#せめてあと1日#休館日無視して24日までなら#迷わず巣鴨帰りに両国下車

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土方歳三は戊辰戦争の最後の戦場となった函館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死した、享年35歳であった。幕末の幕臣、新撰組の副隊長、新撰組時代、近藤勇局長の右腕として、数々の事件で武名を顕し、
また隊内に峻厳な規律を実施して鬼の副長と称され、剣豪揃いの新撰組内においても隊士たちに恐れられていた人物である。
戊辰戦争では各地を転戦し、蝦夷共和國では軍事治安部門の責任者に任ぜられて軍才を奮っていた。
幕末の登場人物の中でも根強い人気があり、坂本龍馬や西郷隆盛などの志士達を超えるほどの幕府軍側の人気人物である。

会津若松と白虎隊の悲劇

#会津若松 #会津日新館 #白虎隊

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慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇討ちとなったのだった。本来、予備兵力であった白虎隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度であった。
白虎隊が装備していた火器は旧式の物で(ヤゲール銃、ゲベール銃の短銃身化、前装装条銃)のみだったと云われている。これは火縄銃よりも少しましといったレベルの装備だった。
戊辰戦争の最中、若者兵の投入が焼け石に水なことはだらもが承知のことだったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく白虎隊は各防衛拠点へと投入されたのであった。
各地で苦戦を強いられた白虎隊は最精鋭とされた士中隊も奮闘空しく撤退を余儀なくされた。

松平容保の護衛にも当たった白虎隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けた、戦死者も少なくはなかった。負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びたのだが、この時、ここから眺めた戦闘による、
市中火災の模様を目にし、白虎隊総勢20名が自刃を決行した。一命をとりとめた飯沼貞吉以外19名は死亡したのである。白虎隊、自刃の理由の一つとして、若松城周辺の火災を落城と勘違いしたとされているが、
飯沼氏によると、鶴ヶ城に戻って敵と戦うものと、敵陣に織り込んで玉砕を望むものと意見が分かれたと云う、激論が交わされる中、いずれにせよ負け戦で敵に捕まり生き恥を晒すならば、自刃の方がましと自刃を決行したと云う。
今もなお、若くして命を落とした白虎隊を惜しむ人々は会津若松を訪れる、一命をとりとめた飯沼貞吉はその後、電信技師として1931年77歳まで生きた。

民衆が犠牲となった蛮行戦争

今まで蛮行を行わない戦争はなかったといっても良いのではないだろうか。ほとんどの戦争は人が大勢死に残虐なことが起こり、弱きものが犠牲になり、そこに残るのは悲しみや憎しみである。
当時、どちらの軍にも同じようなことが言えて、相手が弱いと見ると情け容赦なく徹底的に痛めつけていた、軍隊による略奪や、強姦は日常茶飯事で、一説によると、乞食に金を払い、敵の一般人市民を襲わせていたなどと云う説も残っている。
戦争の一番の犠牲者は戦争をしている当人たちよりも、真実を何も知らないまま戦争に巻き込まれていく民衆の老若男女である。白虎隊にしろ若くして戦争に駆り出され、人生の楽しみもないまま自刃に追い込まれる、
歴史を楽しく勉強することはとても良いことだし、筆者も好きな事だが、歴史のほとんどは戦争や何らかの争いがメインである、今現代は平和な世の中だが、改めて戦争は野蛮な行為だと云うことが分かる。人類は戦争をしてはならないのだ。

戊辰戦争のタブーとは

幕末に時代におけるタブーとは何だろうか。一つあるとするのならば、もしも旧幕府軍が勝利していたら日本はどうなっていたのだろうか、ということではないだろうか。まぁ歴史に「もしも」「たら」「れば」はないのだが。
幕府軍と新政府軍の戦において、武力においては幕府軍の方が上だったという意見もあることをご存知だろうか。しかし幕府にはお金がなかったとされている。ここが勝負の分かれ目となったのかもしれない。
もしも幕府軍が勝利していたら、日本の文明開化は遅れていただろう、しかし日本帝国とはならずに後々の世界大戦のような悲劇は起こらなかったかもしれない。(全て仮定の文章となってしまうが)
また幕府が勝利していたら、日本は現在の朝鮮半島のように、二分していたかもしれない、おそらく京都付近を境にして北と南といった感じだろうか、京都より北日本が旧幕府側、南日本が薩長土連合国のような形で。

ということは、文明開化が遅れるであろう北側の旧幕府側が、現在の北朝鮮風で、新政府案を推し進めいた薩長土側は他国との交流もある、いわば韓国のようになっていたのかもしれない。
幕末のタブーとはそういうことだろうか。また幕末は幕府と関係が深かったフランスや、薩長土を支援していたイギリスとの関係があるため、仮に幕府軍が勝っていたとしても、国の事情は複雑になっていただろうとの声もある。
黒船を引き連れてペリーが浦賀沖にやってきた時から、日本の行く末はがんじがらめになる運命にあったのだろうか、歴史をもう一度やり直せるならば、どこをどのようにすればよかったのか考えればきりがない。

幕末と戊辰戦争

徳川幕府は250年間続き、日本史上最も平和が長く続いていた時代とされている。実際250年間内戦が起こらなかったのだ。黒船が来航し、徳川体制に異を唱える力が大きくなり、やがては戦争へと発展し、江戸時代終わりから多くの人々が死んだ。
歴史に「たら・れば」はないのだが、もし織田信長が本能寺で死なず生きた場合、徳川幕府はなかったかもしれないし、どのような国になっていたのか想像もつかない。
多分信長が謀反されず織田時代が今も続いていても、iPhoneは日本にあっただろうな。織田さんは外国のもの好きだし、徳川幕府継続だったならどうだろう、まだ鎖国状態だったのかな。

結局何が正解なのかは分からないけれど、大人になって改めて歴史を勉強してみて分かることは、戦争は人類が犯す最も醜い行為だということが分かった。太平洋戦争しかり、幕末に限らず、戦国時代だって、源平時代だって戦争していた訳で、
今も隣国を巡ってミサイルの問題などあるけど、決して多くの人間が、争いで命を落とすようなことにならないよう、日々精進して行きたいし願いたい。
幕末以降、日本は世界との戦争に参加し、巻き込み、巻き込まれ(順不同)、結果は広島の巨大雲となった訳で、土方歳三はそんなことを考えて死んだ訳じゃないと筆者は考える。決してあのようなことが起こらないようにと、再度戊辰戦争から学んだ。
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